2009年2月5日木曜日

南京戦に参加した日本軍と指揮者たち

▼陸軍
*
●中支那方面軍
(昭和12年12月10日現在)
[編成経緯]
11月7日、中支那方面軍「編合」(正式の軍編成である「戦闘序列」ではない)。上海派遣軍と第10軍よりなる。
司令官松井石根大将(上海派遣軍司令官と兼任)、塚田攻参謀長(参本第3部長、拡大派)、武藤章参謀副官(前参本作戦課長、拡大派、参本に籍を置いたまま派遣軍に出向)。
*
参謀部員6人が出張の形式で方面軍参謀に派遣され、上海派遣軍参謀5~6人が方面軍参謀兼務を命じられる。この構成は、12月2日朝香宮が上海派遣軍司令官、松井が方面軍司令官専任になった以外はこのまま維持される。
人員は参謀部副官・当番兵・通訳など20人ばかりにすぎず、司令部機構に必須の兵器部・経理部・軍医部・法務部(軍法会議)などはなく、直轄部隊もない。
司令官の指揮権限も、
①全般的作戦指導、
②兵站業務統制、
③宣伝謀略並びに一般諜報、
に制限されている。
*
方面軍参謀中山寧人少佐は東京裁判で、方面軍の権限について、
「両軍の協同作戦を調整することを主任務とするもので、実際上の兵力の運用指揮は上海派遣軍及び第十軍の司令官が夫々専管することになっていました」
と証言。
両軍は、方面軍の指揮・指導を軽んじ、調整程度にしか尊重しない
任務は、北支那方面軍と同様、「敵の戦争意志を挫折せしめ、戦局終結の動機を獲得する」との目的をもって、「上海付近の敵を掃滅」すること。
作戦地域は、追撃の範囲を「蘇州・嘉興ヲ連ネル線以東」に制限。(11月7日付臨命600号)
*
11月上旬、武藤章は、上海で海軍軍令部第1部第1課長福留繁大佐に対し、
「中支那方面軍は今のところ中央の意を体し、依然として常熟、蘇州、嘉興の線の占拠をもって、当面の作戦の一段落とし、南京進撃の態勢を整えて爾後の計をたてるとの方針を持っている」、
と語る。
武藤は、参謀本部作戦課長から出向してきた身として、参謀本部にはいずれ追認させることができるという自信のもと、独断専行で南京攻略戦を発動する方針を述べる。
*
11月中旬、上海に戦情視察にいった河辺虎四郎作戦課長(戦争指導課長から武藤の後任に転任)に対し、武藤は、「南京をやったら敵は参る」と言いきる(「河辺虎四郎少将回想応答録」)。
中国一撃論を強硬に主張して、石原作戦部長を「追い出した」武藤は、拡大戦略の正しさを現実の作戦で実証する必要に駆られている。
*
「陸軍中央が予期も準備もしなかった日中全面戦争の開始によって、急遽、予後備役兵を召集して、臨時の特設師団を編成し、軍隊の装備も将兵の訓練・教育も不十分なままに、上海攻略戦に派兵、投入した俄か作りの部隊」(笠原「南京事件」)。
*
[司令官]松井石根大将、
[参謀長]塚田攻少将、
[参謀副長]武藤章大佐、
[参謀]公平匡武・光成省三中佐、中山寧人・二宮義清・吉川猛・河村弁治少佐、
[特務部長]原田熊吉少将、
[第3飛行団]値賀忠治少将-独立飛行4、6、10、14、15中隊
*
[中支那方面軍]
   ①直属部隊-----第3飛行団
②上海派遣軍---第16、9、13、3、11、101師団、
野戦重砲兵第5旅団、直属部隊
③第10軍--------第6、18、114師団、国崎支隊、
野戦砲兵第6旅団、直属部隊

