1897(明治30)年
12月
中江兆民、国民党結成。
「大豪傑、国会議員候補者、大学者、策士、大資産家、官吏の古手前」や「人間を馬の足にし、政党で喰ひ政党で衣、政党で金儲けをせんとする人」を除外し、「太郎平、民右衛門、華族、新民、百姓、士族、下戸、上戸、大根売り、会社員、土方、旦那、職工」、即ち「日本国に深切なる日本国民」の結集を図ろうとする。模索状態であるが、既成政党とは異なる基盤の上に政治勢力を樹立しょうとする。
12月
与謝野晶子(19)、早間良弼編「ちぬの浦百首」に短歌「落葉似雨」(表題)1首発表。
12月1日
労働組合期成会鉄工組合発会式。小石川砲兵工廠労働者中心。午後6時、神田青年会館。実弟高野岩三郎も演説。
5日、「労働世界」創刊。半月刊。編集長片山潜、1,180人。
12月3日
赤木通弘、「病的神経質に陥り」五高に辞表提出。
英語教師の陣容を整えようと、4月に山川信次郎を招聘し、9月からは東京帝大を卒業したばかりの赤木通弘を迎えていた。しかし、赤木は赴任当時から授業に自信が持てず、学生の評判もあまりよくなかった。漱石と山川とでなんとかなだめ励ましてきたが、もはや引き留めることができなくなった。
12月4日
・ギリシャ、オスマン帝国、イスタンブール条約締結。クレタ島、オスマン帝国より分離
12月6日
堀内敬三、誕生。音楽評論家。
12月7日
漱石、狩野亨吉に熊本への来任を懇請。狩野亨吉の仲介で9月以来赴任している赤木通弘が教職に耐えず辞任を申し出たこと、事情やむをえないので解任の手続きをしたこと、狩野亨吉に代って教授を願えぬかなどと書く。
同日、千葉県千葉尋常中学校にいた菊池謙二郎に宛てて、英語教師1名雇入の件を相談している。
「授業と教務
五高での英語の授業は松山中学と打って変わり、「逐字的解釈」はやめ、「達意を主とする遺方(やりかた)」に変わった。『オピアムイーター』(『阿片常用者の告白』)や『サイラス・マーナー』などをすらすら音読して、「どうだ、分ったか」といった風であった(寺田談)。
教務の方は福岡県や佐賀県の尋常中学の英語授業を視察し、報告書を提出したりした。人事では、四高(金沢)を退職して東京に帰った狩野亨吉を、教頭として熊本に呼ぶことに成功した。山川もそうだが、東大出の親しい友人が三人揃ったわけである。菅は喀血して退職していた。」(十川信介『夏目漱石』(岩波新書))
12月9日
漱石、天草・島原方面へ修学旅行。
12月14日
栃木・群馬・茨城・埼玉・千葉5県関係町村83名連署「憲法に依り被害民保護請願書」。
12月15日
ロシア軍艦、金州半島先端の旅順港に強行入港、海軍基地化を既成事実とする。ドイツの膠州湾占領への対抗措置。他方、李鴻章らへの賄賂作戦。
12月15日
自由党大会、松方内閣不信任案を提出を決議。
18日、進歩党大会、松方内閣との絶縁・内閣の更迭要求を決議。
20日、国民協会大会、松方内閣反対を決議。
12月15日
フィリピン、ビヤックナバトー和平条約調印。170万ペソの和平金と引換にアギナルドらは香港に亡命。しかし、戦闘は各地で継続。
12月16日
仏、作家アルフォンス・ドーデ(57)、没。
12月17日
漱石、菊池謙二郎(千葉尋常中学校)宛手紙。奥太一郎(岡山県津山尋常中学校)を、第五高等学校で採用したいのでと、援助を求める。
12月18日
台湾総督府高等法院長高野孟矩、非職で止まらず、懲戒免官・位記返上命ぜられる。
12月20日
「大阪朝日」主筆池辺三山、「東京朝日」主筆も兼任。のち、鳥居素川が「大阪」を引継ぐ。30日、池辺三山「明治三十年の外事及外交」。~翌明治31年1月4日迄。
西村天囚が長期中国出張をする為、三山が「東京朝日」主筆を兼ね、「大阪朝日」論説は、後輩の鳥居素川に委ねて上京、やがて仕事を「東京朝日」主筆に絞る。
31年1月17回、2月14回、3月17回の「東朝」社説を書く。
三山社説の主題を構成する第一の要素はナショナリズムの高揚。「国粋派」と云われる言論を陸羯南の新聞「日本」と三宅雪嶺の雑誌「日本人」が組織し、三山はこの「国粋派」論客の流れの中にある。
第二の要素は、帝国主義列強の対アジア攻勢への対処。日本が清国に遼東半島を還付した3年後(1898年)には、ドイツの膠州湾租借、ロシアの旅順・大連租借、イギリスの九竜半島・威海衛租借、フランスの広州湾租借と相次ぎ、中国の要衝は次々に侵蝕されゆく。
12月20日
「朝菅〔虎雄〕を訪ひ終に夏目に向ひ承諾の電報を發し次で評を送る。」(「狩野亨吉日記」)
つづく
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