2024年7月1日月曜日

大杉栄とその時代年表(178) 1896(明治29)年1月6日 文名が上がり世間に騒がれ始めた一葉の戸惑いと自戒 もう引き返せないという覚悟 「われはいちじるしく「うき世の波」といふものを見そめぬ。しかもこれにのりたるを、いかにして引もどさるべき。」

 

一葉『わかれ道』(「国民の友」)

大杉栄とその時代年表(177) 1896(明治29)年1月1日~5日 トロツキーの革命運動の第一歩 乙末義兵(朝鮮義兵闘争) 芝山巌事件(台湾) 一葉「この子」「わかれ道」 漱石・鴎外、子規の句会に参加 より続く

1896(明治29)年

1月6日

星野天知が、『文学界』の新年会に一葉と三宅花圃に対し「別席しつらへおきぬ」との招待するが、「さる所には、はしたなう立出づべきにはたあらねば断りいひやりて」欠席。花圃も欠席。一葉は古い倫理感、規範を変えようとはしない。


「六日に、『文学会』の新年宴会などいふ事ありき。「われと三宅ぬしには別席しつらへおきぬれば、かならず出席あらまほしき」よし、星野ぬしよりいひこされたれど、きる所にはしたなう立出づべきにはたあらねば、断りいひやりて我れはえ行かぎりしに、たつ子ぬしにも同じこと断り成しよし。こゝの間に心をかしからぬ事あれば、馬場ぬしも、「え行かじ」などいひ居られしものから、さもいなみあへて、出席有けるよし。有様いか成けん。」

(馬場氏は星野氏との間に面白くないことがあって最初は行かないといっていたが、そうも断りきれず出席されたとのこと。どんな様子だっただろうか。)


「こぞの秋、かり初(そめ)に物しつる「にごり江」のうわさ、世にかしましうもてはやされて、かつは汗あゆるまで評論などのかしましき事よ。「十三夜」もめづらしげにいひさわぎて、「女流中ならぶ物なし」など、あやしき月旦(げつたん)の聞えわたれる、こゝろぐるしくも有かな。しぱしばおもふて、骨さむく肉ふるはるゝ夜半もありけり。かゝるをこそは、うき世のさまといふべかりけれ。かく人々のいひさわぐ、何かはまこと至とのほめこと葉なるべき。たゞ女義太夫に、三味の音色はえも聞わけで、心をくるはするやうのはかなき人々が一時のすさびに取はやす成るらし。されども、其声あひ集まりては、友のねたみ、師のいきどほり(*)、にくしみ、恨みなどの限りもなく出来(いでき)つる、いとあさましう情なくも有かな。虚名は一時にして消えぬべし。一たび人のこゝろに抱かれたるうらみの、行水(ゆくみず)の如く流れさらんか、そもはかりがたし。われはいちじるしく「うき世の波」といふものを見そめぬ。しかもこれにのりたるを、いかにして引もどさるべき。あさましのさま少しかゝばや」

*中島歌子は「緑陰著話」に「にごりえ」について、「場所がきたなくて、それに人間がどうやら活きて居ません様で」と酷評を述べている。

(去年の秋、軽い気持ちで書いた 「にごりえ」が世間を騒がせるまでもてはやされて、またその反面、あまりにやかましい程の評論に汗のにじむような思いもするのでした。また十二月発表の 「十三夜」も褒め騒がれて、女流作家中並ぶものがないと、大変な批評が聞こえてきて本当に心苦しい。思えば思うほど骨も肉も震え上がるような夜もあったのでした。これをこそ人生の姿というのでしょうか。こんなに人々が言い騒いでいるのが、どうして本当の褒め言葉でしょうか。例えば、女義太夫の三味の音色も聞き分けられないくせに、すぐ夢中になるような人たちが、ただ一時的に熱狂して褒めはやしているようなものでしょう。しかし、そういう声でも沢山集まると、友のねたみや、先生の怒り、憎しみ、恨みなどが次々に出てくるのは本当に嘆かわしく情けないことよ。虚名はしばらくの間のことであってやがては消えてしまうでしょう。しかし、一度人の心に抱かれた恨みは、果たして行く水のように流れ去るでしょうか、それはとても望めないことです。私は今はっきりと浮世の波の姿を見そめたのです。しかもその波の流れに乗ってしまった以上、どうして引き返すことが出来ようか。その嘆かわしい浅ましい世の有様を少し書こうと思う。)