*
■上海派遣軍(12年8月15日~13年2月14日)
[編成経緯]
12年8月15日、参謀本部、第3、11師団よりなる上海派遣軍「編組」と上海への派兵を命令。司令官松井石根大将(59)。目的は居留民保護で行動範囲は上海地区に限定。(臨参命73号)。通常作戦軍でなく一時的派遣。
*
軍令部と参謀本部の「北支作戦に関する陸海軍協定」(7月2日)の「帝国居留民の保護を要する場合においては、青島および上海付近に限定して陸海軍所要兵力協同してこれにあたる」に基づく、上海地区の日本人居留民保護という限定された任務をもつ小規模兵力の派遣。「上海派遣軍司令官は、海軍と協力して上海付近の敵を掃滅し、上海ならびに北方地区の要線を占領し、帝国臣民を保護すべし」(臨参命第73号)に限定されている。しかし、松井大将はこの命令墨守の意向は全くない。
*
この段階では、日本の軍中央と政府はまだ不払大方針をとり、戦争ではないとして「北支事変」という呼称をことさらに使い、華北・上海での局地解決を模索。「編組」というのは、派遣軍の任務が上海地区の日本人居留民保護に限定された小範囲の一時的派遣であり、純粋の作戦軍ではないという意味。統帥権を持つ天皇の命令による「戦闘序列」という正式用語をわざわざ避けた。上海派遣軍兵士も、精鋭の現役兵を送らず、戦力や規律で劣る予備役・後備役の兵隊を召集して派遣。参謀本部は、まだ戦局不拡大方針で臨んでいる。
*
上海への戦争拡大について橋本参謀長は、「上海の方にまで飛び火するとは誰も考えていなかったので、全面的戦争といってもただ北支に日本軍が相当な兵力を持っていって軍事的に一時これを占領するという位に考えておった」と回想(「橋本回想録」)、石原は「だいたい漢ロの居留民引揚げは有史以来ないことであり、もし揚子江沿岸が無事に終ったならば海軍の面子がないことになります。即ち今次の上海出兵は海軍が陸軍を引摺っていったものといって差支えない」と述べた(「石原回想録」)。
*
[司令官]朝香宮鳩彦王中将(12年12月2日~13年2月14日)、[参謀長]飯沼守少将、[参謀副長]上村利道大佐、[参謀]*西原一策大佐(1課長)、*長勇中佐(2課長)、*寺垣忠雄中佐(3課長)、川上清志・北島熊男・*芳村正義、大坪一馬中佐、二神力、志方光之、*本郷忠夫、御厨正幸、榊原主計、櫛田正夫少佐、大西一・佐々木克巳大尉(*は中支那方面軍参謀兼務)、[経理部長]根岸寛爾主計少将、[軍医部長]笹井秀恕軍医少将、[兵器部長]福原豊三少将、[法務部長]塚本浩次法務官、[憲兵長]横田昌隆憲兵少佐
*
〇第16師団(京都,定員25,179名)
[司令官]中島今朝吾中将、[参謀長]中沢三夫大佐、[参謀]大須賀応中佐、寺田盛寿少佐、木佐木久少佐
①歩兵第19旅団[草場辰巳少将]
歩兵第9連隊(京都)片桐護郎大佐、歩兵第20連隊(福知山)大野宣明大佐
②歩兵第30旅団[佐々木到一少将]
歩兵第33連隊(津)野田謙吾大佐、歩兵第38連隊(奈良)助川静二大佐
③騎兵第20連隊(笠井敏松中佐)、野砲兵第22連隊(三国直福大佐)
工兵第16連隊(今中武義大佐)、輜重兵第16連隊(柄沢畔夫中佐)
*
〇第9師団(金沢)
[司令官]吉住良輔中将、[参謀長]中川広大佐、[参謀]川久保鎮馬中佐、松沢恭平少佐、小西健雄大尉
①歩兵第6旅団[秋山義兌少将]
歩兵第7連隊(金沢)伊佐一男大佐、歩兵第35連隊(富山)富士井末吉大佐
②歩兵第18旅団[井出宣時少将]
歩兵第19連隊(敦賀)人見秀三大佐、歩兵第36連隊(鯖江)脇坂次郎大佐
③騎兵第9連隊(森吾六大佐)、山砲兵第9連隊(芹川透大佐)
工兵第9連隊(野中利貞大佐)、輜重兵第9連隊(三田村正之助大佐)
*
〇第13師団(仙台)
[司令官]荻洲立兵中将、[参謀長]畑勇三郎大佐
①歩兵第103旅団[山田栴二少将]
歩兵第104連隊(仙台)田代元俊大佐、歩兵第65連隊(若松)両角業作大佐
②歩兵第26旅団[沼田徳重少将]
歩兵第116連隊(新発田)添田孚大佐、歩兵第58連隊(高田)倉林公任大佐
③騎兵第17連隊(小野良三中佐)、山砲兵第19連隊(横尾芹川闊中佐)
工兵第13連隊(岩淵経夫少佐)、輜重兵第13連隊(新村理市少佐)
*
〇第3師団(名古屋)
[司令官]藤田進中将、[参謀長]田尻和雄大佐
①歩兵第5旅団[片山理一郎少将]
歩兵第6連隊(名古屋)川並密大佐、歩兵第68連隊(岐阜)鷹森孝大佐
②歩兵第29旅団[上野勘一郎少将]
歩兵第18連隊(豊橋)石井嘉穂大佐、歩兵第34連隊(静岡)田上八郎大佐
③騎兵第3連隊(星善太郎中佐)、野砲兵第3連隊(武田精一大佐)
工兵第3連隊(中島三栖夫大佐)、輜重兵第3連隊(栗岩尚治中佐)
*
〇第11師団(名古屋)
[司令官]山室宗武中将、[参謀長]片村四八大佐
①歩兵第10旅団[天谷直次郎少将]
歩兵第12連隊(丸亀)安達二十三大佐、歩兵第22連隊(松山)永津佐比重大佐
②歩兵第22旅団[黒岩義勝少将]
歩兵第43連隊(徳島)花谷正大佐、歩兵第44連隊(高知)和知鷹二大佐
③騎兵第11連隊(田辺勇中佐)、山砲兵第11連隊(山内保大佐)
工兵第11連隊(山内章大佐)、輜重兵第11連隊(大河原定中佐)
*
〇第101師団(東京)
[司令官]伊東政喜中将、[参謀長]西山福太郎大佐
①歩兵第101旅団[佐藤正三郎少将]
歩兵第101連隊(東京)飯塚国五郎大佐、歩兵第149連隊(甲府)津田辰参大佐
②歩兵第102旅団[工藤義雄少将]
歩兵第103連隊(東京)谷川幸造大佐、歩兵第157連隊(佐倉)福井浩太郎大佐
③騎兵第101連隊(大島久忠大佐)、野砲兵第101連隊(山田秀之助中佐)
工兵第101連隊(八隅錦三郎中佐)、輜重兵第101連隊(鳥海勝雄中佐)
*
〇野戦重砲兵第5旅団[内山英太郎少将]
野重第11連隊(浅田弥五郎中佐)、野重12連隊(富田富蔵中佐)
*
〇その他直属部隊 野重10連隊(長屋朝生中佐)、野重15連隊(街道長作中佐)、鉄道1連隊、独立工兵1、8、12連隊、独立野戦重砲兵2、3、4大隊、独立攻城重砲兵2、3、5大隊、野戦高射砲兵司令部、野戦防空司令部、独立機関銃1、2、7大隊、迫撃砲1、4大隊、戦車第1大隊(岩仲義治大佐)、同第5大隊〔細見惟雄中佐)、独立軽装甲車第2中隊(藤田実彦少佐)、同第6中隊(井上直造中尉)、同第7中隊(矢口昇中尉)、同第8中隊(福田林治大尉)、野戦瓦斯隊本部(森田豊秋少佐)、第2野戦化学実験部(風早清大佐)、第2(今瀬一夫医少佐)、第6野戦防疫部(駒田正雄医少佐)、兵站自動車隊、架橋材料中隊、渡河材料中隊、野戦鳩小隊、陸上輸卒隊、水上輸卒隊、建築輸卒隊、野戦道路構築隊、兵姑病院など
*
■第10軍(昭和12年10月20日~13年2月14日)
10月20日、3個師団からなる第10軍(柳川平助中将)編成。柳川兵団。任務は「上海派遣軍ノ任務達成ヲ容易ナラシム」というもの。
*
参謀本部作戦部長下村定少将(石原莞爾の後任)は、強力な中央軍が集中する上海方面に主戦場を移し、ここで戦果をあげた方が、「戦局終結の動機」を掴みやすいと考え、新たに第10軍(内地動員の第18、14師団、華北よりの第6師団)を編成し、上海の背後をつく為に杭州湾に上陸させる。また、華北からの第16師団を上海派遣軍に増派。この結果、上海方面には9個師団が投入され、内地に残る常設師団は第7、近衛の2師団となる。
*
[司令官]柳川平助中将、[参謀長]田辺盛武少将、[参謀]藤本鉄熊(1課長)、井上靖(2課長)、谷田勇(3課長)大佐、寺田雅雄、岡田重一、小畑信良中佐、吉永朴、池谷半二郎、山崎正男、大坂順次、堂ノ脇光雄少佐、仙頭俊三、清水武男、金子倫介大尉
*
〇第6師団(熊本)
[司令官]谷寿夫中将、[参謀長]下野一霍大佐、[参謀]秋永力中佐、藤原武少佐、岡田重美大尉
①歩兵第11旅団[坂井徳太郎少将]
歩兵第13連隊(熊本)岡本保之大佐、歩兵第47連隊(大分)長谷川正憲大佐
②歩兵第36旅団[牛島満少将]
歩兵第23連隊(都城)岡本鎮臣大佐、歩兵第45連隊(鹿児島)竹下義晴大佐
③騎兵第6連隊(猪木近太大佐)、野砲兵第6連隊(藤村謙中佐)
工兵第6連隊(中村誠一大佐)、輜重兵第6連隊(川真田国衛大佐)
*
〇第18師団(久留米)
[司令官]牛島貞雄中将、[参謀長]小藤恵大佐
①歩兵第23旅団[上野亀甫少将]
歩兵第55連隊(大村)野副昌徳大佐、歩兵第56連隊(久留米)藤山三郎中佐
②歩兵第35旅団[手塚省三少将]
歩兵第114連隊(小倉)片岡角次中佐、歩兵第124連隊(福岡)小堺芳松中佐
③騎兵第22連隊(小池昌次中佐)、野砲兵第12連隊(浅野末吉中佐)
工兵第12連隊(井沢新大佐)、輜重兵第12連隊(川内益實大佐)
*
〇第114師団(宇都宮)
[司令官]末松茂治中将、[参謀長]磯田三郎大佐、[参謀]中井増太郎中佐、宇垣松四郎中佐、森藤甚松大尉
①歩兵第127旅団[秋山充三郎少将]
歩兵第102連隊(水戸)千葉小太郎大佐、歩兵第66連隊(宇都宮)山田常太中佐
②歩兵第128旅団[奥保夫少将]
歩兵第115連隊(高崎)矢ヶ崎節三中佐、歩兵第150連隊(松本)山本重省中佐
③騎兵第18連隊(天城幹七郎少佐)、野砲兵第120連隊(大塚昇中佐)
工兵第114連隊(野口勝之助少佐)、輜重兵第114連隊(中島秀次少佐)
*
〇国崎支隊(歩兵第9旅団)国崎登少将
歩兵第41連隊(福山)(山田鉄二郎大佐)、独立山砲第3連隊(月野木正雄大佐)
*
〇野戦重砲兵第6旅団
野重第13連隊(橋本欽五郎大佐)、野重第14連隊(井出竜男大佐)
*
〇その他直属部隊 第1後備歩兵団、第2後備歩兵団、独立山砲兵2連隊(原田鶴吉大佐)、野戦高射砲兵司令部、独立機関銃8大隊、独立工兵2、3連隊、独立軽装甲9中隊、野戦瓦斯6中隊、第1野戦化学実験部(白倉司馬太大佐)など
*
▼海軍
◎支那方面艦隊
(長谷川清中将)
○第3艦隊(長谷川中将兼任)
第11戦隊(近藤英次郎少将)
安宅、堅田、鳥羽、八重山、栗、栂、蓮、保津、比良、勢多、嵯峨、二見、熱海
第24駆逐隊(山嵐、海風、江風、涼風)、第1水雷隊(鵲、鴻)
*
◎中支那方面軍
松井石根

