2009年4月7日火曜日

明治17(1884)年11月1日(2) 秩父困民蜂起す

明治17(1884)年11月1日(2)
午後4時、下吉田・椋神社集結。
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午後7時頃、総理田代栄助、役割表読み上げ。
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■役割表。
「総理 大宮郷 田代栄助 
副総理 石間村 加藤織平 
会計長 下吉田村 井上伝蔵 同 上日野沢村 宮川津盛 同兼大宮郷小隊長 大宮郷 柴岡熊吉
参謀長 信州佐久北相木村 菊池貫平 
甲大隊長 西ノ入村 新井周三郎 同 風布村 新井十七吉 
乙大隊長 下吉田村 飯塚森蔵 同村 落合虎市 
上下吉田村小隊長 下吉田村 高岸善吉 
飯田村・三山村小隊長 飯田村 犬木寿作 
阿熊村・日野沢村小隊長 上日野沢村 村竹茂市 
白久村・贅川村小隊長 白久村 坂本伊三郎 同村 塩谷長吉 
蒔田村小隊長 蒔田村 逸見弥十 同村 姓不知者一人 
下日野沢村小隊長 下日野沢村 新井牧次郎 
三沢村小隊長 三沢村 萩原勘次郎 
兵糧方 下吉田村 井上善作 同 石間村 新井繁次郎 同 下小鹿野村 泉田蔀 
軍用金集方 信州北相木村 井出為吉 同 静岡県平民 宮川寅五郎 
弾薬方 阿熊村 彦久保次郎吉 同 西ノ入村 門松右ヱ門 
銃砲隊長 阿熊村 新井駒吉 同 石間村 新井貞吉 
小荷駄方 矢納村 島崎周作 同 群馬県平民 小柏常次郎 
伝令使 日野沢村 門平惣平 同 下吉田村 坂本宗作 同 本野上村 嶋田清三郎 同 下日野沢村 駒井貞作 岡 石間村 高岸某 同 大野原村 新井森蔵 同 群馬県沼田平民 堀口幸助」。
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「此外名前不知者三十人許」「斯役名ヲ申付タレドモ出先ニオイテ進退黜陟ハ大隊長飯塚森蔵、新井周三郎、参謀長菊池貫平ノ特権ニ任セ置キタリ。」(栄助訊問調書)。
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□分担表上の役割と実際。
村竹は、上日野沢から50名を動員、「自分ハ其隊長トナリ、進退ヲ伺ヒタリ、ナホコレハ竹槍組四〇人、鉄砲四挺、拾名余ハ抜刀隊ニ編入シ、三列ニ備へヲナシ、自分ハ其進退ヲ指揮シタリ」と、小隊編成について述べる。
菊池貫平の参謀長は自薦(裁判言渡書に「被告ハ自ラ撰ンデ参謀長トナリ」とあり)。
小柏常次郎は小荷駄方というのに上州勢を「自由隊」としてこれを指揮したとの証言あり。
坂本宗作は伝令使というのにゲリラ隊を率いる。
厳密な意味の職務分掌規定でなく、格付けに近い役割表と理解できる。
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伝令使坂本宗作の働き。
「坂本宗作判決文(死刑)」より。「被告は伝令使の任を受けたり。それ伝令使の任たるや暴徒の全体に注目し進退応援その機に当るを監督し、かつ総理副総理の代理をなすにあり。」、
「・・・まさに出発せんとするに臨み、暴徒中凶器を携帯する者あるをみて、下吉田村引間善六および斎藤利平方に迫り刀剣袴など数個を奪掠してこれを衆に分ち、乙隊とともに進行し同日午後八時頃同村吉川宮次郎宅前を通過する際、部下の衆宮次郎宅に火を放ちたるを制せず遂に焼燬するにいたらしめ、かつ同村山口金蔵外三人を脅迫して粮餉を供せしめ、進んで上吉田村にいたり戸長役場に乱入し公証割印簿十五冊を焼燬し、また同郡山口新九郎、和久井伊之吉、中嶋勝三郎、北野嘉吉にせまり刀剣類数個を強取しこれを部下に分附し、かつ村民を募集してこれを随行せしめ日尾村にいたり関口清三郎の家宅を破壊し財物証券等を焼燬しかつ村民を煽動随行せしめ同月二日午後一時頃小鹿野町に出でたり」。
