2024年5月22日水曜日

大杉栄とその時代年表(138) 1895(明治28)年2月5日~14日 東学農民軍討伐作戦終了の記事が登場し始める 北洋艦隊降伏 丁汝昌自殺 「国民新報」従軍記者国木田独歩、「愛弟通信」送稿 海城が包囲から解放される 澎湖島遠征        

 

威海衛の戦いの概略図

大杉栄とその時代年表(137) 1895(明治28)年2月1日~4日 孫文、広州で興中会設立 日本軍、威海衛占領 後備歩兵独立第19大隊本部のある羅州で東学農民軍大量処刑 苛烈な弾圧を命じられた討伐隊下士官・兵士の自殺・逃亡・発狂 より続く

1895(明治28)年

2月5日

連合艦隊、威海衛湾口の劉公島に隠れている北洋艦隊攻撃。

午前3時、第2・3水雷艇隊、威海衛軍港の東口防材に到着。湾内侵入の第3水雷艇隊の第23・5・10・9号艇が水雷発射。午前8時、連合艦隊本隊と第1・2遊撃隊、「定遠」が傾いているのを発見。6日午前4時、第1水雷艇隊第23・11号艇ら湾内潜入し「来遠」「威遠」撃沈。7日8時30分、南岸諸砲台が日島砲台を砲撃、火薬庫爆発。8日9時30分、砲撃により「靖遠」撃沈。10日以降、砲撃続く。

2月6日

大本営、野津第1軍司令官の要請により第1師団(山地時団長)残部の北進(蓋平へ進軍)決定。

2月8日

狩野亨吉・菅虎雄が漱石を訪問。

2月10日

「全羅道南部東徒鎮圧報告」(『日本』2月10日付)

釜山守備隊にあてられていた後備歩兵第10聯隊第1大隊の第4中隊(中隊長鈴木彰大尉) から大隊長の今橋少佐宛の報告で,「釜站報第1号全羅道南部東徒鎮圧の報告第3」が原文である。原文を正確な根拠と考えると,「波青駅」とあるのは「波音駅」,宝城郡南部の村落名「曹春洞」は「富春洞」である。14日に海倉山上で「将に竣工せんとする家屋四戸」を発見し,「賊徒屯集の用に供せんとする」ものという判断で「悉く之を崩壊せり」とあるが,原文は「悉ク之ヲ放火セリ」とある。また第18大隊の教導中隊(日本軍が指導している朝鮮軍部隊) が竹川洞付近で「三四百の敵」を撃破したが,「京城の韓兵百名」が同中隊の跡を追って宝城郡に来た,とあるが原文では,「京城ノ韓兵八百名」とある。この報告の中には「同地方(注:海南地方)は漸次鎮静の報あり」など東学の勢いが弱まっている表現がいくつか見られる。実際に東学の勢いは弱まりつつあった。

「鳳山附近の東徒征討」と「東徒討伐報告」(『日本』同日付け)

前者は,黄海道の鳳山付近の制圧報告で,仁川の今橋兵站司令官からの電報。

後者は、大邱守備隊である後備歩兵第10聯隊第2中隊の三宅剛義中隊長からの戦闘報告。1月12日,三宅大尉率いる1個分隊と朝鮮兵200名,さらに桑原少尉率いる2個分隊で,鐘谷付近の夜襲を決行し,東学1万人を敗走させ,翌朝9時半占領に至ったというもの。「東徒の死数百(内夜襲の際剣殺するもの数十,又尚州韓兵の報告に拠れば首領鄭載俊及び仁奎洪も此役に死せりと)。分捕牛馬数十,武器等数多なり。」という。12時間にも亘る長時間の戦闘で,「戦酣なるに及び,彼は我両翼に進み,殆ど包囲の形と成れり。或は中央を衝かんとする数回。一時勢力猛烈を極むと雖も,我兵奮闘之に当る。」という戦闘状況など年を越えても東学の強い勢いが認識されていた。

『日本』(『東朝』も同様)が掲載する戦闘報告記事もはこれが最後となる。以後,『東朝』・『日本』二紙には東学殲滅作戦の専従部隊が,作戦終了により引き上げるという記事が,2月中旬から登場するようになる。まだ全体を制圧したわけではなかったが。


「東学党ハ大半鎮定したるに付征討日本兵ハ皆引揚げたり」(『東朝』2月13日)

