2009年11月23日月曜日

天文18(1549)年6月~12月 江口の戦い(細川晴元政権崩壊) フランシスコ・ザビエル(44)、鹿児島上陸 織田信広と松平竹千代(家康)の人質交換 [信長16歳]

天文18(1549)年 [信長16歳]
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6月11日
・三好政長、長慶が在城する中嶋城(堀城、東淀川区塚本町)と榎並城の間を遮断する為、三宅城より摂津江口の里(東淀川区)へ着陣。
細川晴元、六角の救援を三宅城で待つ(六角軍を率いる定頼の子・義賢は、24日、山城山崎到着予定)。12日、一部が来援していた近江の武将新庄直昌、戦死。
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細川晴元・三好政長と三好長慶・遊佐長教の戦い
長慶は四国から弟十河一存(かずなが)を呼び、遊佐長教と共に、大和の筒井、河内の畠山政国、摂津地侍らを味方にし、摂津の三宅城付近まで進軍し江口城の三好政長を攻撃。
細川晴元岳父六角定頼は、和泉の細川元常・岸和田兵部大輔・紀伊の根来寺衆徒に出兵を求める。
近江方面では、三好長慶の細川晴元への謀反と記録される(「長享年後畿内兵乱記」)。
江口城は、淀川と支流神崎川とが三方に囲み、南の榎並城、北の三宅城より要害の地。
細川晴元軍は、塩川から三宅城に在城。
江口城への糧道と三宅城との連絡を遮断するため、長慶弟の安宅冬康・十河一存が別府川(摂津市別府)に布陣。
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6月18日
・本願寺証如、前関白九条稙通の求めに応じ銭を融通。
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6月24日
・フランシスコ・ザビエル(43)、池端弥次郎に案内されてマラッカ出帆、日本に向かう。「シナ」人アバンの船で凡そ30トン、2本マストの船。
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6月24日
江口の戦い
三好長慶(28)の家臣十河一存、安宅冬康(淡路水軍)の支援で別府から神崎川を渡河し、三好政長の摂津江口の里攻撃。三好長慶3千も後詰め。政長軍の戦死数百、政長は討死。
20数年続いた細川晴元政権崩壊
(管領代茨木長隆は、これ以降資料から姿を消す。晴元政権からも在地の茨城城からも追放されたと推測できる)。
三好政長の子政勝は摂津国榎並城を出奔。東寺に着陣の六角義賢(定頼の子)は近江に引き上げ。十河一存は三宅城の晴元を討つべと主張するが、長慶は反対。25日、細川晴元、安宅冬康に守られて嵯峨に逃げる。
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長慶、江口城(東淀川区南江口付近)において三好政長・田井源介・波々伯部左衛門尉ら晴元宗徒の被官800を攻め殺し、摂・河・泉を制圧。
晴元方の敗因は六角定頼の援軍到着の遅れという。
口丹波から猪名川沿いに三宅城(大阪府摂津市・茨木市の境界付近)まで来ていた晴元は丹波を経て京都に入り、将軍義輝・義晴らを伴って近江坂本へ退却。
大永7年(1527)以来、22年余り続いた晴元政権は崩壊。
以後、天文22年(1553)8月に将軍を近江朽木谷に追放し長慶政権が確立するまで、約4年間、京都の争奪が繰り返される。
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三好政長が用いていた太刀「三好左文字」は、没後、武田信虎が京畿遊覧中に入手、ついで今川義元の所持品となる。現在、京都の建勲神社にあり、「義元左文字」といわれる。中子には、「永禄3年5月19日義元討捕、則彼所持刀、織田尾張守信長」と金象眼してある。
三好政長は茶の湯を武野紹鴎に学び、秘蔵の名器「作物茄子」(つくもなす)は、没後、松永久秀の手に渡り、久秀が信長に献上して、久秀の命を永らえさせたというほどの名品。政長は阿波の茶道の祖といわれる。
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6月27日
・細川晴元・将軍義晴父子・義晴岳父准后近衛稙家・大納言久我晴通・細川晴賢・元常父子、慈照寺へ退きついで近江坂本に移る。
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在京の主要権門をあげての撤退。義晴は神楽岡(左京区神楽岡)で評定を開き、長慶と一戦を交えようと諮るが、晴元・義賢ら厭戦気分に滅入った大名達は撤退を主張、その夜は慈照寺に宿泊。翌日、志賀越を通り、坂本の常在寺へ入り、ここを仮幕府とする。
