2009年10月3日土曜日

京都 三条通りを歩く(4) 弁慶石と弁慶石町

京都の三条通りを烏丸通りから東に向ってレトロな街並みを眺めながら進んでいます。
六角通りの手前あたりに「弁慶石町」の町名が残され、北側に「弁慶石」なるものが置かれている。
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本エントリ後段では、瀬田勝哉「洛中洛外の群像」(平凡社ライブラリ)により、この弁慶石の由来やこれにまつわる物語を解説する。
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享徳元年の頃、人々によって国から国へと運ばれ京都に入り、のちに弁慶石町となるこの地に置かれる(弁慶石が置かれたが故に、町名は弁慶石町と名付けられる)。
但し、天正18年の秀吉による京都大改造により石そのものの所在は不明になった模様。
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増補 洛中洛外の群像―失われた中世京都へ (平凡社ライブラリー)
増補 洛中洛外の群像―失われた中世京都へ (平凡社ライブラリー)

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弁慶石のあたりから、西側を見たところ。
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信長が上杉家に贈ったとされる上杉本「洛中洛外図」の「ペんけい石」と注記された小さな光景がある。
鴨川が金雲で中断されたところに、金雲と金地のにまたがって大きな三蓋松(サンガイマツ)があり、その根元で、諸肌脱いだ男が大きな石を持ち上げようとして懸命に頑張っている。
周囲には囃す者、俺に代れとせかす者、励ます者もいる。
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上杉本で弁慶石が描かれているほぼその位置に、現在「弁慶石町」という名の町がある。
現存する石の横にある札には、近世の地誌に載る由来と、明治23年6月、近くの誓願寺の方丈の庭にあった弁慶石が町内の有志によって引き取られ、昭和4年に今の場所に建立されたとある。
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寛永14(1637)年の「洛中絵図」でもこの地が「弁慶石町」と呼ばれており、町名の由来は、かつてこの辺りにあった弁慶石によるものであろう。
上杉本に描かれる位置とも矛盾なく、弁慶石がかつて中世のある時期ここにあったことは確実である。
しかし、弁慶石そのものの由来となると、諸説あって確定しない
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由来の2類型
①寛文5年(1665)の「京雀」、同年の序のある「扶桑京華意」、貞享2年(1685)の「京羽二重」、元禄3年(1690)「名所都鳥」等。
----京の北の入口鞍馬口にあった弁慶腰掛の石が鴨川の洪水で流され、三条御幸町の辺り、今の弁慶石町にとどまった。その後、石は更に南に移り、現在は七条西朱雀の水薬師の境内にある、というもの。
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②その10余年後の18世紀初頭の「山州名跡志」「山城名勝志」。
----奥州衣川にあった弁慶石が、享徳(または享禄)年間に入洛し、三条京極にあった京極律寺に安置され、『山州名跡志』では、京極寺は他に移転したが、石は残され、その後近所にある誓願寺方丈の庭に移されて今も存在するという。
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③その後更に60年下る宝暦12年(1762)の「京町鑑」、安永9年の「都名所図会」、天明7年の「拾遺都名所図会」、寛政5年の「都花月名所」等、18世紀後半成立のものは、弁慶石の由来には全く触れないで、ただ、今は誓願寺の方丈の庭にあるとするだけ。
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弁慶石入洛
「臥雲日件録」(五山禅僧の瑞渓周鳳の日記。原日記はなく、永禄5年に相国寺僧の惟高妙安が抄録した「抜尤」1冊が現存)享徳元年11月6日条。
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瑞渓周鳳が南禅寺の希杲蔵主(キコウゾウズ)から聞いた話として・・・。
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先月20日頃、弁慶石なるものが山科から送られてきて、南禅寺門前に置かれた。
この石はもと奥州衣河の中にあって、昔弁慶がその上に立って死んだとの謂のある石である。
