2024年6月26日水曜日

大杉栄とその時代年表(173) 1895(明治28)年12月1日~9日 第9議会(「藩閥の政党化」「政党の藩閥化」) 軍事費は前年比43.5% 財源は清国賠償金・公債・増税 道濯山事件(Ⅰ)

 

歌川広重「東都名所 道灌山虫聞之図」(国立国会図書館デジタルコレクション)

大杉栄とその時代年表(172) 1895(明治28)年11月15日~30日 樺山資紀初代台湾総督、台湾鎮定を大本営に報告 抗日武装闘争はなお続く(~1902年) 政府・自由党の提携 提携報酬(「めざまし新聞」と本部建物買取費用など)は内閣機密費より支払い より続く

1895(明治28)年

12月1日

康有為・梁啓超らの変法運動、保守派を避け南下。この月、「上海勉学会」設立。

12月

第9議会開会(~明治29年3月)。

「藩閥の政党化」「政党の藩閥化」が同時進行。

政府提案の明治29年度予算案は、自由党・国民協会の賛成により31万円のみの削減で議会通過。歳出は2億円超(戦前の2倍半)。軍事費は前年度27.6%が43.5%に増加財源は清国賠償金・公債・増税。営業税を国税に移し、登録税新設、葉煙草専売実施、酒造免許税を酒造税に改め税率アップ、関税定率法制定などにより3500万円増収計画。雑税整理による減額を考慮した純増額は2640万円で戦前税額の37.7%となり、国民生活を圧迫

後、東京商業会議所は国民の負担増について「民力の堪うる所にあらず、国勢の伸張を阻害する」と決議。

政府は自由党との提携により陸海軍拡張計画・産業基盤培養計画とこれらを支える増税計画への支持で、自由党は政府提出の諸計画を全面的に支持。但し、自由党の支持には、増税税目から地租を除くという条件を付ける。「第九回議会自由党報告書」(党機関誌)は、「我党ハ予メ考案ヲ立テ、今日農民ノ負担ヲ増加スルハ我国ノ利益ニ非ラス、且ツ我党ノ持論ニ非サルヲ以テ、地租増加ノ如キハ断シテ之ヲ斥ケリ」という。

しかし第2次伊藤内閣が立案した「戦後経常」計画は地租増徴を不可避とし、この計画を継承した歴代内閣は、衆院多数派を基礎とする隈板内閣も含め、政党勢力に対決して地租増徴に取り組まざるをえない。第2次山県内閣と提携した憲政党星亨のリーダーシップにより地租増徴のタブーが破られる

自由党が政府との提携に期待したものは、地方制度、選挙制度、治安法令等の改革(自由化)。自由党は政府との交渉に際し、発行停止処分廃止を盛り込んだ新聞紙条例改正、保安条例・予戒令廃止を要求するが、政府側はいずれにも難色を示す。

前者については、現行法規の本質に触れない緩和的措置を挿入した改正案を提出するが、衆院・貴院共にこれを否決。新聞紙条例改正は、次期の第2次松方内閣下において、これと提携した進歩党によって継承される。

後者については、政府は両法令を廃止し、これらに代る新しい治安立法(「治安警察法」)を提案。この法案は、第2次山県内閣下で成立する治安警察法の一面を先取りしたもの。第9議会に提出された「治安警察法」案は、治安法令自由化に反対する貴院の多数が否決。地方制度および選挙制度改革は、それぞれ郡制改正案および衆議院議員選拳法改正案として政府が提案するが、貴院最長多数派の研究会幹部清浦圭吾によれば、貴院はいずれも「政府が自由党の歓心を求むる為めに同意を表したるの痕跡あり」として否決。「第九議会自由党報告書」は「政府ハ我党ノ説ヲ容ルル所アルモ、貴族院ノ之ニ反対スルカ為メニ、之ヲ実行スルヲ得サリシハ我党ノ最モ遺憾トスル所ナリ」と結論する。