明治11(1878)年7月27日~昭和23(1948)年12月23日)。愛知県。陸士9期(9期には陸軍大将6人:荒木貞夫、本庄繁、真崎甚三郎、阿部信行、林仙之、松井石根)。日露戦争に第2軍副官として出征。欧州各国に駐在武官・観戦武官として駐留。清国駐在武官、ハルビン特務機関を経験。熱心な大アジア主義者。1931年からジュネーブ一般軍縮会議全権。昭和8(1933)年3月、大亜細亜協会設立発起人(後に会長)、同年8月、台湾軍司令官就任、台湾亜細亜協会設立。1935年退役、1937年現役復帰。中支那方面軍司令官兼上海派遣軍司令官、陸軍大将。正三位勲一等功一級。昭和15(1940)年2月、熱海市伊豆山に興亜観音建立。南京大虐殺の責任を問われて東京裁判にて死刑判決、処刑。
*
塚田攻:
明治19(1886)年7月14日~昭和17(1942)年12月18日。茨城県。陸士19期、陸大26期。中支那方面軍参謀長、第8師団長、昭和15(1940)11月参謀次長。昭和16(1941)年11月南方軍総参謀長、第11軍司令官。飛行機事故により安徽省で没。陸軍大将進級。
*
武藤章:
明治25(1892)年12月15日~昭和23( 1948)年12月23日。熊本県。済々黌中学、陸士25期(富永恭次・佐藤幸徳・山内正文・田中新一・山崎保代ら)。陸大32期(冨永信政、青木重誠、酒井康、中村正雄、酒井直次、西村琢磨、橋本欣五郎ら)。ドイツ駐在、教育総監部勤務。二・二六事件後の「粛軍」で頭角を現す。、関東軍参謀、謀略部隊を組織。参謀本部作戦課長(盧溝橋事件では強硬論を主張)。中支方面軍参謀副長。昭和14年陸軍省軍務局長、昭和17年東條に追われて近衛第2師団長(スマトラ、メダン)。昭和19(1944)年10月5日第14方面軍参謀長(フィリピン)。東京裁判で唯一中将として絞首刑判決。
*
原田熊吉:
明治21(1888)年8月8日~昭和22(1947)年5月28日。香川県出身。陸士22期、陸大28期。中国大使館附武官、中支那派遣軍特務部長。第35師団長、第27師団長。昭和17年11月第16軍司令官(ジャワ軍政担当、ジャワ住民指導者に政治参加を許可、「軍政協力団・ジャワ奉公会」結成)。昭和20年早春、第55軍司令官(6月15日兼四国軍管区司令官)。陸軍中将。昭和22年5月28日搭乗員殺害事件の責を問われシンガポール・チャンギにて刑死(59歳)。
*
値賀忠治:
明治20年7月25日~昭和56年12月22日。陸大28期。浜松陸軍飛行学校幹事、第3飛行団長、陸軍中将・陸軍航空技術学校長、昭和148月31日予備役。
*
■上海派遣軍
朝香宮鳩彦:

明治20(1887)年10月20日~昭和56(1981)4月12日。陸大26期。久邇宮朝彦の第8王子、朝香宮家初代当主。第26代近衛師団長、上海派遣軍司令官。昭和13年3月軍事参議官。昭和14年陸軍大将。強硬な主戦論者、戦争末期の本土決戦で陸海軍統合を主張。94歳で没。旧邸は東京都庭園美術館(「アールデコの館」)。
*
飯沼守:
明21年11月25日~昭53年3月21日。陸士21期、陸大31期。昭和12年8月15日上海派遣軍参謀長。14年12月1日第110師団長。17年8月31日予備役。昭和20年2月20日召集、第96師団長。陣中日記「飯沼守日記」はよく引用される。
*
上村利道:
明22(1889)年2月10日~昭22(1947)年9月19日。陸士22期、陸大34期。12年8月22日上海派遣軍参謀副長。東京幼年学校長、第3軍参謀長、第29師団長、第5軍司令官、第36軍司令官。陣中日記「上村利道日記」はよく引用される。
*
西原一策:
明26年4月18日~昭20年1月23日。広島県。陸士25期、陸大34期。昭和4年1月国際連盟代表随員、昭和6年12月ジュネーブ軍縮会議全権随員、昭和8年12月~9年9月国際連盟陸軍代表随員。昭和12年8月22日上海派遣軍参謀。15年6月24日大本営参謀(仏印監視団長)。「西原機関」長、北部仏印進駐に際し「西原・マルタン協定」締結(15年9月22日)。騎兵学校長、騎兵集団長、戦車第3師団長、機甲本部長。
*
長勇:
明治28(1895)年1月19日~昭和20(1945)年6月23日。福岡県出身。陸士28期(白銀重二、森赳、中西良介、近藤新八、宮崎周一、一木清直ら)、陸大40期(額田坦 、今井武夫、片倉衷ら)。昭和5年9月橋本欽五郎らと桜会結成、翌年3月事件、10月事件を計画、発覚。昭和12年8月15日上海派遣軍第2課長、兼中支那方面軍情報主任参謀。14年3月9日第26師団参謀長。15年9月6日印度支那派遣軍参謀長、16年6月28日第25軍参謀副長。16年11月南方軍司附(仏印機関長)。17年11月10日第10歩兵団長。19年7月8日第32軍参謀長(沖縄)、20年6月23日自決。
*
〇第16師団(京都)
中島今朝吾:

1881年6月15日~1945年10月28日。大分県。陸士15期、陸大卒。仏・独駐在。舞鶴要塞司令官、習志野学校(化学戦)校長。12年8月第16師団師団長、13年7月第4軍司令官、14年9月私財略奪のかどで予備役編入。陸軍中将。「中島今朝吾日記」はよく引用される。
*
草場辰巳:
明21年1月2日~昭21年9月17日。陸士20期、陸大27期。昭和12年3月1日歩兵第19旅団長、13年10月30日第2野戦鉄道司令官、14年3月9日関東軍野戦鉄道司令官、15年10月1日第52師団長、16年11月6日関東防衛軍司令官、17年12月21日第4軍司令官、19年12月1日予備役、19年12月16日召集、大陸鉄道司令官。20年9月シベリア抑留、松村知勝中将・瀬島龍三中佐と共に東京に戻り、21年9月17日東京裁判出廷中に自決。
*
佐々木到一:
明19(1886)年1月27日~昭30(1955)年5月30日。愛媛県。陸士18期(山下奉文、岡部直三郎、阿南惟幾ら)、陸大29期。広東駐在武官、孫文の軍事顧問。帰国後、国民党による第4革命を予言。孫文の病床にも駆けつける。昭和9年12月10日満州国軍政部最高顧問。12年8月2日歩兵第30旅団長、13年3月1日独立混成第3旅団長、13年8月31日支那派遣憲兵隊司令官、14年9月7日第10師団長、16年4月30日予備役、20年7月16日第149師団長。30年5月30日撫順収容所で没。「佐々木到一少将私記」はよく引用される。
*
〇第9師団(金沢)
秋山義兌:

明治19年10月3日~昭和20年8月17日。京都府。陸士20期、陸大32期。大正11年10月25日満洲里特務機関長(~大正12年8月6日)、昭和12年3月1日歩兵第6旅団長。昭和14年1月31日独立混成第5旅団長。昭和15年8月1日第54師団長。昭和16年8月31日予備役。昭和19年8月22日召集、留守第55師団長、昭和20年7月30日第137師団長、昭和20年8月17日咸興でソ連軍と停戦、武装解除後、自決。
*
井出宣時:
明治19年11月9日~昭和33年7月13日。愛知県。陸士21期、陸大29期。イギリス駐在。昭和11年3月28日関東軍司令部附(満洲国軍顧問)、昭和12年3月1日歩兵第18旅団長。昭和14年8月1日旅順要塞司令官。昭和15年8月31日予備役。
*
○第13師団(仙台)
荻洲立兵:

明17(1884)年1月24日~昭和24(1949)年12月22日。愛知県。陸士17期、陸大28期。スイス、ドイツ駐在。昭和7年4月11日第1師団参謀長、8年10月16日歩兵第9旅団長、10年8月1日台湾軍参謀長。12年9月10日第13師団長。14年8月10日第6軍司令官、ノモンハンでソ連軍に完敗、同11月司令官罷免。15年1月29日予備役。

