大杉栄とその時代年表(222) 1897(明治30)年10月1日~22日 金本位制へ移行 高野盂矩非職事件 大佛次郎生まれる 進歩党、松方内閣との提携断絶決議 大隈重信外相辞任 より続く
1897(明治30)年
10月25日
漱石の妻、鏡子が熊本に戻る。
「鏡子は大江村の新居が気に入った。やがて股野義郎のほかに土屋忠治が書生として加わり、夏目家は女中のテルをあわせて五人の世帯になった。土屋はやはり五高の三年生で、股野とは対照的な謹直な青年であった。」(江藤淳『漱石とその時代1』)
この頃、かつての義母塩原やすからの手紙が届く。
「(*きぬ=やすの再婚先での義理の娘、は)自分が苦労して育て上げた娘ではないけれども、苦しい中にも随分と大事にしてくれてゐる。おやすさんはかう書いてゐました。それだのに何かと自分に苦労をかけて大きくなった夏目は、いまは大学を出て、月給の百円も取る立派な男になってゐながら、一向振り向いてもくれない。子供の頃疱瘡を病んだ時、どんなに寝ずに看護してあげたと思ふ。五歳の時小便をしようとして縁側から転がり落ちて腰の骨の脱けた時、どんなに自分が面倒をみてやつたことか。あの時はどうだつた、この時はかうだつたと、昔々養育に骨折つたことをいろいろとならべ立てたそれはくどい手紙でした。結局困つてもゐるからいくらか金が欲しいといふやうな意味合ひがほのめかしてありました。」(『漱石の思ひ出』)
「其時彼は此手紙を東京にゐる兄の許に送つた。勤先へこんなものを度々寄こされては迷惑するから、少し気を付けるやうに先方へ注意してくれと頼んだ。兄からはすぐ返事が来た。もともと養家先を離縁になつて、他家へ嫁に行つた以上は他人である、其上健三はその養家さへ既に出て仕舞つた後なのだから、今になって直接本人へ文通などされては困るといふ理由を持ち出して、先方を承知させたから安心しろと、其返事には書いてあった。
「御常(やす)の手紙は其後ふつつり来なくなった。健三は安心した。然し何処かに心持の悪い所があつた。彼は御常の世話を受けた昔を忘れる訳に行かなかつた。同時に彼女を忌み嫌ふ念は昔の通り変らなかつた」(『道草』四十五)
10月26日
韓国政府、ロシアの要求を受諾しイギリス公使に通告
10月29日
独、パウル・ヨーゼフ・ゲッペルス、ラインラントの町ライトに誕生。5人兄弟の3番目、幼児期の病気のため左足に整形用の靴を履く。
11月
石阪昌孝、群馬県官・有志からの銀杯贈与に対し謝辞。
11月1日
中国、鉅野教案。ドイツ人神父2人、山東省鉅野磨盤張荘で殺害。教会勢力と地方官憲に対する人民の怨恨からきた事件。
14日、ドイツ艦船、膠州湾占領・青島砲台奪取。
20日、ドイツ駐華公使ハイキング、6ヶ条要求。
11月1日
フィリピン革命政府、ビヤックナバトー憲法を採択。
11月2日
朝鮮、独立協会から中枢院議官に半数選出
11月2日
外務省参事官尾崎行雄・農商務省山林局長志賀重昂ら、政府と絶縁決議した改進党会議に出席したとの理由で懲戒免官。
5日、農商務次官大石正巳・外務省通商局長高田早苗、続いて大隈重信外相兼農商務相、辞職。第2次松方内閣、純然たる薩閥内閣となる。
11月4日
ドイツ、山東布教団アンツァー神父、神父殺害事件の報をドイツのスティルで受取る。
5日、ベルリンに赴き、7日、外務次間に膠州湾占領を進言。
17日、ウィルヘルム2世に謁見。膠州湾占領はドイツの威信を高めるものと皇帝をたきつける。
11月7日
北京、ドイツ駐華公使フォン・ハイキング男爵、事件の全責任は中国にあり犯人を厳罰に処すよう要求。
11月7日
~11日 漱石、福岡、佐賀で主な中学校の英語授業視察。
7日(日)、熊本発、佐賀泊。
