2008年11月6日木曜日

「どんな事があつてもめげずに、忍耐強く、執念深く、みだりに悲観もせず、楽観もせず、生き通して行く精神――それが散文精神だと思ひます」


写真は足利将軍室町第址(08/01/02撮影)
上京区室町通今出川東北角
室町幕府3代将軍足利義満(1358~1408)が造営した将軍家の邸宅跡で幕府が置かれた。北は上立売通、南は今出川通、東は烏丸通、西は室町通に囲まれた東西1町、南北2町の規模。仙洞御所や公家邸宅の跡地に造営され、邸内の樹木苑地が美しかったことから「花の御所」と称される。応仁元(1467)年戦火で焼失,文明年間(1469~87)に再建するも再び焼失。
■昨日(5日)、10月末で定年退職したSK君と飲む。終電2本前で帰宅。1軒目出たとこで、昔の職場のMと出会う。いいのかなと言いながら、合流して2軒目に。相変わらずやかましいご仁だった。
■広津和郎「散文精神」からの連想。「Camusて何だい?」
 これを平野謙さんの本によって知ったのは、以前に書いた。読んだのは、就職してからだ。なら一体いつ広津さんを知ったか? 記憶を逆回転させた。
 今を去る40年ほど前、高校2年(多分)の頃、早熟な文学青年がクラスにいた。同人誌をやっていると自称していた。特に仲が良かった訳ではないが、或る日、明日朝、ビラを配りたい、ついては担当教師に許可を貰いに行くのと、ビラ配りを手伝って欲しいと頼まれた。2人で職員室に入り、担当教師にこのビラを見せた時、この教師の質問が、「カムスて何だい?」だった。なんか歯切れのいい関東弁だった。あれ、この先生関西人ちゃうな、と瞬間思った。2人揃って、恥ずかしそうに、フランスの小説家カミュですと答えると、教師の方は、この方は「古文」の先生だった記憶があるが、照れ隠しもあり、配布に一発OKを出し、早く行けと我々を職員室から追い出した。それにしても、カミュについて朝ビラを撒くというのもかなり「ヘン」ではあるし、多分政治面の連想をしたであろうから、分からないのは無理なからぬことか? 海外旅行も一般的ではない時期だしブランデーにも親しみ薄かったろうし。
 僕はこの早熟青年に吹き込まれて、「異邦人」だけは読んだ記憶がある。多分今も実家に文学選集の「カミュ編」があるのではないかと思う。「きのう、ママンが死んだ」が書き出しの、ムルソーという青年が太陽がまぶしいという理由で殺人を犯すストーリーだ。「ムルソー」という時のその人の、唇の突き出し方まで記憶にある。しかし、僕には、カミュの解説書で知った「シジフォスの神話」の方が、分かりやすく納得できるものだった。勉強も、仕事も、人生も、一面シジフォス的ではあると、今でも思う。さてさて、ここから広津さんだ。
 その人が、それから月刊誌「群像」を読めと3ヶ月分を2度、つまり直近の半年分を貸してくれた。その時、連載されていたのが広津さんの「年月のあしおと」だった。のち講談社文庫で上下か正続かの2冊が出て、これも愛読した。高見順の「昭和文学盛衰史」と同じくらい愛読した。その後、広津さんの本は、「松川事件」、これは中公文庫だったか、途中で挫折、「風雨強かるべし」、これはメジャーでない(新潮、講談社、中公・・・以外の)文庫だったか、これは冒頭でアウトだった。そこまでで、僕の広津さんとの関わりは終わっていた。
 長い空白のあと、冒頭の平野さんにより広津さんの「散文精神」を知る。他に広津さんご自身の本は読んでいないけれど、本当にこの文章は、何度反芻しても反芻しがいのある文章だ。
 広津さんの祖父は、明治初年、朝鮮との開国交渉において、「皇」「勅」問題などを持ち出してはのらりくらりかわされて、遂に軍艦発遣を日本政府に要求する外交官だ。お父さんは硯友社系の文士、娘さんも小説家。確か、平野さんは万年床に寝そべりながら原稿を書くとかいうハナシ。
 詳しくは知らないが、広津さんは昭和20年代に「カミュ論争」というものに参戦しているらしい。ひょっとして、その早熟なる文学青年は、この論争についても僕にレクチャーしたかも・・・。その後、一度だけ、大学生時代だと記憶するが、街の本屋でこの文学青年に会ったことがある。確か大学には行ってなかったと思う。待ち合わせをしていた様子で、相手はえらく生活臭のするおばさんだった記憶がある。
オシマイ

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