2024年11月18日月曜日

大杉栄とその時代年表(318) 1901(明治34)年2月3日~7日 子規、自分より早く逝った親友竹村鍛を悼む 「我友竹村黄塔(鍛)は常に眼をここに注ぎ一生の事業として完全なる一大字書を作らんとは彼が唯一の望にてありき。、、、社会のために好字書の成らざりしを悲しまんか。我二十年の交まじわり一朝にして絶えたるを悲しまんか。はた我に先だつて彼の逝きたるは彼も我も世の人もつゆ思ひまうけざりしをや。」(「墨汁一滴」)  

 

竹村鍛

大杉栄とその時代年表(317) 1901(明治34)年1月28日~2月2日 「我俳句仲間において俳句に滑稽趣味を発揮して成功したる者は漱石なり。、、、真の滑稽は真面目なる人にして始めて為し能ふ者にやあるべき。」(子規「墨汁一滴」) ヴィクトリア女王葬儀 漱石、ハイドパークで葬列を見る より続く

1901(明治34)年

2月3日

福沢諭吉(66)、没

8日、葬儀。大崎村本願寺墓地(常光寺墓地)に埋葬。

2月3日

黒龍会設立。この日発会式。日清戦争後の三国干渉に憤慨した玄洋社の一部が大陸での活動をするために、内田良平(平岡浩太郎 の甥)を中心として葛生修吉、平山周、葛生能久らが結成。玄洋社の頭山満が顧問。東京神田の錦輝館で行われた発会式には、伊東正基、吉倉汪聖、佃時夫、大原義剛、権藤震二らが参加。事務所は芝区西久保巴町の内田の自宅。賛助員に平岡の他には犬養毅、鳩山和夫、頭山満、大井憲太郎、神鞭知常、河野広中、中江兆民。


2月3日

「○伊藤圭助歿す九十余歳。英国女皇崩(ほう)ず八十余歳。李鴻章(りこうしょう)逝く七十余歳。

○星亨(ほしとおる)訴へられ、鳩山和夫(はとやまかずお)訴へられ、島田三郎(しまださぶろう)訴へらる。

○朝汐(あさしお)負け、荒岩(あらいわ)負け、源氏山(げんじやま)負く。

○神田の歳(とし)の市に死傷あり。大阪の十日夷(とおかえびす)に死傷あり。大学第二医院の火事に死傷あり。

○背痛み、臀(しり)痛み、横腹痛む。

(二月三日)」(子規「墨汁一滴」)

2月3日

ロシア、バクー、ナフサ精留塔6基火災。約25万トンの近隣石油備蓄施設に広がり周辺の建物と共に全焼。死者約30人、重傷者約100人。

2月3日

~4日 ロンドンの漱石


「二月三日(日)、 Dulwich Park (ダリッジ公園)を散歩する。広い池に家鴨多く、紳士淑女多い。

二月四日(月)、下宿屋の女たちが一日に五回食事して、一日中働き続けることに驚く。」(荒正人、前掲書)


1901年2月4日の日記

「うちの女連は一日に五度食事をする 日本では米つきでも四度だ これには驚く その代わり朝から晩まで働いている」


この五度の食事のうちの二度は午前と午後のお茶。この下宿の女性たちは、掃除や食事の支度などに一日中かかりきりなので、午前と午後のお茶の時間に、いくらかお腹にたまるような軽食をとっていたと推測できる。

「アフタヌーン・ティ」と呼ばれる習慣は、1840年代にベドフォード公爵夫人アンナによって始められたとされる。その時代のイギリスの上流家庭での夕食の時刻は、だいたい夜の8時、9時というのが普通だった。すなわち昼食から夕食の時間が長すぎたたために、空腹を覚える人が多く、そこでアンナが午後の3時か4時頃、軽い食事(バター付きパンやビスケットのような)とともに、ポット・オブ・ティを用意すると、やがてこのような午後の紅茶は、たちまち一種の社会的流行となった。


2月4日

憲政本党、増税案(1月26日上程)賛成を決議反対派34人は脱党し、18日、三四倶楽部結成。


2月4日

「 節分に豆を撒(ま)くは今もする人あれどそれすら大方はすたれたり。ましてそのほかの事はいふもおろかなり。我郷里(伊予)にて幼き時に見覚えたる様はなほをかしき事多かり。(略)それも今はた行はるるやいかに。

