1901(明治34)年
1月28日
「人に物を贈るとて実用的の物を贈るは賄賂(わいろ)に似て心よからぬ事あり。実用以外の物を贈りたるこそ贈りたる者は気安くして贈られたる者は興深けれ。今年の年玉とて鼠骨(そこつ)のもたらせしは何々ぞ。三寸の地球儀、大黒(だいこく)のはがきさし、(夷子)えびすの絵はがき、千人児童の図、八幡太郎(はちまんたろう)一代記の絵草紙(えぞうし)など。いとめづらし。此(これ)を取り彼をひろげて暫(しばら)くは見くらべ読みこころみなどするに贈りし人の趣味は自(おのずか)らこの取り合せの中にあらはれて興(きょう)尽くる事を知らず。
年玉を並ならべて置くや枕もと
(一月二十八日)」(子規「墨汁一滴」)
1月29日
清国、西安にて「変法の詔」を公布、維新を宣言。光緒新政(変法)施行の詔勅。
1月29日
1月29日~31日 ロンドンの漱石
「一月二十九日(火)、晴、大風。 Dr. Craig の許に行く。 ""King Lear"" の序文を書いている。帰途、 Water Colour Exhibition (水彩画展覧会)を見る、その後 Portrait Gallery に寄る。下宿に帰って、再び外出し、入浴する。
一月三十日(水)、快晴。日記に、世間知らずのイギリス女性の無知について記す。
一月三十一日(木)、下宿の主婦から、そんなに勉強して日本に帰ったら、さぞ金持ちになるだろうと云われる。」(荒正人、前掲書)
1月30日
子規、漱石の俳句について書く。
「 一本の扇子を以て自在に人を笑はしむるを業(わざ)とせる落語家の楽屋は存外厳格にして窮屈なる者なりとか聞きぬ。芳菲山人(ほうひさんじん)の滑稽家(こっけいか)たるは人の知る所にして、狂歌に狂文に諧謔(かいぎゃく)百出(ひゃくしゅつ)尽くる所を知らず。しかもその人極めてまじめにしていつも腹立てて居るかと思はるるほどなり。我俳句仲間において俳句に滑稽趣味を発揮して成功したる者は漱石(そうせき)なり。漱石最もまじめの性質にて学校にありて生徒を率ゐるにも厳格を主として不規律に流るるを許さず。紫影(しえい)の文章俳句常に滑稽趣味を離れず。この人また甚(はなは)だまじめの方にて、大口をあけて笑ふ事すら余り見うけたる事なし。これを思ふに真の滑稽は真面目なる人にして始めて為(な)し能(あた)ふ者にやあるべき。古(いにしえ)の蜀山(しょくさん)一九(いっく)は果して如何(いか)なる人なりしか知らず。俳句界第一の滑稽家として世に知られたる一茶(いっさ)は必ずまじめくさりたる人にてありしなるべし。
(一月三十日)」(子規「墨汁一滴」)
1月31日
「 人の希望は初め漠然として大きく後漸(ようや)く小さく確実になるならひなり。我病牀(びょうしょう)における希望は初めより極めて小さく、遠く歩行(ある)き得ずともよし、庭の内だに歩行き得ばといひしは四、五年前の事なり。その後一、二年を経て、歩行き得ずとも立つ事を得ば嬉(うれ)しからん、と思ひしだに余りに小さき望のぞみかなと人にも言ひて笑ひしが一昨年の夏よりは、立つ事は望まず坐るばかりは病の神も許されたきものぞ、などかこつほどになりぬ。しかも希望の縮小はなほここに止まらず。坐る事はともあれせめては一時間なりとも苦痛なく安らかに臥(ふ)し得ば如何に嬉しからんとはきのふ今日の我希望なり。小さき望かな。最早(もはや)我望もこの上は小さくなり得ぬほどの極度にまで達したり。この次の時期は希望の零(ゼロ)となる時期なり。希望の零となる時期、釈迦(しゃか)はこれを涅槃(ねはん)といひ耶蘇(ヤソ)はこれを救ひとやいふらん。
(一月三十一日)」(子規「墨汁一滴」)
1月31日
横浜足曳街に劇場雲井座会場。明治39年5月、横浜座に改称。
1月31日
フィリピン、町自治法制定。
2月
一高記念祭、西寮寮歌「春爛漫の花の色」東寮寮歌「アムール川の流血や」発表。
2月
若山牧水(16)、延岡中学校友会雑誌第1号に短歌や小品文を発表。雑誌「中学文壇」に投稿、入賞。
2月
啄木(15)の通う岩手県盛岡中学校で職員の軋轢を契機として3・4年生徒間に校内刷新運動発生。
26日、啄木の学級も級長阿部修一郎の指示のもとストライキ合流決議。啄木も参加。