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7月3日
・イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエル(44)、ジャンク船「海賊号」で鹿児島投錨。22日、日本人信者ヤジロウ(アンジロウ、37~38)の導きで鹿児島上陸。
鹿児島に1年滞在し、平戸~豊後府内(大分市)~京都入りするが、京都では将軍・天皇に会えず、比叡山にも登れず、滞在11日で布教は果せず、1551年春、周防長門の大内氏の許に去る。
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鹿児島の島津貴久はザビエル一行を城に迎え入れ、異国の話を聞いてたいそう喜び、宣教許可を与える。領主側の真の狙いは貿易。
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ザビエルは、ポルトガル領マラッカを出発する際、マラッカのカピタンから数トンもの胡椒を貰い、その売上で日本布教に要する経費を賄う。
ザビエルは、来日早々からポルトガル貿易にとっての日本の市場的価値に関心を示し、堺に商館を設けるべき、日本に輸入する商品は何がよい、などについて関係者に意見を述べる。
ポルトガル貿易と一体に結びついて進められたキリシタン布教の在り方は、ザビエルの時から始まる。
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「予は印度出発以来マラッカ到着までの我等の航海ならびに航海中に我等がなしたる事につきてマラッカより長き書簡を送りしが、今我等の主デウスが無限の御慈悲をもって我等を日本に導き給ひしを記述すべし。
一五四九年サン・ジュアンの祭日の午後、当地方に渡るため、我等はマラッカより我等を日本に連来ることをマラッカの司令官に申出たる異教徒たるシナ商人の船に乗りたり。
・・・一五四九年八月、聖母の祭日、サンタ・フェーのパウロの故国なる鹿児島に着きたり。彼の親戚その他は愛情を示して我等を迎へたり。・・・
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日本に付きては我等が見聞して知り得たる所を左に述ぶべし。
第一我等が今日まで交際したる人は新発見地中の最良なる者にして、異教徒には日本人に優れたる者を見ること能はざるべしと思はる。此国の人は礼節を重んじ、一般に善良にして悪心を懐かず、何よりも名誉を大切とするは驚くべきことなり。
国民は一般に貧窮にして、武士の間にも武士の間にあらざる者の間にも貧窮を恥辱と思はず。彼等の間には基督教諸国に有りと思はれざるもの一つ有り。即ち武士は甚だ貧しきも、武士にあらずして大なる富を有する者之を大に尊敬して、甚だ富裕なる者に対するが如くすることなり。又武士は甚だ貧しくして多額の財産を贈らるゝも、決して武士にあらざる階級の者と結婚することなし。賎しき階級の者と結婚する時はその名誉を失ふべしと考ふるがゆえなり。彼等は此の如く富よりも名誉を重んず。
この国の人は互いに礼儀を尽くし、又武器を珍重し、大にこれを信頼せり。彼等は常に剣および短剣を帯し、貴族も賎しき者も皆十四歳よりすでに剣を帯せり。彼等は少しも侮辱または軽蔑の言を忍ばず。
・・・多数の人皆読み書きを知れるが故に、速に祈祷及びデウスの教を修得す。この地は盗賊少し。盗をなす者を発見する時はこれを処罰し、何人をも生存せしめざるがゆえなり。
彼等は盗の罪を非常に憎悪せり。此国の人は善良なる意思を有し、好く人に交はり、大に知識を求め、デウスの事を聴き之を解する時は甚だ喜べり。予が一生のうちに観たる各国のうち、キリスト教国とキリスト教国にあらざるとを問わず、かくのごとく盗を憎む所なり。
・・・俗人の間に罪悪少く、又道理に従ふことは坊主(Bonzos)を称すパードレ及び祭司に勝れり。・・・(中略)・・・
我等よき真の友なるサンタ・フェーのパウロ(ヤジロウ)の町において、同所の司令官(Capitao)およびその地の知事(Alcayde)ならびに一般民衆より大なる好意と親切を以て迎へられたり。
彼等はポルトガルのパードレを見て大に驚きしが、パウロがキリシタンとなりたることを少しも異とせず、かえって大に尊敬し親戚その他は彼がインドに行きて当所の人が見ざる事を見たるを大に喜べり。
当国の太守(Duque)もまた大に彼を愛し、多くの栄誉を与へ、ポルトガル人の習慣、武勇および政治並に印度の所領につきていろいろ質問し、パウロが何事もよく説明したれば、大に満足せり。