「日ごと訪ふ人は花の如く、蝶の如きうつくしの人々也。大島文学士が奥がたのやさがたなる、大はしとき子の被布(ひふ)すがたわかわかしき、今は江木が写真師の妻なれど、関えつ子の裾もやうでたち、同じく藤子が薄色りんずの中振袖、それよりは花やかなる江間のよし子が秋の七草そめ出したる振袖に、緋むくを重ねしかわいのさまもよく、師はん校の両教授がねづみとひわの三まい着、取々(とりどり)にいやなるもなし、一昨年(おととし)の春は、大音寺前に一文ぐわしうりて、親せき近よらず、故旧(こきう)音なふ物なく、来る客とては悪処(あくしよ)のかすに舌つヾみ打つ人々成し。およそ此世の下(しも)ざまとて、かゝるが如きは多からじ。身はすて物に、よるべたきさま成けるを、今日(けふ)の我身の成(なり)のぼりしは、たゞうき雲の根なくして、その中空(なかぞら)にたゞよへるが如し。相あつまる人々、この世に其名きこえわたれる紳士、紳商、学士、社会のあがれる際などならぬはなし。夜更て、人定まりて静におもへば、我れはむかしの我にして、家はむかしの家なるものを、そもそも何をたねとしてか、うき草のうきしづみにより、人のおもむけ異なる覧(らむ)。たはやすきものはひとの世にして、あなどるまじきも此人のよ成り。其こゑの大ひなる時は千里にひゞき、ひくきときは隣だも猶しらざるが如し。」

(毎日私を訪ねてくる人は、花や蝶のように美しい人々ばかり。大島文学士夫人みどりのすらりとした姿、大橋乙羽夫人とき子のお被布姿の若々しさ、今は江木写真館主人の妻であるが関悦子の裾模様姿、その妹藤子の薄色の綸子(りんず)の中振袖姿、江間よし子の秋の七草を染め出した振袖に緋無垢を重ねた可愛らしい姿、女子高等師範学校の安井哲子・木村きん子両教授の鼠色と鶸(ひわ)色の三枚重ね着の姿、皆それぞれに美しく嫌なものは一つもない。一昨年の春は吉原の大音寺前で駄菓子を売っての生活で、親戚も近よって来ず、旧い知人も訪ねてくる者もいなかった。来る客といえば品の悪い下町の貧しい人々ばかりでした。社会の下層階級の人でもこんな人は多くはいなかったでしょう。わが身は世間から見捨てられて、頼る所もない有様であったのに、今の私の成り昇った姿は根のない浮雲が大空に漂っているようなものです。今集まってくる人々は世間に名高い立派な紳士、商人、学士という上流社会の人ばかりです。人々が寝静まった夜更けに静かに思えば、私は昔のままの私であり、家も昔のままなのに、そもそも何が原因で人の身は浮草のように浮き沈みするのだろうか。思うに生きるのに容易なのも人の世であり、また侮ってはいけないのも人の世です。その声が大きい時は千里四方にまで響き、その声が低い時は隣りの人さえも知らないようなものです。)


「『国民のとも』春季付ろく書つるは、江見水蔭、ほし野天知、後藤宙外、泉鏡花および我れの五人なりき(*)。早くより人々の日そゝぎ、耳引たてゝ、これこそ此年はじめの花と待(まち)わたりけるなれは、世に出るよりやがて、沸出(わきいづ)るごとき評論のかしましさよ。さるは、新聞に雑誌に、いさゝか文学の縁あるは、先をあらそひてかゝげざるもなし。一月(いちぐわつ)の末には、大かたそれも定まりぬ。あやしうこれも我がかちに帰して、「読書社会の評判わるゝが如し」とさへ沙汰せられぬ。評家の泰斗と人ゆるすなる内田不知庵の、ロを極めてほめつる事よ。皮肉屋の正太夫が『めざまし草』の初号に書きたるには、「道成寺」に見たてゝ、「白拍子(しらびやうし)一葉、同宿水蔭坊、天知坊、何がし、くれがし」と数へぬ。へつらふ物は万歳万歳とゝなへ、そね(おもて)む人は面を背けて、我れをみる事仇(あだ)の如かり。

*「国民之友』(明29・1・4刊)付録。江見水蔭「炭焼の煙」、星野天知「のろひの木」、後藤宙外「ひたごゝろ」、泉鏡花「琵琶伝」、一葉「わかれ道」が掲載

(「国民之友」春季附録に書いたのは、江見水蔭、星野天知、後藤宙外、泉鏡花と私の五人でした。早くから人々が注目し耳を立てて、これこそ今年の最初の文学の花と待ちかねていた雑誌なので、発宣されると同時に涌き出るような評論の、何と騒がしいことよ。少しでも文学に関係ある新聞雑誌では、先を争って載せないものはない。一月の末には大体の評価も決まった。そして不思議にも私の勝利となって、読書人の間では破れるような大評判だとまで噂された。評論家の泰斗と人も認めるあの内田魯庵が口を極めて褒めていたし、皮肉屋の斎藤緑雨が「めざまし草」創刊号に書いたのには、歌舞伎の道成寺に見たてて、「白拍子一葉、同宿水蔭坊、天知坊、何某、何某」と数えたてていた。褒める者は万歳々々と唱え、憎む者は顔をそむけて私を仇敵のように見るのでした。)