12月

八代六郎、公使館付武官、ペテルブルグ着、4年在住

12月

幸田露伴『ささ舟』

12月

国木田独歩と佐々城信子、知り合って5ヶ月で結婚。佐々城家の条件:1年間東京を立ち退くこと、佐々城家との絶縁。翌年4月24日離婚。

12月

ヴァニエより「アルチュール・ランボー全詩集」出版。ヴェルレーヌ序文。

12月上旬

民友社の国木田収二から一葉に対して寄稿依頼

12月3日

一葉、関如来より「月曜附録」の督促。また、縁談相手を紹介するよう再度依頼される。

3日以降、関如来と野々宮菊子の縁談が具体化する。

12月5日

一葉、孤蝶に2ヶ月ぶりに手紙を出す。無沙汰を詫び、年末に帰郷の予定があれば伝えてくれるようにと頼む。

12月7日

(7日以降)中島歌子揮毫の扇子を齋藤竹子に届ける。

12月7日

エチオピア侵入のフランス軍、敗北

12月8日

袁世凱、新建陸軍創建

12月9日

道濯山事件

子規、虚子(21歳)を道灌山への散歩に誘い俳句革新運動の後継者となることを要請するが断られる。子規は激しく落胆する。


「、、、、、子規は一ケ月後の十二月九日、虚子を呼んだ。

「少し話し度いことがあるが、うちよりは他の方がよがろう」と子規は例のヘルメット帽を被って出た。腰が痛むのに、根岸から御隠殿坂を上がり、谷中墓地を抜けて諏方神社の境内へ行った。たぶん一キロではきかない。

「稲は刈り取られた寒い田甫を見遥るかす道灌山の婆の茶店に腰を下ろした。」

いまはこの日暮里の低地はことごとくビルや家で埋め尽くされている。この茶店は、村落共同体が夫をなくした妻のたつきの道として権利を与えていたものである。子規は茶店の婆さんに「お菓子をおくれ」といった。

「どうかな、少し学問が出来るかな」子規はいった。虚子にはいいたいことがわかっていた。しかし二十一歳の元気な虚子は、残り二、三年の命と覚悟した、足の立たない子規の気持ちに同調できなかった。「私は学問をする気は無い」と長い沈黙のあと虚子は断言した。「それではお前と私とは目的が違う」。後継者と思うことは今日限りやめる、と子規はいった。

子規には失望が、虚子には慚愧がにじんだ。これを道灌山事件と呼ぶ。

子規は学校向きではなかったが、自分で課題を設定すればどこまでも自ら本を読み、学ぶ男だった。これに対して虚子は自分は読書子ではないという。「余の弱味も強味も・・・若し其がありとすれば - 何れも此の非読書主義の所に在る」。読まなくても表現は出来る、と虚子は思った。

虚子は子規を御隠殿坂の下まで送っていった。そして自分はとぼとぼと上野の山を引き返し都の中心部にむかった。後継者とすることは断念したが交流は絶えたわけではない。

虚子の若いころの写真を見ると容貌は整い、愛婿も爽やかさもあるし、健やかな体躯を持つ青年に見える。その通り、彼は長生きをし、一時は小説家を目指したが俳句に戻り、「ホトトギス」を主宰して生涯二十万句を詠み、たくさんの門人を育て、ときに破門した。戦中戦後の四年は小諸に避け、戦後まで長らえて文化勲章や勲一等を受け、満八十五歳でなくなった。芦屋や鎌倉、小諸にも記念館がある。

いっほう子規のもう一人の愛弟子、河東碧梧桐は、子規が虚子に「一緒にいてはいけぬ」といったほどの仲の良いおみきどっくりであったのにやがてあることから、虚子と袂を分かち、感情もこじれていった。

碧梧桐の写真を見ると、痩せ型で狷介な風貌である。子規の恩師河東静渓の五子で、三兄竹村鍛は子規の五友の一人、四兄可全も子規の友人であった。後から知った虚子を子規が後継者と見込んだことに複雑な思いがあったろう。のちに碧梧桐は自由律の俳句を主唱して、多くの弟子を育て「碧門」といわれたが還暦で引退を表明、六十三歳でなくなった。特段の栄典は授与されていない。」(森まゆみ『子規の音』)


つづく



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