・・・同夫人はキリシタンの信ずる所を書面に認めて送付せんことを請ひたれば、パウロはこれを作るため数日を費す、わが教の事を多くその国語にて書きたり。・・・我等もし国語を話すことを得ば、すでに多くの事を成したるならん。パウロは多数の親戚友人に対して昼夜説教をなしたれば、その母、妻および娘、ならびに男女の親戚および友人の多数、キリシタンとなりたり。今当地においてはキリシタンとなることは怪まず、彼等の大部分は読み書きを知れるがゆえに速に祈祷を覚ゆ。 
天文十八年十月十六日 鹿児島より キリストにおいての最も愛する兄弟 フランシスコ」(「耶蘇会士日本通信」)。
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○ザビエルの同行者ヤジロウ(アンジロウ)
薩摩(鹿児島)の出身。もとは貿易に従事していたという。ルイス・フロイス「日本史」は海賊(八幡(バハン))とも書く。
殺人者として追われ、弟・従者と共に、鹿児島に来航していたポルトガル船に乗ってマラッカに逃れる。そこで、船長の勧めで罪を告白する為、ザビエルを訪ねる。
この出会いについてザビエルは、後に手紙の中で、「このマラッカの町にいたとき、わたしが大変信頼しているポルトガル商人たちが、重大な情報をもたらしました。それは、つい最近発見された日本と呼ぶ大変大きな島についてのことです。彼らの考えでは、その島で私たちの信仰を広めれば、日本人はインドの異教徒にはみられないほど旺盛な知識欲があるので、インドのどの地域よりも、ずっとよい成果が挙がるだろうとのことです。/このポルトガル商人たちとともに、アンジロウと呼ぶ一人の日本人が来ました。彼はマラッカから日本へ行ったポルトガル商人が私のことを話したのを聞いて、私を探してここまで来たのです。このアンジロウは青年時代に犯した罪についてポルトガル人に話し、こんな大きな罪を主なる神に許してもらうための方法を求め、私に告解したいと思って来たのでした。
・・・彼は私に会って大変喜びました。彼は私たちの教理を知りたいと熱望して、私に会いに来たのです。彼はかなりポルトガル語を話すことができますので、私が言ったことを理解しましたし、私もまた彼の話が分かりました。」(「聖フランシスコ・ザビエル全書簡」)。
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ヤジロウら3人は、ゴアの聖パウロ学院でキリスト神学を学び、5ヶ月間でポルトガル語の読み書きと会話を身に付け、1548年の聖霊降臨祭に洗礼を受ける。
インドでの布教に悪戦苦闘しているザビエルは、ポルトガルの商人から得た情報や、アンジロウたちを知ることによって、日本での布教に確信をもつようになる。ザビエルは、出航直前の手紙で、「日本でたくさんの人びとを信者にしなければならないと、主なる神において大きな希望に燃えています。私を助けてくださる主なるイエズス・キリストにおける大きな希望を抱いて、まず日本の国王に会い、次に学問のおかれている諸大学へ行く決意です。」(彼らの伝道方法は、まず支配者層に近づき、彼らをキリシタンにしてその力を利用して、一気に大衆を動かすというのが常道)。
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晩年ヤジロウについては、フロイスによれば、ザビエルの離日後、ヤジロウは布教活動から離れ海賊に戻り、中国近辺で殺害されたという。また、仏僧らの迫害を受けて出国を余儀なくされ、中国付近で海賊に殺されたもいう。
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7月9日
・三好長慶(28)、細川氏綱(尹賢の子、高国の養子)を擁して中島城より入京。
今村慶満京都代官(西院小泉城)・松永甚介長頼(久秀の弟、武将としては久秀よりも評価は高い)、諸軍指揮。松永久秀は右筆。
曽祖父三好之長以来初めて畿内の実権掌握。かつて大永7年に上洛した父元長と異なり、摂津国衆を殆ど掌握しはるかに強力。
天文19~22年、長慶と幕府(義輝・晴元)との苛烈な戦いが始まる。長慶は、本拠を摂津越水城におき、摂津・山城の有力国人を味方に、京都支配を確実なものにすべく将軍義輝と戦う。三好長慶、京都市中に地子銭を徴集。
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7月15日
・武田晴信(信玄)、伊那郡箕輪城建設開始。
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8月
・武田晴信、佐久郡を制圧
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8月27日
・山科言継(権中納言・陸奥出羽按察使兼任)、山科家所領の山科七郷が松永長頼に占拠され、山科家得分の率分(ソツブン)関(京の7口に設けた関所)が今村慶満に押領されたので、摂津芥川城の三好長慶に宛てて返還を哀訴する手紙を送る。結果ははかばかしくない。