全羅道南部派遣の鈴木大尉の中隊(釜山守備隊),2月6日釜山へ帰途に(『日本』2月14日,『東朝』2月15日)

「忠清・全羅・慶尚三道の東学党ハ大半鎮定したるに依り我征討軍ハ去る七日羅州を発し帰京の途に(『東朝』2月20日)

「東学党征討の我兵本日帰京せり」(『東朝』2月22日) 2月13日漢城発の郵便による。

漢城駐屯の独立第18大隊より派出していた3個中隊のうち,江原道方面の1個中隊は引揚げ,13日漢城到着(『東朝』2月26日)

後備歩兵第19大隊の引揚げ,3月2 漢城到着,国王の慰労勅使派遣(『日本』・『東朝』3月5日)

忠清道の山村大尉の部隊は任地に帰らせる予定(同上)

2月10日

仏、世界初のガソリンエンジントラック走行。

2月11日

紀元会が学士会事務所で開催され、漱石出席。狩野亨吉・菅虎雄・小屋(大塚)保治・米山保三郎・立花銑三郎・岩岡保作・堀内某の8名出席。

2月12日

北洋艦隊降伏

早朝、清国砲艦「鎮北」により「広乙」艦長程壁光が北洋水師提督丁汝昌の請降書を届ける。丁汝昌、自殺。14日、降伏規約決定。17日、接収。

日本艦隊の水雷艇部隊が防材をかわして泊地へ侵入し、至近距離から魚雷攻撃を敢行すると、威海衛湾に安全な場所はないと悟った清軍の水兵は反乱を起こし、清軍の陸兵と清国へ派遣されていた外国人軍事顧問は北洋艦隊の丁提督に降伏を求めた。2月11日、降伏を拒否していた丁提督は李鴻章に宛てて「艦沈ミ人尽キテ後チ己(や)マント決心セシモ、衆心?乱今ヤ奈何(いかん)トモスル能ワサル旨」と決別の打電を行った後に服毒自決した。翌12日には「定遠」艦長と劉公島の地上部隊指揮官も自決した。

抗戦派幹部の自決後、包囲されていた清側は、伊東祐亨連合艦隊司令長官に丁汝昌名義の請降書(2月12日付け)を提出した。

14日、清軍の降伏と陸海軍将兵の解放について両軍が合意し、15日に調印が行われた。

17日、清の陸兵すべてが日本軍の前哨線外に解放され、商船「康済号」が丁汝昌の亡骸と清国海軍将兵1,000名余りと、清国側の外国人軍事顧問将校を乗せて威海衛湾から出航した。作戦を完了した日本軍は、劉公島だけを保持することとし、砲台など軍事施設を爆破した。作戦に参加した第2・第6の両師団は、第二期作戦にそなえて旅順に移動した。(wikipediaより)

「国民新報」従軍記者国木田独歩、軍艦「千代田」に乗り込んで「愛弟通信」を送稿。「今朝(二月十二日)また彼の砲艦来たる。十一時、旗艦の信号にいわく、丁汝昌(北洋水師提督)死すと。ああ丁汝昌は死せり。彼は国のために殉じたるなり。すでに丁汝昌死す。北洋艦隊は全滅したるなり。威海衛は陥落したるなり。開戦今日に至るまで敵の敗亡滅燼、その数を知らず。しかも北洋艦隊はもっとも見事なる最後を遂げたるなり。大日本帝国万歳!」(「国民新報」2月23日)。

2月13日

小屋保治と大塚楠緒子の結納

2月13日

この日付け禿木の一葉宛て手紙。無沙汰を恨み、来訪を促す。禿木は、帝国大学進学を断念した失意の中で、師範学校受験の準備に忙しかった。


「扨この春のたけくらべは誠に誠におもしろく拝見致し毎夜くりかへしてあく事を知らぬはまさに松寿軒(西鶴)のひときはさつぱりとせし御筆の跡とたどられ如何(ドウ)しても都の花以来の御傑作と珍重罷在候(マカリアリソウロウ)あのあと是非共今月も御見せ下され度しきりに待ち焦れをり候」(明治28・2・13付)

2月14日

海城救援のため、第1師団主力が太平山で牽制作戦。

24日、勝利してようやく海城の包囲を破る

2月14日

大本営、混成支隊司令官比志島大佐に澎湖島遠征出動を訓令。

20日、伊東連合艦隊司令長官に澎湖島占領・馬鞍群島(揚子江口東南)以南の制海権掌握命じる。

つづく


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