2009年11月7日土曜日

京都 寺町通りを歩く(3) 天性寺 誓願寺 本能寺

秀吉が小田原戦争を終えた天正18年、京都の都市改造を始めます。
寺町通りは、平安時代には最も東に位置する東京極大路でしたが、この秀吉の京都大改造により、通りの東側に市中の寺、とくに民衆が多く信仰していた浄土宗、日蓮宗、時宗の寺院を整然と並べられ、この通りの名称となりました。
現在、四条通りを北上中。
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天性寺
(寺町三条上ル)
曼茶陀山と号する浄土宗の寺。
前は上京区曼陀羅町(堀川上立売西入ル)にあり、
秀吉命によりこの地に移る。
大和国当麻寺の念仏堂にいた眼誉が、
中将姫の遺徳を都の人々に広める為に、大永年間(1521~28)に創建。
中将姫は右大臣藤原豊成の娘といわれ、
天平年間に当麻寺に入り、法如と号し、
蓮の糸で「当麻曼茶羅」を織ったことにより浄土に招かれたという女人。
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誓願寺
(新京極三条下ル)
深草山と号する浄土宗西山深草派の総本山。
天智天皇(位668~71)の勅願所として奈良に開かれ、
平安京造営により、上京区の元誓願寺通小川に移る。
その後、秀吉の都市改造により天正年間に現在地に移る。
秀吉の側室松の丸殿(京極龍子)の支援により大伽藍が完成、
その規模は境内六千坪、本堂、報恩堂、釈迦堂、三重塔、
地蔵堂などの諸堂と塔頭十八寺をかぞえる壮大なもので、
京都有数の巨札であったという。
しかし、その後の天明の大火などで衰退、
胎内に五臓六腑があったという本尊の阿弥陀如来も焼失した。
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本能寺
(寺町御池下ル)
卯木山と号する本門法華宗の本山。
宗祖の日隆が応永22年(1415)油小路高辻に本応寺を建てたことに始まるという。
しかし、宗徒同士の争いで破壊され、永享元年(1429)、豪商小袖屋宗句の帰依を受けて再建、
のちに場所を移し、本能寺と名を改める。
その後の天文法華の乱(1536)では、法華宗側は堺に敗走、本能寺も焼かれる。
のち、第8世日承が「本能寺の変」が起こる地に再建する。
「本能寺の変」では全てが焼け落ち、
天正20年、秀吉がこの地に再建する。
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寺町御池に到着
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「★京都インデックス」  「★寺社巡りインデックス」もご参照下さい。
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