2009年5月25日月曜日

源三位入道頼政 2.「平家物語」にいう挙兵動機

「我が身三位して、丹波の五箇庄・若狭の東宮河を知行して、さておはすべかりし人の、由なき謀叛起いて、宮をも失ひ参らせ、我が身も子孫も、亡びぬるこそうたてけれ。」(「平家物語」)。
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前年に清盛の推薦(兼実「玉葉」は清盛の憐憫の情によると評価しているが)により三位に進み、出家して入道となり、知行国も持ち、しかも齢77歳にして、何故に挙兵したのか。しかも、一族は滅び、後白河の子まで死に至らしめる結果となってしまった。
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この年、頼政は77歳と極めて高齢。
ちなみに、清盛63歳、後白河上皇54歳、俊成62歳、兼実32歳、慈円26歳、定家19歳。
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「平家物語」巻4「競(キオウ)」で、頼政の平氏への鬱憤の燃え上がる様が描かれる。
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(概要)
頼政の子の仲綱が持っていた名馬を平宗盛が強引に寄こせと云う。
仲綱はこれを拒絶するが、宗盛は執拗にこれを要求。
父頼政は、それほどに欲しがるのならば惜しむべきでないと諭し、仲綱はやむを得ず馬を宗盛に渡す。
宗盛は名馬に感心するが、引渡しを惜しんだ仲綱を憎み、馬に「仲綱」の焼印を押し、この「仲綱」を引き出し鞭で打ち、馬を仲綱に擬して侮辱する。
これを聞いて頼政の平氏への積年の鬱憤が爆発した、と頼政挙兵を説明する。
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「抑(ソモソモ)此の源三位入道頼政は、年来日来(トシゴロヒゴロ)もあればこそありけめ、今年如何なる心にて、謀叛をば起されけるぞと云ふに、平家の次男宗盛卿の、不思議の事をのみし給ひけるによってなり。されば人の世にあればとて、すゞろに云ふまじき事を云ひ、すまじき事をするは、よくよく思慮あるべき事なり。
たとへば、其の頃三位入道の嫡子伊豆守仲綱の許に、九重に聞えたる名馬あり。鹿毛(カゲ)なる馬の双(ナラビ)なき逸物、乗り・走り・心むけ、世にあるべしとも覚えず。名をば木の下とぞ云はれける。宗盛卿使者を立てて、
「聞こえ候ふ名馬を賜はつて、見候はばや」
と宣(ノタマ)ひ遺されたりければ、伊豆守の返事には、
「さる馬を持つて候ひしを、此の程余りに乗り疲らかして候ふ程に、暫く労らせんが為に、田舎へ遺して候」
と申されければ、
「さらんには力及ばず」
とて、其の後は沙汰なかりけるが、多く並み居たりける平家の侍ども、
「あつぱれ其の馬は一昨日も候ひし」
「昨日も見えて候」
「今朝も庭乗(ニハノリ)し候ひつる」
など、口々に申しければ、
「さては惜しむごさんなれ。憎し。乞へ」
とて、侍して馳せさせ、文などして、一時が中に五六度・七八度など乞はれければ、三位入道、これを聞き、伊豆守に向つて宣ひけるは、
「たとひ金を以て丸めたる馬なりとも、それ程人の乞はうずるに、惜むべき様やある。其の馬速かに六波羅へ遣せ」
とこそ宣ひけれ。伊豆守力及ばず、一首の歌を書き副へて、六波羅へ遣さる。
恋しくば来ても見よかし身に添ふるかげをば如何放ちやるべき」
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(現代語)
「これまで頼政は、波風立てず無難に過ごしてきたから、何事もなく暮らしてこられたのに、今年になって一体どんな心境の変化でこのような謀反を思い立ったのかというと、清盛の次男の右大将宗盛が、やってはならない非常識なことをした為に起こったことである。
人は、世に時めき栄えているからといって、言ってはならないことを言ったり、やってはならないことをしたりすることは、よくよく思慮を巡らさねばならないことである。」
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その頃、源頼政の嫡子伊豆守仲綱のもとに、都中に評判のみごとな駿馬(「九重」)が飼われていた。並みが鹿毛というので、「木の下蔭」をもじって「木の下」と名付けられていた。