28日、啄木・阿部ら起草の具申書を校長多田綱宏に提出。知事北条元利の裁定により収束。大筋において生徒側要求の貫徹。校長の休職を始め、23名中19名が休職・転任・依願退職。元学習院教授山村弥久馬が新校長となり、強硬な生徒指導で校内の自由な雰囲気は一掃。
2月
ロシア、学生のデモや反乱。宗務院、6つの罪を犯したとしてレフ・トルストイを破門。
2月
スペイン、カタルニャ地方政府の税制に対して労働者ストライキ。
2月1日
シアトル領事館開館。
2月1日
子規の友人で碧梧桐の兄、黄塔竹村鍛が結核で没。
「・・・・・慶応元年生まれで、子規より二歳の年長であった。
竹村鍛は河東静渓の三男、碧梧桐の兄で竹村家に養嗣子として入っていた。河東家には六男三女があり、碧梧桐はその第八子、三男であった。子規が竹村鍛と親しんだのは愛媛県尋常中学校時代で、黄塔または東岡散(とうこうさん)と号した鍛のほか、三人の友と「五友」を称し、明治十三年には「五友雑誌」と「五友詩文」をつくった。いずれも漢詩を中心とした雑誌で、子規はその当時、好吟童子または香雲と署名していた。
時をおいて、明治二十八年にも子規は黄塔と再び接触した。日清戦争従軍からの帰国途中に大喀血した子規は神戸の県立病院にかつぎこまれたのだが、その報せをいち早く受けたのは神戸師範奉職中の黄塔であった。黄塔は「日本」の陸羯南に急報、羯南は子規の看病に虚子を派遣した。
その黄塔が三十五の若さで死んだのである。五人のうちでは自分がいちばん早く逝くものと思っていた子規は心を締めつつ、意外に思った。」(関川夏央、前掲書)
2月1日
「『大鏡(おおかがみ)』に花山(かざん)天皇の絵かき給ふ事を記して
(略)
などあり。また俊頼(としより)の歌の詞書ことばがきにも
(略)
などあるを見るに古(いにしえ)の人は皆実地を写さんとつとめたるからに趣向にも画法にもさまざま工夫して新しき画(え)を作りにけん。土佐派狩野派(かのうは)などいふ流派盛(さかん)になりゆき古の画を学び師の筆を摸(も)するに至りて復(また)画に新趣味といふ事なくなりたりと覚ゆ。こは画の上のみにはあらず歌もしかなり。
(二月一日)」(子規「墨汁一滴」)
2月1日
ロンドンの漱石
「二月一日(金)、 Dulwich (ダリッジ)で Duleich Picture Gallery (ダリッジ美術館)を見る。風流閑雅の趣がある。「繪所を粟焼く人に尋ねけり」(「日記」)」(荒正人、前掲書)
2月2日
「 われ筆を執る事が不自由になりしより後は誰か代りて書く人もがなと常に思へりしがこの頃馬琴(ばきん)が『八犬伝』の某巻に附記せる文を見るに、初めに自己が失明の事、草稿を書くに困難なる事など述べ、次に
文渓堂(ぶんけいどう)及(また)貸本屋などいふ者さへ聞知りて皆うれはしく思はぬはなく、ために代写すべき人を索(たずぬ)るに意に称(かなふ)さる者のあるべくもあらず云々
とあるを見れば当時における馬琴の名望位地を以てしてもなほ思ふままにはならずと見えたり。なほその次に
吾(わが)孫興邦(おきくに)はなほ乳臭(ちのか)机心(つくえごころ)失せず。かつ武芸を好める本性なれば恁(かか)る幇助(たすけ)になるべくもあらず。他(かれ)が母は人並ににじり書もすれば教へて代写させばやとやうやうに思ひかへしつ、第百七十七回の中音音(おとね)が大茂林浜(おおもりはま)にて再生の段より代筆させて一字ごとに字を教へ一句ごとに仮名使(かなづかい)を誨(おしゆ)るに、婦人は普通の俗字だも知るは稀(まれ)にて漢字(からもじ)雅言(がげん)を知らず仮名使てにをはだにも弁(わきま)へず扁(へん)旁(つくり)すらこころ得ざるに、ただ言語(ことば)をのみもて教へて写(かか)するわが苦心はいふべうもあらず。況(まい)て教(おしえ)を承(うけ)て写(か)く者は夢路を辿(たど)る心地して困じて果はうち泣くめり云々
など書ける、この文昔はただ余所(よそ)のあはれとのみ見しが今は一々身にしみて我上(わがうえ)の事となり了んぬ。されど馬琴は年老い功成り今まさに『八犬伝』の完結を急ぎつつあるなり。我身のいまだ発端をも書きあへず早く已(すで)に大団円に近づかんとすると固(もと)より同日に論ずべくもあらず。