「「にごり江」よりつゞきて、「十三夜」「わかれ道」、さしたる事なきをばかく取沙汰しぬれば、我れはたゞ浅ましうて物だにいひがたかり。「此二十四、五年がほどより打たえ寐(ね)ぶりたるやうなる文界に、妖艶の花を咲かしめて、春風一時(いちじ)に来るが如き全盛の場(ば)、舞台にしかへしたるは、君が一枝(いつし)の力よ」など、筆にするものあり、口にする者あり。「いかなる人ぞや。おもかげ見たし」など、つてを求めて訪ひよるも多く、人してものなど送りこすも有けり。雑誌業などする人々は、先をあらそひて、「書きくれよ」の頼み引もきらず。夜にまざれて、我が書つる門標ぬすみて逃ぐるもあり。「雑誌社には、我が書たる原稿紙一枚もとゞめず」とぞいふなる。そは、「何がしくれがしの学生、こぞりて貰ひにくる成り」とか。「閨秀小説のうれつるは前代未聞にして、はやくに三万をうり尽し、再はんをさへ出すにいたれり。はじめ大坂へはかり七百の着荷有しに、一日にしてうれ切れたれは、再び五首を送りつる、それすら三日はたもたざりしよし。このほど、大坂の人上野山仁一郎、「愛読者の一人なり」とて尋ね来つ。かの地における我がうわさ語り聞かす。「我党崇拝のものども打つどひて歓迎のもうけなすぺければ、此春はかの地に漫遊たまはらばや。手ぜまけれども別荘めきたるものもあり。いかでおはしませ」などいざなふ。尾崎紅葉、川上肩山、江見水蔭および我れを加へて、二枚折の銀屏(ぎんびやう)一つはりまぜにせまほしく、「うらばりは大和にしきにして、これをば『文学屏風』と名づけ、長く我家の重宝にせまほし。いかで原稿統一ひら給はらばや」など切にいふ。「金子御入用の事などもあらは、いつにても遠慮なく申こさせ給へ。いかさまにも調達し参らする心得也」などいふ。「ひいきの角力に羽をり投ぐる格(かく)にや」とをかし。」

(「にごりえ」に続いて「十三夜」「わかれ道」と、それ程でもない作品を、このように大げさに取り上げるので、私は驚いて物も言えない程です。

「この二十四、五年以来すっかり眠っていた文壇に妖艶の花を咲かせ、春風一時に吹き来るような全盛の舞台にしたのは君の作品の功績による」

などと筆にしたり、口にする者もいる。どんな人か顔を見たいといって、つてを求めて訪ねて来る者も多く、人を介して物を送ってよこす者もいる。雑誌の編集者たちは先を争って原稿依頼に来る者が後を絶たず、夜の闇に紛れて私が書いた門標を盗んで行く者もあり、雑誌社では私の書いた原稿が一枚もなくなったという。それは学生の誰やら彼やらが貰いに来るためだとか。「文芸倶楽部、閨秀小説特集号」が売れたのは前代未聞で、既に三万部を売り尽くし、再版をさえ出すに至った。初め大阪へだけ七百部送ったのが一日Hで売切れたのであと五百送ったが、それさえ三日ともたなかったとのこと。先日は阪の上野山仁一郎という人が、愛読者の一人だといって訪ねて来て、大阪での噂を話してくれた。

「我々、先生を崇拝する者たちが集まって歓迎会を催そうと考えていますので、この春にはおいで頂きたいものです。手狭ですが別荘らしいものもありますので、是非お出かけ下さい」

と誘いをかけてくる。

「尾崎紅葉、川上眉山、江見水蔭、それに私を加えて、二枚折りの銀屏風を一つ、貼り混ぜの形で作りたく、裏は大和錦にして、これを文学屏風と名づけて、長く家宝にしたいと思うのです。是非、原稿紙一枚で結構ですから頂きたいのです」

と、しきりに言う。また、

「お金がご入用の時などがありましたら、いつでもご遠慮なく申し越し下さい。どのようにでも準備いたす考えです」

などと言う。謂はば、贔屓の力士に羽織を脱いで投げるやり方と同じだと、面白く思ったのでした。)


つづく



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