1896(明治29)年
トロツキー(17)が政治活動(革命運動)の第一歩を進める。
実科学校7年生の時、学校がオデッサではなくもっと田舎のニコラーエフにあり、ここに移る。
この頃のロシアは古いナロードニズムとマルクス主義の狭間にあり、トロツキーはここで、マルクス主義に惹かれた青年や警察監視下にある元流刑囚と知合い、非合法パンフレットや発禁本を読む。また、ミル「論理学」、リッペルト「原始時代の文化」、ベンサムの功利主義、チェルヌイシェフスキーの現実主義美学、ミニュエ「フランス革命史」などを読む。モスクワの自由主義新聞「モスクワ報知」により西ヨーロッパの政治・議会・政党の知識(ベーベル、オイゲン・リヒター、ダシンスキ)を知る。
公共図書館の値上げ反対運動(成功)。相互教授による学校創立(20人集まるが、失敗)。
この年秋、一旦故郷に戻り、オデッサを経てニコラーエフに戻る。
1月
朝鮮、乙末義兵。義兵闘争各地に起きる。
江原道春川で蜂起の李昭応らは断髪して赴任した官吏を処断。京畿道・咸鏡道に進出。忠清道堤川では柳麟錫率いる部隊が親日的地方官を攻撃。柳麟錫は李恒老(1792~1868)門人。京畿道砥平・江原道原州・慶尚道聞慶で決起した義兵は合流し、彼を総大将とする。堤川中心に忠清・江原・慶州3道が接する小白山脈づたいの農村で活動、一時は忠州城を占領、忠清道監察使を処刑。
しかし、各地で日本軍守備隊・政府軍に敗れ、5月に堤川陥落。柳麟錫は満州に逃れ再起を期す。義兵指導者(義兵将)には儒者が多く反日・反侵略的・反変法的で、王が叛乱罪を不問にし断髪令を中止すると解散。
しかし、義兵大衆は「火賊」「活貧党」「東匪」と表現される活動継続。10月、これら初期義兵闘争は終結。
1月
「上海勉学会」、「勉学報」発行(3号)のみ。西太后、「勉学会」解散命令。
1月
片山潜、アメリカより帰国(16年滞在)。
1月
陸軍士官学校に初めて外国人士官が入校。韓国士官11名が入校。清国からは明治33年12月が初めてで、40名が入校。
1月
坪内逍遙(37)「戯曲・牧の方」(「早稲田文学」)~明治30年3月
1月
「新文壇」発刊
1月
「にごりえ」評。
「作者一葉樋口氏は処女にはめづらしき閲歴と観察とを有する人と覚ゆ」(帰休庵、明治29年1月「国民之友」)"
1月1日
芝山巌事件(台湾)
日本人が建設した小学校(芝山巌学堂)の日本人教師6名と用務員1名が抗日ゲリラに殺害された事件。
1月1日
漱石が神楽坂下の飯田町に旧友狩野亨吉を訪ねる途中、人力車で神楽坂の寄席の前を通りかかると、坂下の方から上ってくる3台の車に乗った中根鏡子とふたりの妹、時子、梅子と行き合う。彼女らは、内幸町の官舎から祖父の居る矢来町の中根私邸に年始に向うところだった。漱石も鏡子も相手に気づいたが、江戸っ子なのにシャイ、少し気どり屋のところがある漱石は挨拶しなかった。
狩野亨吉を訪ねるのは、1月3日に狩野らが第一高等中学校同期、紀元会の会合をするのだが、この日は子規宅で句会がある。できれば会合を4日か5日に延期してもらいたいが、自分のために流会となるくらいなら、自分は不参となるが3日に実行しても構わない、と伝えるためであった。
1月1日
衣笠貞之助、誕生。
1月1日
一葉「この子」、「日本乃家庭」第2号付録に掲載。
〈引用〉
私は生れて間もないこの子が可愛くて仕方がありません。それどころかこの子に感謝しているのです。
私は三年前に裁判官山口昇のもとに嫁ぎました。当座は仲が良かったのですが、馴れるにつれてお互い生地が出てきてうまくいかなくなりました。
私は生来、勝気で直情的な性格でしたから、夫の態度が気にかかるとすぐそれを言葉や行動で表わし、その反応がないとくやしくて口もきかず物も食べず、婢女などに八つ当たりをしました。
それが重なって、とうとう夫との仲は決定的になってしまいました。
夫にやさしい言葉もかけず、世話もせず、客すらろくに接待もしなかったので、夫もしだいに家をあけがちになってしまいました。