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松永長頼らは、京都占領に要する軍事費調達の為に、今度こそ荘園制を最後的解体に追い込む企図を持つ。
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9月
・武田晴信、平原城を放火。村上方の望月・伴野・芦田・依田氏らが降る。
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・宇喜多直家(21)、児島日比の海賊頭領四宮隠岐守を訪問。仲介で犬島海賊日本佐奈介と和解。
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9月3日
寺尾の戦い
武田信玄が鏑川を渡り寺尾に進軍してくるのを待ち構えて、上杉憲政方安中忠政を大将とする西毛の諸将は6千騎で迎え撃つ。上杉方、敗走。
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9月4日
・大内・毛利軍、平賀隆宗の奮戦により神辺城を攻略。城主山名理興、出雲に逃走。
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10月
・イングランド、ウォリック伯ジョン・ダドリ、摂政サマセット公を失脚させる。カルヴァン主義的改革を推進。
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摂政サマーセット公はケットの乱への関与が取り沙汰され、反乱の責任を取らされる形でロンドン塔に投獄。翌年釈放。1551年10月ウォーリックにより再びロンドン塔へ投獄、52年1月10日、反逆罪で処刑。
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10月29日
・細川氏綱、京都山科7郷を松永甚介長頼(久秀弟)に宛行う。
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11月
・武田晴信(29)、都留郡主小山田氏と協議して過料銭を課す。
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・織田信長(16)、熱田8ヶ村に制札発給。信長の初見文書
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11月8日
・今川義元・松平勢7千(太原崇孚(雪斎)指揮)、安祥城再攻撃。織田信秀庶子信広、降伏、捕虜となる。本多忠勝父戦死。10日、笠寺(名古屋市南区笠寺町)で織田信広・松平竹千代人質交換。竹千代(8、のち徳川家康)、織田から今川の人質になる。27日、駿府に赴く。以後12年間、駿府にて人質生活。安祥城落城によって信秀は三河の拠点を失うことになる。
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11月8日
・松永久秀、有力三好被官として「内者松永弾正忠」(「言継卿記」同日条)と見える。
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11月15日
・山科言継、下京の若衆5人(町衆)を山科邸に呼び大鼓小鼓などの音曲を演奏(「言継卿記」同日条)。
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11月20日
・「近所六町の宿老衆」、四辻室町の罪科人闕所のことにつき、住宅破却の執行に干与(「言継卿記」同日条)。晴元政権崩壊後、町衆の動きが再び顕著になってくる。
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町組が成立したにもかかわらず、京都の町衆による自治権の表徴ともいうべき在地裁判権の発動は、きわめて時期的に限定されたもので、極端にいえば天文18~20年の僅か3年たらずの期間ということになる。
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11月24日
・ロシア、イヴァン4世(雷帝)、弟ユーリーを伴って対カザン戦出陣。
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12月15日
・松永久秀、本願寺証如から贈物を受ける。
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12月21日
・ナヴァル女王マルグリット・ド・ナヴァル(57、マルグリット・ダングレーム)、没
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