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猿啄城の概要は、一番目の写真を参照下さい。
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この城は、信長の中美濃侵攻時にターゲットになりました。
以下、藤本正行さん「信長の戦争」より。
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「美濃攻略への道
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(三)犬山城の対岸(木曾川北岸)に宇留摩(ウルマ)城(鵜沼城。現、岐阜県各務原市)と猿はみ城(猿啄〔喰〕城。現、岐阜県加茂郡坂祝町)があり、そこから五里奥に加治田城(現、岐阜県加茂郡富加町)があった。加治田城の城主佐藤紀伊守父子が信長に内通してきた。信長は「内々国の内に荷担の者、所望に思食折節の事なれば」非常に悦び、兵根代として黄金五十枚を贈った。
(四)犬山の家老で黒田城(現、愛知県葉栗郡木曾川町)の城主、和田新介と、於久地城主、中嶋豊後守が信長に内通し、城内に織田軍を引き入れた(この結果、永禄八年[一五六五〕七月頃、犬山城は落ち、織田信清は甲州に逃れた)。
(五)信長は美濃に出動し、宇留摩城の近くの伊木山(イギヤマ)に陣取。、圧力をかけた。宇留摩城は開城した。
(六)猿はみ城の上の大ぼて山に織田軍があがり、水の手(水源)を占拠した。猿はみ城も降参し、兵は退去した。
(七)斎藤軍の長井隼人正が、加治田城の近くの堂洞(現、岐阜県美濃加茂市)に砦を構え、関(現、岐阜県関市)に本陣をおいた。永禄八年(一五六五)九月、信長は堂洞城を落とした。帰陣の際、斎藤軍の追撃を受けたが、なにごともなかった。
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ここにいう「猿はみ城」が、今回の目標。
JR坂祝(さかほぎ)駅が最寄り駅、勿論(?)無人駅。JR高山線の美濃太田駅の一つ手前です。
一番下の写真の正面に見える小山が「猿啄城」です。頂上に小さな展望台があります。
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個人的には、この「猿はみ」よりも、加治田城、堂洞城に馴染みがあります。これらのある、美濃加茂市、加茂郡富加町に、不連続ですが5年ほど住んでいました。
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加治田城は信長側の調略により無血開城ですが、この加治田城への付城として美濃の斎藤氏が築いた堂洞城の攻略は激戦だったようです。「信長公記」の作者の太田牛一が二の丸入口にある家の屋根に上がり、無駄矢なく敵を次々に射倒し信長に褒賞されたといいます。
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to be continued
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返信削除はじめましてサカタといいます。花園さんのブログから辿りつきました。坂祝は、僕の実家の近くなんですよ。それでついコメントしてしまいました。僕も歴史には関心がありますので、非常に勉強になってますよ。
返信削除サカタさん
返信削除コメント有難うございます。さして面白くもないでしょうが、お付き合い下さい。
会社の関係で、20年ほど前に近くに住んでいたのですが、その頃はどっちか云うと昭和史ばかりやってたもんで、信長関係の史跡を巡るという惜しい機会を逸しました。もっとも、京都には20年以上も住んでて、結構たくさんおろそかにしていましたが。