面白くてする放蕩ではないので、柔和な夫もしだいに粗暴になり、私もますますヒステリックになりましたので、家の中は荒廃してしまいました。
そんな時、この子が生れたのでした。
そしてこの子をなかだちにして私と夫の心はとけあったのです。
ですから、この子は私どもにとって守り神のように有難い存在なのです。
「この子」は一葉に珍しい口語体小説である。その中の山口昇という裁判官は、渋谷三郎をモデルにしたものと和田芳恵氏はいう。しかしもしそうとすれば、生れた子供の可愛さに惹かれて辛うじて家庭の破綻を免れるという設定は、もし渋谷の嫁になれば、そのような家庭しか作れないという一葉の思いの現れとも云えるのかもしれない。やはり奏任官の原田に嫁いだ「十三夜」のお関が、子供があるにも拘らず離婚を決意するのも、根底に渋谷に対する一葉の嫌悪感があるのかも知れない。
1月2日
セシル・ローズ派遣のリンダー・スター・ジェームソン(42)、ヨハネスバーグ攻略失敗。逮捕
1月3日
午後1時、漱石、正岡子規の句会に参加し森鴎外と初めて会う。高浜虚子、内藤鳴雪、河東碧梧桐らが参加。漱石と鴎外の間で話がはずんだ気配はない。漱石より5歳年長の鴎外は、もっぱら子規と話していた。
鷗外の参加は、前年の従軍による金州での出会いの縁をたよりに、虚子の提案で子規側から案内を出したものであった。
「子規が根岸で俳句会をやる時に、鴎外にも案内して見てはどうかといふと、案内してみようと手紙を出した。会が半ば進行してゐる時分に鴎外がやって来たことがあります」(高浜虚子『定本高浜虚子全集』第13巻)。
1月3日
夕方、漱石、中根家で催される歌留多会に招待される。
「夕刻、中根家の私宅に招かれ、歌留多や福引きをする。福引きに、絹のみすぼらしい帯締が当る。別室でくつろいでいると、鏡が現われ、母親(カツ)がそんをものをあげては失礼だと云うので、鏡のあてた男物の手巾(ハンカチ)と交換する。実は、絹の紐のほうが欲しかった。帰りの人力車は汚く、おいぼれた車夫が引くので、気づまりになる。(鏡)」(荒正人、前掲書)
1月3日
ドイツ、皇帝ヴィルヘルム2世、トランスヴァール共和国大統領ステファヌス・クリューガー(71)に祝電。ドイツ・イギリス関係悪化。
1月4日
漱石、紀元会に出席し、米山保三郎、大塚保治、立花銑三郎、狩野亨吉と会う。
1月4日
一葉「わかれ道」、『国民之友』第277号付録「藻塩草」に掲載。
〈引用〉
十二月のある日の夜更け、一人住まいのお京の家を訪ねる者があった。
近くの傘屋に奉公する吉三であった。
彼は十六歳だが背が低く一寸法師とあだ名されているが、町内では暴れ者でとおっていた。
そんな彼がなぜかお京を慕い、かつ甘えていた。
お京も吉三を弟のように可愛がり、甘えさせていた。
この夜も彼女は吉三のすねた甘えをやさしく許し、はげましもするのであった。
吉三は傘屋の先代のお松が六年前の冬に寺参りの帰りに拾って来た子供であった。
吉三は両親の顔も知らないまま、角兵衛の獅子を冠っていたのである。
吉三は職人の道にはいるが、二年後、お松が死んでからは周囲の嘲笑や白眼視に耐えきれず、反抗的なっていた。
そんな彼の気性を愛するのは、今年の春に裏長屋に越してきた二十余りの意気な女、お京一人であった。
十二月三十日の夜、吉三は仕事帰り、後からやさしく目隠しされる。「お京さんだろ」と言い当てた吉三に、彼女は明日引っ越しすると告げる。驚いた吉三は「やはり妾に行くという噂は本当なのか」と彼女をなじる。
彼女は「仕方ないのだ」とさびしく笑い、吉三を家に連れて行く。吉三は怒り、かつ落胆し、もう逢わないと言い放ち、羽がいじめに抱き止めるお京を振り切って帰ろうとする。
1月5日
ドイツ、レクラム(88)、没。文庫本元祖
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