(二月四日)」(子規「墨汁一滴」)

2月5日

「 節分の夜に宝船の絵を敷寐して初夢をうらなふ事我郷里のみならず関西一般に同様なるべし。東京にては一月二日の夜に宝船を売りありくこそ心得ね。(後略)

(二月五日)」(子規「墨汁一滴」)

2月5日

官営八幡製鉄所操業開始。第1号溶鉱炉、火入れ式。しかし不調で、7月23日の第3次火入れでようやく軌道にのる。

同製鉄所は、明治29年(1896)3月に公布された製鉄所官制に基づいて、福岡県遠賀郡八幡町に官営の製鉄所として設置された。

2月5日

~7日 ロンドンの漱石


「二月五日(火)、 Dr. Craig の許に行く。教授料支払う。帰途、 Cervantes Saavedra (セルバンテス 1547-1616)の ""Don Quixote""(『ドン・キホーテ』)、 Thomas Warton (トマス・ウォートン)の ""The History of Engrish Poety"" 4 vols. 1774-1781 を買い、配達を頼む。代価約四十円程。夜、同宿の田中孝太郎と入浴する。大いに気分よい。藤代禎輔(素人 在ベルリン)から手紙来る。夜遅く、藤代禎輔(素人)と中根カツ(鏡の母)に手紙を出す。

二月六日(水)、午前一時頃就寝する。起床した際、咽喉の調子少し悪い。正午過ぎ買物に行く。十円以上費す。『ワーズワース詩集』を買う。前日買った古書届く。下宿の主婦、何処でこんな古本を買うかと云う。

二月七日(木)、山川信次郎から年質状来る。菅虎雄からも絵葉書の年質状来る。(当時は郵便物がロンドンに届くには二ゕ月余りかかったらしい)」(荒正人、前掲書)


2月6日

「 節分にはなほさまざまの事あり。我(わが)昔の家に近かりし処に禅宗寺ありけるが星を祭るとて燭(しょく)あまたともし大般若(だいはんにゃ)の転読とかをなす。(後略)

(二月六日)」(子規「墨汁一滴」)

2月6日

イタリアのサラッコ内閣、ミラノのストライキ収拾失敗、倒れる

2月6日

フィリピン、州自治法制定。

2月7日

「 我国語の字書は『言海(げんかい)』の著述以後やうやうに進みつつあれどもなほ完全ならざるはいふに及ばず。我友竹村黄塔(こうとう)(鍛(きたう))は常に眼をここに注ぎ一生の事業として完全なる一大字書を作らんとは彼が唯一の望にてありき。その字書は普通の国語の外に各専門語を網羅しかつ各語の歴史即ちその起原及び意義の変遷をも記さんとする者なり。されど資力なくしてはこの種の大事業を成就(じょうじゅ)し得ざるを以て彼は字書編纂(へんさん)の約束を以て一時書肆(しょし)冨山房(ふざんぼう)に入りしかど教科書の事務に忙殺せられて志を遂ぐる能はず。終にここを捨てて女子高等師範学校の教官となりしは昨年春の事なりけん。尋(つい)で九月始めて肺患に罹かかり後赤十字社病院に入り療養を尽(つくし)し効(かい)もなく今年二月一日に亡き人の数には入りたりとぞ。社会のために好字書の成らざりしを悲しまんか。我二十年の交まじわり一朝にして絶えたるを悲しまんか。はた我に先だつて彼の逝きたるは彼も我も世の人もつゆ思ひまうけざりしをや。

 我旧師河東静渓(かわひがしせいけい)先生に五子あり。黄塔はその第三子なり。出でて竹村氏を嗣つぐ。第四子は可全(かぜん)。第五子は碧梧桐(へきごとう)。黄塔三子あり皆幼。

(二月七日)」(子規「墨汁一滴」)

2月7日

オスマン帝国スルタン、マケドニアの政情不安を理由として、ブルガリア国境に軍数千を派遣(~4月5日)。


つづく

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