2024年5月23日木曜日

大杉栄とその時代年表(139) 1895(明治28)年2月15日~31日 遼河平原掃討作戦始まる 中馬庚(一高二塁手)、「base ball」を「野球」と訳す 子規の従軍決まる 一葉「たけくらべ」(四)~(六)   

 


大杉栄とその時代年表(138) 1895(明治28)年2月5日~14日 東学農民軍討伐作戦終了の記事が登場し始める 北洋艦隊降伏 丁汝昌自殺 「国民新報」従軍記者国木田独歩、「愛弟通信」送稿 海城が包囲から解放される 澎湖島遠征 より続く

1895(明治28)年

2月15日

後備歩兵独立第19大隊南小四郎少佐、この日、石黒大尉へ大屯山 〔正しくは大芚山〕の賊徒を殲滅すべきと命令を下す。

21日、石黒大尉より大屯山の賊徒を殲滅したとの報告を受ける。(経歴書)

2月15日

メイン号事件。キューバ反乱鎮圧のアメリカ艦爆発。米、スペインの関与と攻撃

2月17日

漱石、狩野亨吉を訪ねる。

2月18日

パリ、ドゥルオ館にてゴーギャン(47)の油絵47点の売立て。ドガが2点購入。成功とは言えず。

2月18日

清国、米国公使を通じて、内閣大学士李鴻章を全権大臣に任命したので、両国全権大臣会合の地を知らせて欲しい旨請求。

2月19日

遼河平原掃討作戦始まる

第5師団、順次鳳凰城を出発、黄花甸に向う。

23日黄花甸に集結。24日三家子に向う。

3月2日午前中、四家子まで進む。

この頃、第3師団前衛は鞍山站に到達。

2月20日

一葉、禿木より「たけくらべ」の続稿を催促される。

2月21日

西駐露公使、ロシア外相と会談の上、日本が中国分割を要求すれば露英仏3国から異議の出るのは確実と返電。遼東半島の割取がロシアの干渉を呼ぶのは確実となる。

2月22日

山東作戦軍、撤去。~3月1日、諸部隊は威海衛より旅順口に到着。5日迄に揚陸完了。

2月22日

清国御前会議。講和議論。呼戻され全権に任命された李鴻章は領土割譲に反対(発議したという責任を回避するため)。結論でず。

2月22日頃

一葉「たけくらべ」(四)~(六)脱稿

2月22日

第一高等学校で2塁手だった中馬庚、「base ball」を「野球」と訳す

2月23日

狩野亨吉・菅虎雄が漱石を訪問。3人で菅虎雄の許に行き夕食。

2月24日

午前6時40分、第1師団歩兵第15連隊第1大隊、遼河平原掃蕩前段階として北部大平山占領。8時過ぎ、南大平山村を占領。

2月24日

キューバのバレイ、スペイン支配への反乱、独立革命へ発展

2月25日

子規の従軍が正式に決まる

この日、子規は日本新聞社近辺の肉屋か鳥屋に高浜清(虚子)と河東秉五郎(碧梧桐)を連れて行って別離の宴をはり、神田あたりで別れるとき、「帰ってゆっくりお読みや」といってこの手紙を二人に手渡した。子規は歴史の中で生きることに昂場を感じていた。


「征清の軍起りて天下震駭(しんがい)し、旅順威海衛の戦捷は神州をして世界の最強国たらしめたり。兵士克(よ)く勇に民庶克く順に、以て此に国光を発揚す。而して戦捷の及ぶ所、徒に兵勢振ひ愛国心愈(いよいよ)固きのみならず、殖産富み工業起り学問進み美術新ならんとす。吾人文学に志す者、亦之に適応し、之を発達するの準備なかるぺけんや。僕適(たまたま)觚(こ)餌を新聞に操(あやつ)る。戒は以て新聞記者として軍に従ふを得べし。而して若し此機を従過(とくわ)するあらんか、懶(らん)に非れば即ち愚のみ。傲(がう)に非れば則ち怯のみ。是に於て意を決し軍に従ふ。

「群に従ふの一事、以て雅事(がじ)に助くるあるか僕之を知らず。以て俗事に助くるあるか僕之を知らず。雑事に俗事に共に助くるあるか僕之を知らず。然りと雖も孰(いづ)れか其一を得んことは僕之を期す。縷々の理些々の事解説を要せず。之を志す所に照し、計画する所に考へは則ち明なるべし。足下之を察せよ。」

子規の従軍可否について、「日本」社内で議論があり、健康と体力の不安を理由に不許可に傾きかけていたが、新たに近衛師団の前線派遣が決まり、従軍記者を募る必要が出てきた。

すでに何人も従軍記者が出征しており、適任者が少ない。しかし、近衛師団は、天皇と皇居を守護する禁閲守護および儀使部隊として鳳輩供奉の任を担う栄誉ある部隊で、最精鋭の兵士が集められている。派遣師団の師団長は北白川宮能久親王で、いわば天皇の名代として派遣される部隊である。人手不足を理由に、従軍記者を派遣できないと断るわけにはいかない。それなら、あれほど行きだいといっている子規を行かせたらどうかということになった。幸い、戦争は終結の方向に向かい、その先大きな戦闘行為はないだろう。季節も暖かくなっていく、しかも近衛師団には、子規の旧藩主たる久松定謨(さだこと)伯爵も従軍するという。何かと便宜を図ってくれるだろう・・・・・などなど、いくつかの楽観的観測が重なり子規の派遣が決まったようだ。

2月26日

一葉に宛てて、小林愛から手紙。

〈1月に広瀬武雄から手紙が来て、横浜から船出するが、2~3年のうちに商売を始めるから、それまでは習字やお茶やお花を習いながら待っていてほしい、とのことだった〉という。

2月27日

村上浪六が一葉宅を訪ねる予定であったが、金を貸したくないないためか、とりやめになる。

2月28日

午前4時、第3師団、海城を出発、鞍山站に向う。5時45分、右側支隊が前五道子東北端を占領。6時30頃、歩兵第7連隊(三好大佐)第3大隊第11・12中隊、東沙河沿に突入。6時45分、北沙河沿に突入。7時20分頃、第2・3大隊が白廟子に突入。8時過ぎ、東・西長虎台と平耳房を占領。

2月28日

この日付け子規の海城に出征中の友人五百本良三に宛てた手紙。従軍決定の喜びを書き送る。


「さて小生も先便申上候通りいよいよ従軍に決し、近衛附と略(ほぼ)相定まり申候。・・・皆にとめられ候へども雄飛の心難抑(おさへがたく)、終に出発と定まり候。生来希有の快事に候。

「小生今迄にて最も嬉しきもの

  初めて東京へ出発と定まりし時

  初めて従軍と定まりし時

の二度に候。此上に尚望むべき雄二事あり候。

  洋行と定まりし時

  意中の人を得し時

の喜びいかならむ。前者或は望むペし、後者は全く望みなし。遺憾々々」


2月28日

『文学界』第26号に「たけくらべ」(四)~(六)掲載

2月下旬

一葉、丁汝昌が自殺したという報を聞き悲しむ。

丁は、海戦で日本に敗れ、2月13日、兵士や人民の助命を条件として降伏し、服毒自殺を遂げた。


つづく


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