2009年5月28日木曜日

鎌倉のいしぶみ 大蔵幕府跡 西御門跡 東御門跡 宇津宮辻幕府跡 若宮大路幕府跡

鎌倉のいしぶみから、幕府跡の変遷を見てみます。
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まず「大蔵幕府跡」
治承4年(1180)に頼朝がこの地に屋敷を築いてから嘉禄元年(1225)まで。
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この年、頼朝は富士川の合戦で平氏軍を破り、その後上洛せずに、佐竹氏を討ち12月に新邸に移ります。
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12月12日
・頼朝、上総権介廣常が宅より新宅(八幡宮東側の大倉郷に竣工、大倉御所)移転への儀式。
頼朝と御家人の支配関係確認儀式(京に対して鎌倉政権樹立宣言)。
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「和田の小太郎義盛最前に候す。加々美の次郎長清御駕の左方に候す。毛呂の冠者季光同右に在り。北條殿・同四郎主・足利の冠者義兼・山名の冠者義範・千葉の介常胤・同太郎胤正・同六郎大夫胤頼・籐九郎盛長・土肥の次郎實平・岡崎の四郎義實・工藤庄司景光・宇佐見の三郎助茂・土屋の三郎宗遠・佐々木の太郎定綱・同三郎盛綱以下供奉す。畠山の次郎重忠最末に候。
・・・今日、園城寺平家の為に焼失す。金堂以下堂舎・塔廟並びに大小乗経巻、顕密の聖教、大略以て灰燼と化すと。」(「吾妻鏡」同日条)。
この条は、足利義兼・山名義範の「吾妻鏡」初見記事。
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(現代語)
「十二日、庚寅。・・・亥の刻に前武衛(頼朝)が新造の御邸へ移られる儀式があった。
(大庭)景義を担当として去る十月に工事始めがあり、大倉郷に作られた。
定刻に(頼朝は)上総権介広常の宅を出発し、新邸に入った。(頼朝は)水干を着て、(石和の栗毛の)馬に乗った。
和田小太郎義盛が最前を行き、加々美次郎良活が(頼朝の)馬の左につき、毛呂冠者季光が同じく右についた。
北条殿(時政)、同(北条)四郎主(義時)、足利冠者義兼、山名冠者義範、千葉介常胤、同(千葉)太郎胤正、同(東)六郎大夫胤頼、(安達)藤九郎盛長、土肥次郎実平、岡崎四郎義美、工藤庄司景光、宇佐美三郎助茂、土屋三郎宗遠、佐々木太郎定綱、同(佐々木)三郎盛綱以下が付き従った。畠山次郎重忠が最末に従った。
・・・出仕した者は三百十一人という。また御家人たちも同じく居館を構えた。これより以降、東国の人々は皆頼朝の徳ある道を進むのを目にして、鎌倉の主として推戴することになった。
鎌倉は元々辺鄙なので、漁師や農民以外、居を定めようという者は少なかった。そのため今この時にあたって、巷の道をまっすぐにし、村里に名前をつけた。それだけでなく家屋が立ち並び、門扉が軒をめぐらすようになったという。
今日、園城寺が平家のために焼失した。金堂以下の堂舎や塔廟、それに大小乗の経巻や、顕密の聖教がほとんど灰となってしまったという。」。
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大蔵幕府跡
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さて、次は「宇津宮辻幕府跡」
この年7月11日、政子が70歳で没します。
最高権力者は執権泰時ですが、将軍候補として京都の九条家から頼経(この年8歳)を迎えています。
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12月13日
・三寅(頼経)、宇都宮辻子の新御所に移る(宇都宮御所)。
西侍所での御所の宿直警固は小侍所で行なうことになる(小侍所番役)。
但し、西侍所での宿直警固も復活し、遠江以下東国15ヶ国の御家人らに12ヶ月毎に交替して宿直させる(鎌倉番役又は鎌倉大番役)。
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12月21日
・幕府、評定衆を定め、定番人を設置。
豪族的領主の代表的長老三浦・中条・後藤3名、大江・三善・二階堂・中原など貴族出身の文筆職員系統の者8名で成立(北条氏一門はなし)。
また、鎌倉大番の制を定める(「吾妻鏡」)。
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12月29日
・三寅(8)、御所にて元服。頼経と名乗る。烏帽子親は執権泰時。
政子没により、早く三寅(頼経)を将軍につける必要があるため、元服も急ぐ。
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宇津宮辻幕府跡
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最後に「若宮大路幕府跡」
嘉禎2年(1236)、よく理由はわかりませんが幕府はこの地に移ります。ただ、距離もそんなに離れている訳ではありません。
「ここはおそらく第三代執権北条泰時の邸内の一画にすぎないだろう」(河野真知郎「中世都市 鎌倉」講談社学術文庫)といわれています。
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中世都市 鎌倉―遺跡が語る武士の都 (講談社学術文庫)

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8月4日
・将軍頼経、若宮大路の新幕府に移徒。
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12月19日
・泰時、若宮御所北隣に自邸新造、移徙(「吾妻鏡」同日条)。
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若宮大路幕府跡
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