2009年5月11日月曜日

二条城周辺(1) 堀河天皇里内裏址 福井藩邸跡 橋本左内寓居跡





二条城の向いに「京都国際ホテル」があります。
①②③の石碑は、すべてこのホテルの正面(④)にあります。
⑤は、ホテル裏にあります。
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平安時代、この辺りは内裏の東南にあたり、冷泉院(今の二条城辺り)、堀河院、閑院、東三条院という邸宅が建ち並んでいたそうです(閑院、東三条院については、次回以降にご紹介)。
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堀河院に関しては、別に以下の碑がありました。
「堀河院の遺跡
二條通と堀川通によって画された東西一二〇米、南北二五〇米地域は、古の堀河院の遺址であって、正式には左京ニ坊九、十町に當たっている。初めそれは、関白 藤原基経(836-891)が造営した大邸宅であった。 彼は主に公式な行事のため本邸を用いた。ここで宴会が催されたときなどには、公卿たちの牛車は堀河の東側に立てられ、牛は二條堀河の橋の欄干に繋がれていたと言う。この邸宅における苑池の美しさは、幾多の詩歌に詠まれている。
基経の死後、堀河院は息子の左大臣・仲平に伝えられ、彼の娘などの手を経て関白・藤原兼通の所有に帰した。兼通の娘の子は円融天皇の中宮であったため、本邸は円融上皇の御所となったこともある。兼通の息子の顕光がここに居住した時分には様々な話題で時人の関心の的となった。
堀河院が最も脚光を浴びたのは、ここが堀河天皇の御所(里内裏)となっていた時期であって、天皇は嘉承二年(1107)七月ここで崩じた。この委細は、『讃岐典侍日記』に見事に叙べられている。
 
平成元年七月
文学博士 角田 文衛」
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福井藩邸跡の説明板の内容はは下記です。
「この油小路二条下ル西側(現京都国際ホテル)の一帯には、江戸時代後期、福井藩の藩邸があった。藩邸がおかれたのは比較的新しく、天保二年(1831)の「京大絵図」に描かれている。藩邸は藩の京都連絡事務所で、留守居役が詰め、町人の御用掛を指定して、各種の連絡事務に当った所である。
福井藩は、慶長五年(1600)徳川家康の二男結城秀康が封ぜられたのに始まる親藩の雄藩で、石高は最大六十八万石、江戸中期以後は、三十二万石。幕末に松平慶永が藩主となってから、人材を登用して藩政を改革し、水戸藩とともに幕府政治の改革にのりだし、さらに公武合体運動をすすめて、幕末政局に一方の旗頭となって活躍した。この藩邸は、幕末の福井藩の活躍にとって、大きな役割を果した。
京都市」
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橋本左内寓居跡の説明板の内容は下記です。
「橋本左内は福井藩士で幕末の志士。安政五年(1858)二月から四月まで、この地にあった福井藩邸に居住して、活躍した。左内の号は景岳。福井城下に生れ、大阪、江戸で洋学、医学を学び、藩主松平慶永に認められて藩学明道館の幹事となった。一八五七年の藩政改革には由利公正らと手腕をふるった。折から幕府の将軍継嗣問題が起り、藩主を先頭に、一橋慶喜を立てる運動を展開。左内は藩命を帯びて江戸より京都に来て、桃井亮太郎又は桃井伊織の変名のもとに、ここを根拠にしてさかんに活躍した。しかし井伊大老の就任によってこの運動は失敗し、それのみか、左内は牢舎に入れられ、一八五九年安政の大獄によって死刑に処せられた。時に年二十六才。
京都市」
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京都国際ホテル

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