石には霊力があって、衣川にある時、自分を京の五条橋に連れていくようにと人に告げた。
石の求めに応じて人々が川の中から引き上げると、衣川の水は3日間逆まくほどの強い霊力を顕わした。
以来、国から国、村から村へ伝え、南禅寺門前に到着したという。
また、杲蔵主は、石の大きさ、色等についても語っている。
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石の大きさは縦横1尺7、8寸(岩というほどのものではない)、「色ハ紫」、小石が3つ付いていたという。
石は神霊の依り憑くものとされ、死者の霊魂も再生復活するためにはいったん石に籠るという観念が強く、弁慶の蘇りを期待する人々が、この石に籠もった弁慶の霊を感じとったと思える。
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弁慶石が奥州衣川から京に送られてきたという確証はなく、虚構であった可能性もある。
しかし、京都から見れば、山科の村人たちが、大津道を日の岡峠を越えて、東山の麓の南禅寺門前に弁慶石を置いた事は事実である。
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弁慶石入洛の享徳元年10月20日の数日前から、東山辺一帯は騒然とした空気に包まれている。
理由は不明だが、山門の僧等が祇園社に閉籠し、馬借は近辺の寺院に押し入って資財を奪い破却し、「河東通路叶ハズ」の状態で、弁慶石は五条橋にまで行けず南禅寺門前に置かれることとなる。その後の弁慶石の消息は、記録から一切消えてしまう。
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伝承を書き留めた「山州名跡志」は元禄15年(1702)に完成し、「臥雲日件録」は享徳元年(1453)で250年の開きがある。
両者の共通点、相違点は・・・。
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南禅寺から五条橋まで辿り着いたかどうかは定かではないにしても、望郷の念にかられた弁慶の霊を鎮魂する人々によって、その後は由緒ある所に安置され、丁重に祀られ、何らかの伝承が管理されるか、少なくともその場に痕跡を留めるのが、時代の空気であったと思われ、近世においてその伝承の残っている場が三条京極弁慶石町ということになる。
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では何故三条京極か?
この辺り一帯は、摂関期の11世紀中頃には、鴨川に接した木材交易の市の立つ新興の市街地であった。弁慶石が置かれたという京極寺は、その中心にあったらしく、祇園社の末寺として、山門強訴の折には京極寺の神輿も参加するなど、山門の洛中進出の基地的役割を果たしている。
しかし、弁慶石入洛当時の室町期の消息は全く伝わらない
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天正3年(1575)、薩摩の大名島津義久の弟家久か上洛した時の日記の5月5日条に、連歌師里村紹巴と東山辺を回っての帰り道の様子に、「さてあハタ(粟田)ロに見猿・きかさる・いはさるとて 石に作て有といへとも今はなし さて其ロを打過て 弁慶石といへる所にて 紹巴よりもたせられ候酒たへ候 其より紹巴の館へかへり申候」とある。
永禄12年、信長は将軍義昭の邸として(旧)二条城を築城するが、その際には、洛中洛外の名石名木を集めて庭を造り、石仏、石像を徴発して石垣を構築した。この日記によると、上杉本「洛中洛外図」にも描かれた粟田口の「見猿・きかさる・いはさる」の三猿堂は、既に石像徴発によりなくなっているが、弁慶石は残されている。
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その後、天正18年(1590)の秀吉の京都大改造により、弁慶石町辺りは様相が一変する。
三条大橋架橋によって三条通は京のメインストリートの一つに格上げされ、大きな商家が建ち並び、優秀な茶陶の集まる別世界が出現する。
この地はもはや洛の周辺部(京極)ではなく、一挙に洛の中心部と同質の世界に変わってしまう。そして、弁慶石はその居場所を失う羽目に陥ったものと思われる。
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近年の発掘調査で、この弁慶石町の中央部から桃山時代の大規模な町屋敷の遺構が検出され、またこれまで京都で出土した茶陶類の中では質量共に群を抜くものが多く出土している。
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「★京都インデックス」をご参照下さい
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