2024年5月8日水曜日

大杉栄とその時代年表(124) 1894(明治27)年10月28日~31日 後備歩兵独立第19大隊長南小四郎少佐に渡韓命令 第5師団、鳳凰城占領 第1軍山県司令官、安東着 一葉、禿木から尾崎紅葉校訂本『西鶴全集』を借りる(「大つごもり」「たけくらべ」「わかれ道」などに影響)

日本軍の電信線を切断する東学農民軍(岐阜日日新聞1894年10月6日号1面掲載)

大杉栄とその時代年表(123) 1894(明治27)年10月21日~27日 日本、英の講和条件打診を拒否(日本の領土的野心に対する懸念) 第3師団、鴨緑江渡河し九連城・安東県占領 第1師団、遼東半島南西岸上陸 可興他で北接東学農民軍の日本軍への一斉攻撃 井上馨公使、漢城着任 川上操六兵站総監命令「東学党に対する処置は厳烈なるを要す,向後悉く殺戮すへし」 より続く

1894(明治27)年

10月28日

花園口に上陸した第2軍第1師団長山地元治中将、1支隊で貔子窩占領。

10月28日

「南部兵站監部陣中日誌」10月28日条にあるソウルの井上馨公使への報告電報


「利川の獄舎に繋きありし彼徒(東学農民軍) 十名は,破獄逃走を企てたるを以て之を銃殺せり」


大本営が東学農民「ことごとく殺戮命令」を出したのが10月27日夜で、その翌日夜8時50分,仁川兵站監の日本公使館宛電報に「昨夜来の情況」の一つとして利川監獄東学農民軍10名銃殺が報告され,のち大本営にも報告された。

その4日後,利川兵站守備隊,田中大尉は,電報で,こうした銃殺を行った利川兵站部を「優勢の東学党(北接東学農民軍)」が襲撃しようとしているという電報を,仁川兵站監と兵站線守備隊司令官,可興(カフン)の福富大尉らに報せて利川に援軍を送らせる。

10月28日

後備歩兵独立第19大隊長に任命された南小四郎少佐、渡韓命令を受ける

10月28日

『東朝』10月28日の第一面「東学党跋扈」は、「竹山牙山鎮川及び全羅道咸悦扶安古阜,慶尚道開寧星州にも同党集合」という。第二面の「東学党の襲撃」では、25日朝「東学党二千余人」が安保兵站部を襲い,守備兵38名が苦戦の末撃退したという。

第二面の情報は,現地部隊からの「電報十月廿六日午后三時五十分聞慶発/仝四時十五分釜山発/仝五時着」 (5時に広島の大本営に着電) と一致する。

『日本』は10月28日付で,これを報じた。10月27日付『日本』は,「東学党の来襲」と題し,1000人の東学党が可興の我が兵站部を襲撃するため,可興東方の「モツケイ右岸迄」襲来したが撃退した。その際1名の憲兵が戦死したという。

10月29日

第5師団前衛立見旅団、抵抗なく鳳凰城に入城、30日占領

(25日、宋慶ら清国軍、鳳凰城に退却するが、兵力弱く、29日に退却、11月1日頃、摩天嶺に着く。)

10月29日

漱石、狩野亨吉を訪問。

10月30日

一葉に小林愛より手紙。神戸の親元に帰っていたが、「広瀬武雄が家督を継ぎ、晴れて結ばれるのを待っており、銘酒屋浦島やへの借金は返済された」とのこと

10月30日

『東朝』10月30日付「東学党に係る報告」(第二面) は,可興・安保など兵站部を狙って攻撃が続き,水原では逮捕者の奪還情報もあり,部隊を適宜派遣していていると報道。

この日は第五面にも東学の詳しい情報が「朝鮮暴徒に関する報告」として掲載。22日に釜山兵站司令官今橋少佐からの電報で,「全羅道より侵入の東徒」は「人員は確知するを得ず」で錯綜しているが,「諸種の徴候に由て推測を下すときハ四五千に上らざるべし」という大規模なもので,「首領ハ金商圭及び金溝人の二名にして尚此二人ハ全羅道にある河孫中金彔斗二名の指揮を仰ぎ居れり」と指導者を名指しする。この鎮圧のため,たまたま釜山港に入ってきた商船白川丸を徴発し,守備兵の内遠田中尉の二小隊藤阪少尉の一小隊憲兵二名朝鮮国監理衙門の官吏二名同巡査十五名」を乗船させ,馬山浦に向かわせた。

10月30日

ドイツ保護領東アフリカ、ヘヘ族の反乱鎮圧。南西部のヘヘ族は、待ち伏せ攻撃でドイツ軍を壊滅させ、ヘヘ族首都カレンガを12kmの防壁で囲む。この日、総督シェーレの討伐軍、カレンガを陥落。首長ムクワワは後4年間ゲリラ戦を継続するが追いつめられて自殺。 

10月31日

第1軍山県司令官、安東着

10月31日

清軍、金州防備の部署を定める。李鴻章配下の徐邦道は東路、同じく趙懐業は大連湾、奉天将軍裕禄配下の連順は金州城。

10月31日

『日本』10月31日付「東徒集報」は,全羅道咸悦県に赴いた日本商人2名が「東徒の為めに暴行を蒙む」ったとし,大邱府から青州に斥候に出た日本兵が「暴徒」11名を「生擒した」とする。

10月31日

漱石の子規宛手紙


小生の住所は先 殿(ママ)通院の山門につき当り左りに折れて又つき当り今度は右に折れて半町程先の左側の長屋門のある御寺に御座候浄土宗の寺にて住持は易断人相見抔に有名な人望田立本といふ 図にて示せば

(図)

大略右の如し午後は大抵閑居す必用なければ何処へも出ず隣房に尼数人あり少しも殊勝ならず女は何時までもうるさき動物なり

尼寺に有髪の僧を尋ね来よ

三十一日 夏目金之助

正岡賢契 座右


10月下旬

一葉、平田禿木から『帝国文庫』の尾崎紅葉校訂本『西鶴全集』上下を借りる。「大つごもり」、「たけくらべ」、「わかれ道」などに西鶴文学の影響現れる

10月18日付の禿木の一葉宛て書簡で、「御約束の鶴(西鶴)全集近きに持参いたすべく」とあり、文学界雑誌社発行『透谷集』も、星野天知の寄贈として届けると書かれている。尚、この年7月、尾崎紅葉・渡部(大橋)乙羽校訂『西鶴全集』(帝国文庫第23・24編、博文館)上下2冊本が風俗壊乱を理由に発売禁止となっている。

つづく

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