この噂を伝え聞いた宗盛が、「評判の高い名馬を借りて、見たい」と、使者を寄越す(平家一門の宗盛の「見せてほしい」という要求は、「その馬を寄越せ」というのも同然のこと)。
そこで仲綱は、「そういう馬をもっておりましたが、余り乗りまわし過ぎて、疲労させてしまったので、暫く骨休めの為に、田舎の方にやってあります」と腕曲にこれを断る。
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そうであるなら仕方ないと、宗盛は諦め、その後は音沙汰もなかったが、平家の侍たちが、その馬は、一昨日まではおりました、昨日もおりました、今朝も庭で調教しておりました、と不審の言辞を述べる。
宗盛は、さては、惜しんでいるな、憎らしい、是が非でも貰い受けよ、と憤慨し、侍を遣り、また書面でも馬を寄越せと申し入れる。
これを聞いた頼政は、息子に、たとえ黄金で作った馬でも、それほど人が欲しがるものを惜しむことはない、即刻、馬を六波羅へ呉れてやれ、と諭す。
仲綱は仕方なく、一首の歌を添えて、馬を六波羅へ引き渡す。「それほど恋しいなら、こちらへきてご覧になるがよい。私の身に添って離れることのない影のような鹿毛を、どうしてたやすく手放すことができましょうか」という意味を込める。
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馬は武士にとってかけがえのない重要なもので、それを権勢をかさに奪う宗盛の行為は、言語道断で理不尽な暴挙である。
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「宗盛卿、先づ歌の返事をばし給はで、
「あっぱれ馬や、馬はまことによい馬でありけり。されども、余りに惜しみつるが憎さに、主(ヌシ)が名のりを金焼(カナヤキ)にせよ」
とて、仲綱と云ふ金焼をして、厩(ウマヤ)にこそ立てられけれ。
客人(マラウド)来て、
「聞こえ候ふ名馬を見候はばや」
と申しければ、
「其の仲綱めに鞍置け」
「引出せ」
「乗れ」
「打て」
「はれ」
なんどぞ宣(ノタマ)ひける。
伊豆守、此の由を伝へ聞き給ひて、
「身に代へて思ふ馬なれども、権威について取らるゝさへあるに、剰(アマツサ)へ天下の笑はれぐさとならんずる事こそ安からね」
と大に憤られければ、三位入道宣ひけるは、
「何でふ事のあるべきと思ひ慢(アナド)って、平家の人どもが、か様のしれ事をするにこそあんなれ。其の儀ならば、命生きても何にかはせん、便宜(ビンギ)を窺ふにこそあらめ」
と宣ヘども、私には思ひも立たれず、高倉宮を勧め申されけるとぞ、後には聞えし。」
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(現代語)
宗盛は、なんと立派な馬が、本当に良い馬だ、と名馬に感嘆するが、それにしても持ち主が余りにもの惜しみしたのが憎いしいので、その主人の名の焼き印をせよ、と命じる。
やがて、客が来て、評判の名馬を見たい、と申し入れると、
宗盛は、「仲綱」に鞍を付けよ、曳き出せ、乗れ、鞭で打て、なぐりつけろ、などと命じる。
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それを伝え聞いた仲綱は、我が身に代えてもと大切に思う馬であるのに、それを権威をかさに着て取り上げられただけでも口惜しいのに、更に世間のもの笑いの種にされるのは我慢がならぬ」と憤る。
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頼政はそれを聞き、たいしたことはなかろうと慢心して、平家の者がこのような馬鹿げたことするのであろう、そうならば、生きていても何の甲斐があろうか。(謀反の)機会を狙って平家に思い知らせてやろう、と思い立つ。
そして、これを私的な企てとせず、(天下の大事とする為に)以仁王に働きかけたと、後に世間でとり沙汰された。
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このくだりに引き続き、「平家物語」は、こうした宗盛の愚かな行動を耳にするにつけ、世間の人々は、宗盛の異母兄小松の内大臣重盛の行動を思い出すとして、重盛のエピソードを語る。
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