○第3師団(名古屋)
藤田進:

明治17年12月21日~昭和34年2月7日。石川県。陸士16期、陸大25期。昭和12年8月2日第3師団長、昭和14年10月26日第13軍司令官、昭和16年1月31日予備役、昭和18年5月興亜総本部実践局長、昭和20年4月1日召集、金沢師管区司令官。
*
○第11師団(名古屋)
山室宗武:

明13・10・2~昭38・10・31。陸士14期、昭和12年8月14日第11師団長、13年7月15日陸士校長、16年1月20日予備役、18年2月25日召集、教総附、野砲学校長、砲兵監、陸士校長、砲兵監。
*
花谷正:
1894(明治27)年1月5日~1957(昭和32)年8月28日)。岡山県。陸士26期、陸大34期。参謀本部付(支那研究員、鄭州駐在)。昭和3年8月関東軍参謀、4年8月歩兵第37聯隊大隊長、5年8月関東軍司附(奉天特務機関)、柳条溝の謀略にに参画。8年8月1日参本附仰付(済南武官)、10年8月1日関東軍参謀。12年11月1日歩兵第43聯隊長。14年1月31日満洲国軍顧問。18年10月23日第55師団長、ビルマ(アキャブ)で敗退。部下に自殺を強要するので有名。20年7月9日第39軍参謀長、同7月14日第18方面軍参謀長、21年7月復員、予備役。
*
和知鷹二:
明26・2・1~昭53・10・30。陸士卒、 陸大34期。昭和3年5月第6師団司附(済南特務機関)、同10月済南駐在武官。6年11月関東軍参謀、7年8月8日広東駐在武官。10年12月2日支那駐屯軍司附(大原機関長)、12年8月2日歩兵第44聯隊長、13年3月1日台湾軍司附(特務工作)、13年3月25日参本附(特務工作)、13年6月大本営附(蘭機関長)。 16年3月1日台湾軍参謀長兼研究部長、17年2月20日第14軍参謀長(バターン・コレヒドール作戦に従事)、17年8日兼比島軍政監。19年3月22日南方軍総参謀副長、19年11月14日第35軍参謀長、20年4月6日南方軍総参謀副長、20年8月中国憲兵隊司令官。21年1月戦犯として巣鴨拘置所に拘留、23年4月重労働6年、25月8日仮釈放。
*
〇第101師団(東京)
伊東政喜:

明治14年9月7日~昭和34年12月13日。陸士14期、砲工校14期、陸大24期。大正15年10月1日 陸軍省軍務局兵務課長。昭和8年8月1日 陸軍野戦砲兵学校長。昭和11年3月23日第3師団長。昭和12年8月31日予備役、同9月3日召集、第101師団長。昭和13年9月戦傷。昭和14年4月1日召集解除。2007年6月「第百一師団団長日誌」公刊。特設師団の実態、毒ガス使用、慰安所運用にも触れている。
*
〇野戦重砲兵第5旅団
内山英太郎少将:

1887(明治20)年12月16日~1973(昭和48)年12月25日。陸士21期、陸大32期)。昭和8年8月1日野砲兵第1聯隊長、10年8月1日野砲学校教官。12年9月1日野重第5旅団長、13年12月10日関東軍砲兵司令官(14年7月ノモンハンで戦う)、15年9月28日第13師団長、17年8月17日第3軍司令官、19年2月7日第12軍司令官、20年4月7日第15方面軍司令官兼中部軍管区司令官、20年10月第2復員軍司令官。21年6月搭乗員殺害事件で逮捕、24年1月重労働40年、33年4月仮釈放。
*
■第10軍
柳川平助:

1879年10月2日~1945年1月22日。長崎県。陸士12期、陸大24期。18(大7)年6月北京陸軍大学校教官に招聘。国際連盟派遣、欧州駐在。23(大12)年3月17日騎兵第20連隊長。大14年5月1日参謀本部演習課長。昭和2年4月1日騎兵第1旅団長で山東出兵。昭和7年8月8日陸軍次官。皇道派の中心人物として活動。9年8月1日第1師団長、10年12月2日台湾軍司令官。11年9月20日粛軍人事で予備役。12年10月14日召集、第10軍司令官。11月15日幕僚会議で独断で南京追撃を決定。13年12月16日興亜院総務長官。15年12月21日司法相、16年7月18日国務相。大政翼賛会副総裁。小磯内閣後継に擬せられるが病没。
*
〇第6師団(熊本)
谷寿夫:

1882年12月23日~1947年4月26日。岡山県。陸士15期、陸大24期。英駐在武官、インド駐在武官、'24~'27再度の陸軍大学校兵学教官時代に日露戦争研究必読書・兵学教科書「機密日露戦史」を著す。'30(昭和5)年国連派遣、国連陸空軍代表。'32年軍事調査委員長、'33年近江歩兵第2旅団長、'34年東京湾要塞司令官。'35第6師団長(熊本)'37年12月28日中部防衛司令官。'39予備役編入。'45年8月12日第59軍司令官兼中国軍管区司令官。戦後、南京大虐殺の責を問われ中国側に身柄を拘束、南京裁判により処刑(66歳)。柳川平助・中島今朝吾は没しており、朝香宮は皇族の為、谷に責任が廻ったとも云われる。尚、 南京裁判では、百人斬り競争を報道された野田毅陸軍少尉と向井敏明陸軍少尉、非戦闘員の三百人斬りを行ったとして田中軍吉陸軍大尉が死刑となる。
*
牛島満:
1887(明治20)年7月31日~1945(昭和20)年6月22日。陸士20期、陸大28期。1932年(昭和7年)8月8日陸軍戸山学校教育部長。1933年(昭和8年)3月18日陸軍省高級副官。1937年(昭和12年)3月1日歩兵第36旅団長。12月5日陸軍予科士官学校幹事。1939年(昭和14年)3月9日陸軍予科士官学校校長。陸軍戸山学校校長(兼任)。12月1日第11師団長。1942年(昭和17年)8月8日陸軍士官学校校長。1944年(昭和19年)9月26日第32軍司令官(沖縄)。1945年(昭和20年)5月22日南部撤退。6月23日早朝、摩文仁の丘洞窟内で長勇参謀長らと自決。同日付け陸軍大将特進。
*
竹下義晴:
広島。陸士23期、陸大33期。昭和6年10月5日関東軍参謀、昭和7年8月8日ハルピン駐在。昭和10年8月1日山海関特務機関長。昭和12年10月17日歩兵第45聯隊長、昭和13年7月15日上海特務機関長。昭和15年3月9日蒙疆連絡部長官。昭和16年12月8日 満洲国軍政部最高顧問、昭和17年11月9日第27師団長(~昭和19年5月30日)。昭和19年12月2日予備役、昭和20年1月20日留守第30師団長、同4月1日平壌師管区司令官。
*
〇第18師団(久留米)
牛島貞雄:

1876年1月30日~1960年9月1日。熊本県。陸士12期、陸大24期。)歩兵第3連隊長、参謀本部課長、1930年12月豊予要塞司令官。歩兵第29旅団長、陸大幹事、同校長、第19師団長を務め、1935年3月予備役。1937年9月召集、第18師団長。第2次上海事変の増援軍として第6師団・第114師団とともに第10軍に編入され杭州湾に上陸、中国軍背後から攻撃。上海戦後は南京攻略戦に参加、第10軍廃止後は中支那派遣軍隷下となり占領地の治安維持に当たる。翌年7月召集解除、以後、陸軍司政長官(フィリピン・ビサヤ支部長)、帝国在郷軍人会副会長。
*
*
「★南京戦インデックス」をご参照下さい。
*
--------------------------------------
「居留民保護」のため・・・・?
ちょっと待てよ、これと同じ言葉を最近聞いたゾ。
そうだ!! 予算委員会で、タロウが、「日本人の生命と財産を守るため」、海賊退治に軍隊を派遣するんだとかナントか・・・。
ヤバイ、ヤバイ。
まだまだ、学習効果が出ていないな。

それに、海賊「全員」を捕縛したら、「退治」できると思ってんのだろうか?
多分、全国民を逮捕するまで「退治」できないナ。
--------------------------------------
to be continued

0 件のコメント:

コメントを投稿