宗作のこの日の役割は、下吉田、上吉田、日尾の各村戸長役場、各高利貸を襲って証券類を焼き、同時に武器調達と村民動員にあったことが分る。
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□兵糧方の仕事:
「焚出シノ頭」で、「田代栄助ヨリ金ヲ受取リ、諸方ヨリ米ヲ買集メ、ムスビニコシライ、人夫ニ申付ケ隊ノモノ其他へ配布」する(「新井繁太郎訊問調書」)。
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□服装、携帯する武器。
「暴徒ノ扮装ハ農人普通ノ時服、乃チ筒袖、股引・草鞋ニシテ、更ニ同徒一般ノ目標タル白鉢巻、白襷ナリシ、小隊長及相当ノ位置ニアル者ハ、紋付ノ羽織袴ニ大小刀ヲ佩ピタリ、総理等ノ如キハ羽織ハ黒斜子ノ紋付ニテ、袴ハ仙台平ノ類ナリ、大小刀ヲ佩ビ、黒ノ高帽ヲ冠リ、雪駄又ハ麻裏ヲ履キ、恰モ維新時代ノ諸藩士ノ如シ、而シテ小隊長等ハ各小旗ヲ襟ニ挟ミ、大隊長等ハ之ヲ携へタリ」。
「暴徒が携帯セシ武器ハ、主トシテ竹槍ナリ、之ニ次グモノハ刀剣ナリ、猟銃ナリ又鎗アリ、棍棒アリ、鳶ロアリ、木砲アリ」(「鎌田冲太「秩父暴動実記」)。
白鉢巻・白襷は困民党の目印とされる。これは予め幹部が決定し、各村オルグを通じて伝えられる。
「問 白鉢巻白樺等ヲ用意シテ応援スルト言フ事誰ヨリ聴キタルヤ 
答 (蜂起の日を伝えに来た)二名ノ者ヨリ聴キタレドモ、誰ノ命卜言フ事ハ不申、其二名ノ者ハ悉ク其装束ニテ加勢スル様ニ伝へ歩キタリト申セリ(「大野福次郎訊問詞書」)。
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□覚悟。
伝令使坂本宗作は、「悟山道宗信士」と改名を書いた白木綿の鉢巻をする(「坂本宗作裁判言渡書」)。
「妻児ヲ殺サントシ、或ハ自家ヲ焼カント期シタル者」(鎌田冲太「秩父暴動実記」)もあるなど、かなりの数の者がこの日、決死の覚悟でこの場に臨んだとみられる。
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□上日野沢村小隊島村竹茂市(45)は、門平惣平より蜂起前日の「陽動作戦」参加を要請されるが、「着衣ノ整備セザル為」、それに参加できず。
1日の蜂起の際は「木綿縞ノ上衣ニ、モグサ縞ノ下衣、紋ナキ稿ノ羽織、縞ノ袴」と、紋を入れる余裕はないものの、幹部にふさわしい身支度で出陣式に臨む。
「上日野沢村ヨリ召集シタル五十有余名ヲ結シ、自分ハ其隊長トナリ進退ヲ司ドリタリ・・・竹鎗組ハ四十人、鉄砲四挺、拾四名ハ抜刀組ニ編入シ、三列ニ備ヲナシ、白分ハ其進退ヲ指揮シ」(「村竹茂市訊問調書」)と述べる。
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会計長宮川津盛(56、秩父困民党幹部中最年長、重懲役9年6ヶ月)。
「被告ハ従来神職ヲ奉ジ近郷ニ名望アルノ故ヲ以テ明治十七年十月廿六日村竹茂市ノ頼談ニ因り之レニ同意ヲ表シ」(判決文)。
田代栄助に最初の宿を提供し親しく語りあい、津盛は栄助の信頼を得る。そして、翌11月1日~3日、津盛は栄助側近に影の如く存在。
「会計副長ノ任ヲ承ルモ常ニ総理栄助ノ側ニ扈従シ諸般ノ協議ニ与リ大ニ厚遇セラレ勢力モ亦随テ優等ナリ。」
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[「暴徒」の実態]。
群馬県庁の所有する「秩父暴徒犯罪ニ関スル書類編冊」14冊にある同県警察が逮捕した300余名の訊問調書の内、無罪放免のもの調書保存の不備なもの以外の調書261名を調査。
出身地は、
①秩父出身82、
②上州多胡・南甘楽郡を中心とした地域61名、
③山中谷(神流川流域)98、
④その他10。
逮捕に至る行動形態では、①②④は、11月4日迄秩父で活動し信州まで進出した歴戦の勇士、4日以後自村に帰ろうとして逮捕された者に分かれ、③は、貫平隊の信州侵入の道すがら、通過地帯の負債農民が信州まで長駆したケースが多い(神ヵ原村29。数は多いが、最初からの組織づくりではなく、大部分が「附和随行」)。