8日、佐賀県尋常中学校講堂で英語に関する講話。午前10時~4年生の訳読、3年生の訳読、2年生の会話・作文・文法を視察。午後、英語教師たちと教授法について質疑応答。夕刻、博多に行き、藤井乙男(紫影)宅(福岡市春吉)に泊る。
9日 福岡県立尋常中学校修猷館(現・福岡県立修猷館高等学校)で、2年生の訳読、3年生の訳読、4年生の和文英訳、5年生の訳読を参観。
10日 福岡県尋常中学校久留米明善校(現・福岡県立明善高等学校)で、1年生の訳読・綴り字、4年生の訳読、5年生の訳読を参観。
11日 福岡県尋常中学校柳川伝習館(現・福岡県立伝習館高等学校)で、1年生の訳読・綴り字、2年生の和文英訳、3年生の英作文、4年生の訳読を参観。熊本へ帰る。
11月10日
隅田川の永代橋、完成。開通式。
11月13日
上海呉淞のドイツ太平洋艦隊提督ディーデリヒ海軍少将、軍艦3隻率い膠州湾入り。
14日早朝、抵抗無く砲兵・歩兵600が上陸。48時間以内の清朝守備隊の全面撤退を要求。青島をドイツ軍管理下におく宣言。
11月14日
鉄工組合創立相談会
11月14日
ロシア、4大臣会議。ムラヴィヨフ外相、大連湾占領を提案。ヴィッテはロシアは日本から清国を防護するのが義務として反対。海相トゥルトフは旅順・大連が太平洋から遠いとして反対。ニコライ2世は旅順。大連占領命令発する。
11月18日
自由党議員会、土佐派の強い反対で、樺山資紀内相・高島鞆之介陸相と松田正久(自由党九州派)らと通ずる松方内閣との提携工作を否決。駐米公使星亨も帰国し、松田の背後で提携交渉を進められていた。
12月15、16日、党大会で改めて最終的に提携を否決。
松方は進歩党に代わる政党支持を求めて、九州派の領袖松田正久を交渉窓口として、自由党との提携交渉に入るが、ポスト配分を巡り難航。また、自由党内にも薩派政府との提携には反対論が強い。土佐派も九州派主導への反発から、提携に反対。反対多数で提携は実現せず、自由党は引き続き野党として議会に臨むことになる。
11月20日
ドイツ駐華公使ハイキング、本国外務省の要求項目を受け、6ヶ条要求を総署(外務省)につきつける。①山東巡撫罷免、②済寧に教会を新築し費用6万6千両の支払い、③犯人処罰。神父住宅工事費2万4千両支払い、④再発防止保障、⑤山東鉄道敷設及び鉄道周辺鉱山採掘権はドイツ商人に優先権を与える、⑥ドイツが要した費用の支払い。23日、総署はドイツに膠湾撤退要求。ドイツは拒否、6ヶ条要求が容れられる迄占領継続を通告。
12月1日、総署、犯人9名を公表、処刑。翌98年3月6日、膠州湾租借条約締結。
ドイツの山東進出 ⇒
①列強(英・仏・露・日)による中国分割・勢力範囲設定を誘発。
②戊戌の政変(国内の政治改革)。
③反教会・反西洋運動の激発。
11月22日
朝鮮、閔妃国葬。日本・日本人への恨みを再確認。
11月26日
朝鮮、仁川日本居留地拡張に関する駐韓国各国公使の協定書調印
11月27日
幸徳秋水「記者連合軍」(「中央新聞」)。芝紅葉館での新聞記者聨合大会の模様。松方内閣の言論弾圧、進歩党員の追放を非難。
11月28日
山東巡撫李乗衡、更迭。29日~、張汝梅が後継就任。~99年3月14日。のち(1900年8月29日、李乗衡は西太后命により通州で8ヶ国連合軍阻止任務を与えられる。9月4日、義和団と共に戦うが敗北。責任をとり自殺(71歳)。
11月28日
宇野千代、誕生。山口県玖珂郡横山村329番屋敷(現岩国市)代々酒醸造業を営む旧家。父宇野俊次(42)、母トモ(24)長女。
つづく
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