2024年5月9日木曜日

大杉栄とその時代年表(125) 1894(明治27)年11月1日~8日 孫文、ハワイで興中会設立 第2軍第1師団、金州城陥落 米、調停表明 北接東学農民軍(4万)を二手に分ける

 

韓国テレビ番組「緑豆の花」より

大杉栄とその時代年表(124) 1894(明治27)年10月28日~31日 後備歩兵独立第19大隊長南小四郎少佐に渡韓命令 第5師団、鳳凰城占領 第1軍山県司令官、安東着 一葉、禿木から尾崎紅葉校訂本『西鶴全集』を借りる(「大つごもり」「たけくらべ」「わかれ道」などに影響) より続く

1894(明治27)年

11月

孫文、ハワイで興中会設立

清国広東省香山県翠亨村(現中山市)の農民の家に生まれる。孫文が生まれた時は父親は53歳、母親は38歳。9歳のとき父を亡くす。12歳のとき、地域信仰の象徴であった洪聖大王木像を地元の子供らと壊したことから、兄の監督下に置かれることになる。

ハワイ王国に出稼ぎで渡っていた兄の孫眉からの支援を得て、1878年に母と共にオアフ島ホノルルに移住。同地のイオラニ・スクールを卒業し、同市のプナホウ・スクールにも学び西洋思想に目覚めるが、兄や母は孫文が西洋思想(特にキリスト教)に傾倒することを心配し、1883年に中国に戻された。

帰国後、イギリスの植民地の香港にある香港西医書院(香港大学の前身)で医学を学びつつ革命思想を抱くようになり、ポルトガルの植民地のマカオで医師として開業。

清仏戦争のころから政治問題に関心を抱き、この月(1894年11月)にハワイで秘密結社、興中会を組織。

翌年、日清戦争の終結後に広州での武装蜂起(広州蜂起)を企てたが、密告で頓挫し、日本に亡命。

11月

池辺三山、フランスより帰国。

11月

植村正久(キリスト教団指導者)「今回の戦争は、大日本帝国が開進的天職を自ら意識し、これを世界に披露する機会」(福音新報」)。

11月

坪内逍遙(35)「戯曲・桐一葉」(早稲田文学)~28年9月。演劇刷新の志。

11月

泉鏡花『義血侠血』。

11月

斎藤緑雨『新体詩見本』

11月

「資本論」第3巻(第3部)出版。

11月上旬

この頃から野々宮菊子が、一葉に対して横須賀尋常小学校の公用文章の作成や添削を依頼してくるようになる

11月1日

『日本』11月1日

「仁川通信(十月廿三日特発) 仮眠子

(中略) 東徒征伐我兵一小隊を派遣したる事は既に報せり,尚ほ韓廷よりは五百余の兵員を派したりと。」

同日の「電報」欄の「東徒破獄す」

利川の獄舎に繋がれていた「東学党十余名」が破獄逃走を試み,「監守兵曹」が銃殺したとする。同欄のもう一つの記事「東徒金山に集る」は,東学数千人が金山付近に集り,守備兵が撃退したが,「兵站指(ママ)令部傭濱田カンユウ氏戦死したるよし」と戦死者を報じた。

11月3日

第1軍山県司令官、大本営に「制清三策」(積極的冬季作戦)を上申。大本営は既占領地での冬営を命じる。

11月3日

第2軍第1師団金州街道支隊、劉家店を発し蒼家店着。第1師団主力は貔子窩を発し、典家店・窪子店間に到着。

11月3日

狩野亨吉が漱石を訪問。

11月3日

仁川にいた新聞『日本』記者の鳥居素川は,10月26日発の記事(『日本』11月3日) で,東学農民運動について,「慶尚今年凶□にて無頼賤民の徒之に応ずるもの多し」と,慶尚道の凶作が人々を困窮に陥れ,それが清国人よりも日本人排斥に向かっている理由だと説明。また忠清道槐山で蜂起した「東学党一千余名」によって「我憲兵南海某氏鎮撫として赴き直に殺されたり」と報道..

