2009年11月14日土曜日

天文18(1549)年3月~6月 松平広忠(家康父)暗殺 鉄砲が初めて京都に出現 鉄砲の実戦使用(薩摩) ケットの乱 [信長16歳]

天文18(1549)年 [信長16歳]
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3月
・武田晴信(信玄)、真田幸隆(37)が仲介して帰属した佐久郡望月源三郎に知行700貫文を安堵。真田幸隆の武田氏の信濃先方衆としての立場が確認できる。
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3月1日
・毛利元就、次男元春・3男隆景を伴い山口に行き大内義隆と会見。~5月18日。義隆、内藤興盛の娘を養女とし長男隆元に嫁すことを約す。元春、陶隆房と兄弟の契りを結ぶ。
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3月3日
・筒井順慶、大和に誕生(異説1548年)。
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3月5日
・近衛稙家は、将軍義輝の命を受けて、種子島時堯に、南蛮人直伝の火薬調合の秘伝の伝授方を依頼(「種子島家譜」)。
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3月6日
・岡崎松平家当主広忠(24、家康父)、家来岩松八弥により殺害される。竹千代を人質にとっている織田方に寄る危惧があり、今川義元は、松平氏が織田方に寝返ることを防ぐため、直ちに朝比奈泰能・鵜殿長持らに岡崎城を接収させ、重臣の何人かを人質に取る。
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3月18日
・今川義元・雪斎和尚(太原祟孚)大将の軍勢、岡崎松平勢と共に織田山崎城攻略、安祥城に迫る。夜、那古野城からの平手政秀の援軍に松平勢夜討ち。19日、今川・松平勢5千、安祥城再攻撃、退去。
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4月
・佐久郡春日城が落ち、望月・伴野の諸氏が武田家に降りる。
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4月14日
・フランシスコ・ザビエル(43)、ゴアを出帆。4月14日~5月30日ゴアからマラッカへ。5月30日~6月24日マラッカでの滞在。6月24日マラッカから鹿児島へ
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4月18日
・鉄砲が初めて京都に入る
細川晴元、種子島銃のことを聞き、本能寺の僧侶を通じて入手し試作させる。翌年7月の洛中の戦いに実戦使用。
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「種子が嶋より鉄放馳走し候て此方へ到来す。誠に悦悦せしむるの由彼嶋へも書状を以て申し候。御届けあるべく候。なほ古津修理進申すべく候、恐々謹言。 四月十八日 (細川)晴元(花押) 本能寺」(「本能寺文書」)。
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4月26日
・細川晴元、三好政長救援のため一庫城入城。政長勢の反撃強まる。
政長は、勇気付けられ、伊丹親興と協力して尼崎に進出、城下に火を放ち榎並城包囲の長慶らを牽制。
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5月5日
・三好政長、三宅城占領。芥川城は孤立。28日、細川晴元、六角定頼のを待たずに三宅城進出。
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5月、政長らは富松城(尼崎市富松)を包囲し長慶の本城、越水城を脅かす。
また、三好政勝の友人で晴元被官の丹波の香西元成も、長慶義弟の芥川孫十郎が守る芥川城を攻めるなど、摂津各地で榎並包囲の兵力分散させようとする。
芥川救援のため、長慶一族の三好長逸(ナガユキ、之長の子長則の子、元長の従弟)の東摂津移動の間隙に、政長は三宅城を占拠。
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この頃ようやく軍勢催促の効果が現れ、岸和田某・木沢某等の反長慶方牢人が堺北庄に進出、長教敦・長慶らはこれへの兵力を割かねばならなくなる。
しかし、本願寺証如光教は、長慶側勝利を予想し、5月17日、細川氏綱に馬・太刀を贈る。
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5月29日
記録に残る実戦での初めての鉄砲の使用
・薩摩の島津貴久、種子島時尭(ときたか)から献上された種子島銃を実戦に使用。
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6月
・ネーデルランド17州、神聖ローマ帝国から独立
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6月
・イングランドでケットの乱
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ロバート・ケット(皮職人)と弟ウィリアム(肉屋):
ノーフォークのウィモンドハム出身の名士、ケット家はノルマン王朝成立の頃からの旧家で領地3ヶ所を所有、年収50ポンドで裕福。彼らも地主として囲い込みを実行するが、悲惨な農民達を目にして自ら囲い込みを解き、近隣の囲い込み破壊活動も指揮するようになる。
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(ケットの乱の顚末)
6月、ケット兄弟は自村の他家の囲い込み柵を破壊、6週間地主を排除。その報に刺激され、ケント、ハープハム、アトルボローと、次々と柵破壊が広る。
兄弟は農民1千で武装集団を結成、7月7日ウィルモンドハムを出発しノリッジを目指す。12日マウスホールドに本拠地をおく。
ケットは、敵は囲い込みであり、国王と対立する意志はなく、20日迄に「我らは国王の代理人である」との宣言を出す。
この時点で、反乱軍は2万人に増え、ケットはマウスホールドに自前の議会を作り(ノーフォーク代表24人、サフォーク代表101人)、国王に29条の請願書を提出(囲い込み禁止、海・川での漁業権復活、公平な借地料制定、聖職者保護、それらを監視する自由選挙による役人公選など)。
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21日、国王使者が武装解除を命じるが、ケットは拒否。近郊のノリッジ市は戦闘に向け城門を閉じ大砲を向けてくる。
翌22日ケット側から攻撃。10日後ノリッジ攻略。指揮官ノーサンプトン卿戦死、ノーサンプトン軍は敗走。反乱軍はノリッジに入り、ジェントリーの屋敷に放火、敗残兵・敵協力者を探索。
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8月21日ウォーリック伯軍(傭兵含む1万4千)、ノリッジ着。後、ドイツ傭兵隊1万4千が増援。
28日、激戦の末にケット兄弟は捕縛、反乱軍残党は投降。反乱軍リーダー9名含む300名がノリッジ市中で処刑。
12月7日、兄ロバートはノリッジで、弟ウィリアムは故郷ウィモンドハムで処刑。
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