この4グループのうち、村として参加者の多いのは、小柏のオルグ地域、上下日野村が35名。これに対し15年自由党員の多い新井愧三郎の坂原村は僅か2名。織平・繁太郎の石間20、上下日野沢村12、矢納、太田部13。
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①事件参加者の読み書き能力。
警官は、代書人、書家、教員にはこの質問を発しないので、読み書き能力の明確なのは202名。
内、「姓名位ハ出来申供」が80名(40%)、「一切出来申サズ」「無筆」が122名(60%)。明治20年の秩父の不就学児童は50%以上。
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②職業。
農業70%。木挽、炭焼、屋根板割などの山林労働15。人夫、日雇、土方11名(内、富農から日当を受けて代役で竹槍をかつぎ出した者6)。小売商人、行商人6名、煙草製造人、生糸商、紺屋などの小営業者11名、大工、左官5名。
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③年齢構成。
30~39歳83、20~29歳63、40~49歳53、50~59歳34。19歳以下の未成年者15、最年少17、最高年齢者72。
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④前科。
「前科アリ」7名。内訳は、賭博犯5、兵役中の脱走1、拐帯犯1で、いずれも軽罪。
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⑤資産。
「資力イカン」という訊問で、答えも「家屋敷、畠地少々」というのが多く、統計化できない。
ただ訊問調書に戸長の身元証明が付されたものが幾つかあり、証明書の項目に「資産」の記入欄がある。後者を集めると、「資力ナシ」が4例。地価50~100円の5例の中には、畑7反20歩(地価42円余)、山林4町8畝(地価50円余)という17歳の少年もはいる。さらに資力120円、200円、800円と、中農層から富農にかけての3例がある。
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・役割言い渡しの後、栄助は具体的戦術を指示。
「高利貸営業者ニ対シテハ、貸金ノ半額ヲ抛棄シ、余ハ年賦ニ圧服セシメ、之ヲ承諾セザルトキハ直チニ家屋ヲ破壊シ、証書ヲ掠奪シ、其最モ苛酷ニシテ人家稠密セザル者ハ之ヲ焼燬スペキコト」。
放火する高利貸については、「何村ニテハ何某」と具体的に名をあげて指示(「木戸為三訊問調書」)。これは栄助が発議し、予め幹部の同意を得たもの。
この時、大隊長新井周三郎が発言を求め、「官ノ手配ガアレパ戦ヲ為ス」と一同に言渡す。彼はこの日既に、阿熊渓谷・清泉寺前・下吉田村戸長役場の各戦いで、率先して警官隊に戦を挑み、窪田巡査を殺害しており、この発言は迫力あったに違いない(「横田周作訊問調書」)。
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・次いで、軍律5ヶ条(菊池貫平起草)を読上げる。
第一条、私ニ金円ヲ掠奪スル者ハ斬ニ処ス、
第二条、女色ヲ侵ス者ハ斬、
第三条、酒宴ヲナシタル者ハ斬、
第四条、私ノ遺恨ヲ以テ放火ソノ他乱暴ヲナシタル者ハ斬、
第五条、指揮官ノ命令ニ違反シ私ニ事ヲナシタル者ハ斬    (「田代栄助訊問調書」)
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to be continued

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