11月4日

第2軍第1師団金州街道支隊、始めて清軍と遭遇、陳家店北方高地を占領。第1師団主力は大黄庄・李家店・楊家店間に宿営。

11月4日

恭親王、英米独仏露の公使に朝鮮の独立・賠償支払を条件に日清戦争の休戦調停を要請

11月4日

『日本』11月4日の「東学党追討」

晋州地方から「生擒の東学党十三名」を護送してきたが,「晋州より河東附近」には「数千或は数百」がすぐに集まり,「未だ全く鎮定に至らず」の状況で,釜山には一小隊半の守備隊しかおらず,「若し相成ることなれば今一中隊の増加を得ば充分の運動を為すを得ん」と。、山兵站司令官今橋少佐は兵力の増派を求めた,と報じた。

11月5日

午前6時、第2軍第1師団復州支隊、千家屯を出て竜口に向う。午前6時30分、師団前衛、蒼家店を発。午前7時、師団本隊、大黄庄を発。金州城前の清軍陣地を陥落させるため、乃木少将は歩兵第1連隊を率い破頭山をめざす。

6日午前6時45分、破頭山を占領。この頃、劉家店支隊は陳家屯付近の清軍陣地を破る。金州城外の清軍陣地を全て占領

11月5日

米、国務長官グレシャム、栗野慎一郎公使に調停の意を表明。報告を受けた陸奥外相はまだ早いと判断。しかし、各国公使(駐露西徳二郎、駐英内田康哉)は列強はこれ以上の戦争継続には反対との報告。

11月6日

午前7時、第2軍第1師団本隊、乾家子を発。十三里台に到着して金州城攻撃を指令。西少将の歩兵第2連隊は、西崔家屯に進み北壁上の清軍を攻撃。午前9時、砲兵第5中隊も北壁を砲撃。この頃、歩兵15連隊が城東北の丘を占領し砲兵第6中隊が東壁を砲撃。更に、歩兵第1連隊第1大隊が東壁を攻撃。

9時30分、清兵が西壁より退却初め(旅順へ)、応戦なくなる。予備隊の歩兵第3連隊は清軍を追撃。10時10分、歩兵第2連隊が北門から城内突入。11時、歩兵第1連隊も東門から進入。金州城陥落。午後4時、第2軍司令部、金州城南の第1師団司令部に到着。

12日、金州に民政庁開設。

11月6日

『日本』11月6日の「東徒を撃退す」

11月3日、瑞興付近で二千余名の東学と2 個小隊が衝突し,少尉以下4名の負傷,1名の即死となったが,撃退したという。

11月7日

~8日未明、第1師団の河野大佐の隊と乃木少将の隊、抵抗なく大連湾の清軍諸砲台を占領。

11月7日

この頃、北接東学農民軍は,約4万と推定される大軍を,忠清道,江原道(カンウォンド),京畿道(キョンギド),慶尚道などから,北接の本拠である忠清道報恩などの地域へ集めた。北接指導部は,この東学農民軍を,二手に分けた。

一手は,全羅道の全琫準指揮する南接東学農民軍主力と連合するために公州へ遠征した勢力である。その指導部には,利川(イチョン)や安城(アンソン)などを本拠とする京畿道東学農民軍がいて、公州で「南北接連合東学農民軍」となる。この南北接連合農民軍は,日本軍と朝鮮政府軍(日本軍第2中隊長,森尾雅一大尉が指揮)の合同軍と第2 次東学農民戦争の最大の激戦,公州戦争を闘う。

もう一手は,忠清道報恩などの地域守備隊になる北接東学農民軍であった。忠清道東学農民軍地域守備部隊は、報恩,文義,沃川,さらに永同(ヨンドン)や黄澗(ファンガン), 青山(チョンサン)など山岳部各地を根拠地とした。この北接東学農民軍地域守備部隊も約2万の大勢力を編成した。

この忠清道,北接東学農民軍地域守備部隊と日本軍討伐隊,大隊本部第3中隊が,文義(ムニ)と沃川,懐徳(フェドク),青山,永同など山岳地域で激戦を闘うことになる。忠清道文義・沃川の大渓谷を中心とする山岳部における第2 次東学農民戦争である。

11月8日

仮名垣魯文(65)、没。


つづく

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