2009年8月5日水曜日

京都 町小路(新町通)を歩く(9終章) 丹波亀山藩京屋敷跡 新玉津島神社 藤原俊成屋敷跡 平忠度のこと 北村季吟遺跡

京都の新町通りを御池通りから五条通りまで南下するそぞろ歩きも9回目にして終章を迎えた。
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新町松原
(現在の松原通りが五条大路)
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新町松原から東方向を見る
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丹波亀山藩京屋敷跡
(新町松原東入ル北側)
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藤原俊成屋敷跡
新玉津島神社
北村季吟遺跡
(新町松原東入ル南側)
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藤原俊成(定家の父)の屋敷は、
五条大路(現、松原通り)の室町~烏丸にあり、
後鳥羽天皇の時(文治2年1186)、勅命により、自宅に
和歌山和歌浦にある玉津島神社に祀られる歌道の神「衣通郎姫」を勧請、
これが新玉津島神社となる。
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足利家も当社を崇敬し社殿を修造、境内に和歌所を設け、
歌道伝授の際には勅使が遣わされる。
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江戸時代、芭蕉の師北村季吟は、
この神社の宮司を7年間勤め、万葉集注釈書編纂に励んだという。
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「寺社巡りインデックス」をご参照下さい。
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「京都インデックス」をご参照下さい。
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俊成の家といえば平家都落ちの際の平度忠(40、清盛の末弟)の物語が想起される。
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寿永2年(1183)年7月25日
平家の都落ち
平宗盛自ら、六波羅の平家屋敷に火を放ち、安徳天皇・建礼門院を連れて西海へ向かう。先頭に宗盛、その後に安徳天皇と建礼門院徳子が乗る御輿が続く。大納言時忠が、安徳天皇と建礼門院徳子を連れ出し、三種の神器(八咫の鏡・草薙の剣・八尺瓊ノ勾玉)入った唐櫃を持ち出す。
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この時、薩摩守忠度は、淀の川から武士5人・童1人連れて引き返し、藤原俊成邸へと向かい、形見として一綴りの帖を渡す。
後日、俊成は「千載和歌集」を完成させ、忠度の歌を「読み人知らず」で掲載
「さざなみや志賀の都はあれにしを むかしながらの山ざくらかな」。
俊成の子の藤原定家編纂の「新勅撰集」では作者を忠度として再録。
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翌寿永3年(1184)年2月7日
一の谷の戦い
忠度は、搦手(西の谷の木戸口)の大将軍。
戦場離脱直前、岡部六弥大忠純に見つかり、「これは味方ぞ」とあしらうが、組みつかれる。忠度は「大ぢからのはやわざ」を発揮し六弥太を組み伏せ、首を斬ろうとする寸前で六弥太の従者に右腕を切り落とされる。
忠度は、もはやこれまでと六弥太を投げ飛ばし、西に向かい、十念を唱えた後に討たれる。
「ゆきくれて木のしたかげをやどとせば 花やこよひのあるじならまし 忠度」
と書かれた文が、箙(えびら)に結びつけられており忠度ということが判明(「平家物語」9「忠度最期」)。
八条河原に首が並べられる(「吾妻鏡」2月13日条)。
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