2009年5月7日木曜日

昭和13(1938)年1月(7) 南京 アリソン事件

昭和13(1938)年1月23日
*
・第16師団師団長中島今朝吾中将、上海新市街の音楽学校にある中支那方面軍司令部に松井石根大将を訪問。異様な空気となる。
* 
松井の声がよく聞きとれず、「モウ声量ガナクナッタノカ、或ハ小生ノ前ナレバ消極的声音ニナリタノカ、モットモ少シ顔ガ振レル様デアル」(中島日記)と毒づく。
松井は軍紀問題を持ち出すが、中島は頭からはねつける。
「此男案内ツマラヌ杓子定規ノコトヲ気ニスル人物卜見エタリ。次ニ国民政府(中島師団司令部所在地)ノ中ノカッパライノ主人ハ方面軍ノ幕僚ナリト突込ミタルニ是ハサスガニシラバクレテ居リタリ。家具ノ問題モ何ダカケチケチシタコトヲ愚須々々言イ居リタレバ、国ヲ取り人命ヲ取ルニ家具位ヲ師団ガ持チ帰ル位ガ何カアラン。之ヲ残シテ置キタリトテ何人カ喜プモノアラント突パネテ置キタリ」(中島日記)。
松井も返す言葉が無かった様だが、「其云ふ所、例に依り言動面白からず。殊に奪掠等の事に関し甚だ平気の意見あるは、遺憾とする所、由て厳に命じて転送荷物を再検査せしめ、鹵獲奪掠品の輸送を禁ずる事に取計ふ」(松井日記、24日)とある。
掠奪家具・骨董品持ち出し阻止の意志が見えるが、翌年、この家具問題が兵務局や憲兵隊で摘発された事情を考えると、この時の松井の阻止手配は実行されなかった可能性が高い。
* 
23日
・日本政府「国家総動員法案要綱」33項目発表。
* 
24日
・この日付けジョン・ラーベの日記(「南京の真実」)。
「今日また高玉(総領事館警察責任者、日本大使館付き)が本部へやってきた。中国語のできる警察の高級将校がいっしょだ。高玉は、大学の難民収容所で若い娘を手に入れようとしているところをベイツに見つかってしまった。だから、収容所で「洗濯や料理をする人」を捜していたのだ、といいにきたというわけだ。「洗濯や料理をする人」だと? いったい誰がそんなたわごとを信じると思ってるんだ。中国では洗濯と料理は男の使用人の仕事だ。」
* 
24日
・小学生文庫「普通学校国史新参考書」、大正天皇と皇太后陛下の写真が逆であるとして発禁。
*
25日
・熊沢復六訳「マルクスの芸術論」、共産主義思想により発禁。
* 
25日
・ソ連の言語学者ポリバノフ、獄死。
*
26日
・アリソン事件