(二月二日)」(子規「墨汁一滴」)
2月2日
中村翫右衛門、誕生。
2月2日
ヴィクトリア女王葬儀。
行列は。まず女王旗を捧げ持った近衛騎兵隊、ボーア戦争の義勇兵と香港やインドなどの植民地の将校や兵隊が先頭をなしていた。それからスコットランド第三連隊、ウェールズ第三連隊、アイルランド第四連隊、ノーフォーク第四連隊と砲兵隊が続き、そのあとから金モールの将軍が78名、貴族10名の行列が従い、そのすぐあとに八頭の馬に曳かれた女王の霊柩車。そのすぐあとに新国王エドワード7世、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世、プロシア皇太子らが従った。その日はいくらか寒い、桐模様の天気だった。それにもかかわらずハイド・パーク周辺で見物した群衆の数は、十数万人に達した。
「二月二日(土)、 Queen Victoria (ヴィクトリア女王)葬儀。下宿の主人と Oval で City and South London Tube に乗り、 London Bridge の下流に沿い、 Thames 河を横断し、 City の中心 Bank で乗り換え、 Central London Tube で西に向って走り、 Marble Arch (マーブル・アーチ)、 Hyde Park (ハイド・パーク)の東北端を通過し、 Lancaster Gate で降り、 Hyde Park (ハイド・パーク)まで見に行く。 Edward Ⅶ (エドワード七世)とドイツ皇帝 Wilhelm Ⅱ (ヴィルヘルム・デア・ツヴァイター ヴィルヘム二世)ら付き随う。屋根の上などにも大勢の見物人がいるので、奇異な感じを抱く。「園内ノ樹木皆人ノ實ヲ結ブ」(「日記」) 「白金に黄金に柩寒からず」「凩の下にゐろとも吹かぬなり」「凩や吹き静まつて喪の車」「熊の皮の頭巾ゆゝしき警護かな」(二月二十三日(土)付、高浜虚子宛葉書)と詠む。」(荒正人、前掲書)
この日の漱石の日記。
「Queenの葬儀を見んとて朝九時Mr.Brettと共に出driveう。Ovalより地下電気にてBankに至り、それよりTwopence Tubeに乗り換う。Marble Archにて降れば甚だ人ごみあらん故next stationにて下らんと宿の主人いう。その言の如くしてHyde Parkに入る。さすがの大公園も人間にて波を打ちつつあり。園内の樹木皆人の実を結ぶ。漸くして通路に至るに到底見るべからず。宿の主人、余を肩車に乗せてくれたり。漸くにして行列の胸以上を見る。柩は白に赤を以て掩(おお)われたり。King,German Emperor等随う。」
2月9日付け狩野亨吉・大塚保治・菅虎雄・山川信次郎の4人宛ての手紙
「先達ての女皇の葬式は見た。「ハイドパーク」と云ふ処で見たが、人浪を打つて到底行列に接する事が出来ない。其公園の樹木に猿の様に上つてた奴が、枝が折れて落る。然も鉄柵で尻を突く。警護の騎兵の馬で蹴られる。大変な雑沓だ。僕は仕方がないから下宿屋の親爺の肩車で見た。西洋人の肩車は是が始ての終りだらうと思ふ。行列は只金モールから手足を出した連中が、つながって通つた許りさ。
「僕は順に行けば来年の十月末、若くは十一月始めに帰朝するのだが、少し仏蘭西に行つて居たい。どうも仏蘭西語が出来んと不都合だ。切角洋行の序(ついで)にやつて行きたいが、四ケ月か五ケ月でいゝが、留学延期をして仏関西に行く事は出来まいか。狩野君から上田君に話して貰ひたい。そうして一寸返事をよこして貰ひたい。そうするとサ来年四月位ニ帰ル訳ニナル。
「夫からもう一つ。狩野君と山川君と菅君に御願ひ申す。僕はもう熊本へ帰るのは御免蒙りたい。帰つたら第一(高等学校)で使ってくれないかね。未来の事は分らないが、物が順にはこぶと見て、僕も死なず狩野君も校長をして居るとした処で如何ですかな。御安くまけて置きますよ。」
2月2日
ヴィルナ、ハイフェッツ、誕生。
つづく
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