日本軍将校によるジョン・アリソン米大使館二等書記官殴打事件。ワシントン岡崎総領事、陳謝。30日、堀内謙介外務次官が陳謝。
* 
24日夜、武装した日本兵が難民キャンプに侵入、女性1人を拉致、彼らが占拠・宿泊しているアメリカ人の邸宅に連行して強姦。
2日後、アメリカ大使館員アリソンが、日本の領事館警察・憲兵同行で被害女性を伴い現場に行ったところ、中から出てきた日本軍将校がアリソンを殴打
ニュースは本国に伝わり世論の憤激を巻きおこし、ワシソトンでは日本特産のシルク使用ボイコットのデモ行進が起きる。岡崎総領事が政府を代表して正式陳謝に来ることで決着。
* 
「べーツとリッグスが来て、金陵大学内でリッグスが雇っていた二人の中国人女性が日本兵に連行され、一人は二時間後に煽ってきたが、三回強姦されたとのこと。
私は日本の領事館警察官と憲兵を同行して、連行された場所を突きとめた。すると赤い顔の大柄な日本兵が出て来て、英語で〝バック、バック″と叫び、私とリッグスを平手打ちにして、リッグスのシャツを破った。同行の憲兵(石倉軍二憲兵伍長と通訳の杉本上等兵)は傍観していた。そこへ将校が現れ、何やら叫ぶと、数人の兵が銃剣と小銃を持って飛び出してきたので、あきらめて日本大使館へ行き、中国人女性の釈放を要求した」(アリソンの回想録)。
* 
この事件に立ち会った派遣軍司令部本郷忠夫参謀の報告と石倉軍二伍長の回想を照合した真相。
この家屋は天野郷三予備中尉(歩33連隊第8中隊長)と十数名の兵士の宿泊所で、駆けつけた本郷大尉が兵士の阻止を振り切って天野の室に入ると、天野が女と寝台に寝ていて、隣室にも3~4人の女がいた。天野は連日、女を連行しては、部下と共に強姦していた。彼は陸士27期生の応召された弁護士で、部下には法学士もいたという。
軍司令部は、24日に南京を退去し華北に移動始める第16師団のうち、天野が所属する第2大隊(三浦俊雄少佐)の出発を中止し、憲兵隊を督励して取調べさせる。
天野以下12名は軍法会議へ送致され、1月29日、他の数件とともに軍司令官の決裁を終る。数件の中には、強姦、傷害等のほか、略奪した自動車を売り払った一団も含まれる。
天野は禁錮刑を課せられ、旅順陸軍刑務所へ送られる。戦後、弁護士を再開、昭和39年没。
* 
26日
・「読売新聞」第2夕刊、「総動員法」をスクープ。
第1面の3/4を「国家総動員法要綱、物心両面一切に一旦り高度統制原則確立」(7段見出し)と大々的に報じる。
* 
新聞はこの総動員法によって生殺与奪の権を完全に握られることになる。当初案の第21条「国家総動員上、必要あるときは、勅令の定むるところにより、新聞紙の制限又は禁止、これに達反した場合は発売、頒布の禁止、差押えが出来る」。第22条「一カ月二回以上、又は引続き二回以上新聞紙の発売、頒布を禁止した場合、国家総動員のため必要ある時は、勅令によりその新聞の発行を停止することができる」と規定。
*
27日
・この日付けジョン・ラーベの日記(「南京の真実」)。
「今日、午前中にローゼンと車で東部地区をまわった。家という家は軒並み略奪されてがらんとしており、しかもそのほぼ三分の一が焼けていた。」
*
28日
参本2部長本間雅晴少将、上海へ。2月1日、南京で外交団招待パーティ。
アリソンは、「このパーティのあと事態は目立って改善され、日本兵は優雅になったと」と回想。
*
28日
・南京特務機関、国際委員会に対し、警報電話設置、憲兵監視強化、日本兵士の行動範囲制限などを条件に、難民全員を2月4日までに帰宅させるよう要求。守らない者は軍隊の手で追い出す、帰る家のない難民は日本軍が準備中の新しい難民収容所に収容する、という。
* 
1月22日付国際委員会第49号文書によれば、市内の住民は約25万で、大半は安全を求め難民区に住みついている。正規の収容所には6万(うち金陵大学付属中学に1万5千、旧交通部に1万2千)しか入れず、残りは野宿に近い形でひしめいているが、自宅があっても帰ろうとしない者が殆ど。
* 
国際委員会は、「もし秩序が維持されるならば、住民は自発的に帰宅するであろう」(第56号文書)と反対するが、特務機関は聞き入れず、2月8日までに2万が帰宅。
* 
28日
南京の日本軍の軍紀頽廃問題、陸軍中央で密かに問題になってくる
この頃、予備役・元教育総監真崎甚三郎大将、上海派遣軍を視察した衆議院議員江藤源九郎予備役少将の報告を開く。
* 
軍紀風紀頽廃し、これを建て直さざれば真面目の戦闘に耐えずということに帰着せり。強盗、強姦、掠奪、聞くに忍びざるものありたり」とこの日付け日記に記す。
* 
28日
・イタリア軍、バルセロナ初空襲。
* 
28日
・ルーズベルト大統領、太平洋艦隊と大西洋艦隊の増強計画を議会に提案。
*
29日
・この日付けジョン・ラーベの日記(「南京の真実」)。
「マギーが八歳と四歳の少女を見つけた。親族は十一人だったというが、残らず残忍な殺されかたをしていた。近所の人々に救け出されるまでの十四日間、母親の亡骸のそばにいたという話だ。姉娘が家に残っていたわずかな米を炊いて、どうにか食いつないでいたという。」
* 
29日
・畑俊六教育総監、松井石根中支那方面軍司令官更迭を、杉山元陸相に進言。
* 
「支那派遣軍も作戦一段落とともに、軍紀風紀ようやく頽廃、掠奪、強姦類のまことに忌まわしき行為も少からざる様なれば、この際召集予后備役者を内地に帰らしめ、また上海方面にある松井大将も現役者をもって代らしめ、また軍司令官、師団長などの召集者も逐次現役者をもって交代せしむるの必要あり。この意見を大臣に進言いたしおきたる・・・。」(「畑俊六日誌」同日条)。
* 
31日
・華北臨時政府による関税率改訂に関し、アメリカが抗議を申し入れる。
* 
31日
・参謀本部より中支那方面軍司令官を更迭された松井のこの日付け日記。
「予は心中きわめて遺憾にしてまた忠霊にたいしても申し訳なきしだい」と日記(1月31日〉に記し、「予の離任はじっさい自負にあらざるも時期尚早なることは万人認むるところなるべきも・・・」と書く(「松井石根大将陣中日記」)。
* 
31日
・スペイン、第1次フランコ内閣成立。
* 
月末
・ドイツ、軍務大臣ブロムベルク、元街娼と結婚。軍の威信傷つけたとして解任。
*
to be continued

0 件のコメント:

コメントを投稿