2010年6月19日土曜日

治承4(1180)年9月1日~3日 「紅旗征戎 吾事ニ非ズ」(「明月記」)。 謀反から内乱へ転化。 「謀叛の賊義朝の子、・・・近日凶悪を事とし、・・・宛も将門の如しと・・・」(「玉葉」)。

治承4(1180)年9月
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・藤原定家(19)「紅旗征戎、非吾事」(「明月記」)。
「九月。世上乱逆追討耳ニ満ツト雖モ、之ヲ注セズ。紅旗征戎吾事ニ非ズ。陳勝・呉広・大沢ヨリ起り、公子扶蘇項燕卜称スルノミ。最勝親王ノ命卜称シ、郡県ニ徇(アマネ)シト云々。或ハ国司ニ任ズル由、説々憑ムべカラズ。右近少将維盛朝臣、追討使トナリ、東国ニ下向スべキノ由、其ノ聞エアリ。」(「明月記」)。
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9月1日
・頼朝、安房の安西景益に参向を促す。
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「武衛上総の介廣常が許に渡御有るべきの由仰せ合わさる。北條殿以下、各々然るべきの由を申す。爰に安房の国の住人安西の三郎景益と云うは、御幼稚の当初、殊に昵近し奉る者なり。」(「吾妻鏡」同9月1日条)。
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「一日、庚成。武衛は上総介広常のもとに渡ろうと言う。北条殿(時政)ら皆が、それがよいと言う。安房国住人の安西三郎景益は、(頼朝が)幼少の頃に特に側近くで仕えていた者である。そこではじめに手紙を送った。
内容は、「令旨は厳重なものなので、(安房国の)在庁官人らを誘って参上せよ。また、安房国で京都から下ってきた輩は、ことごとく搦め進めよ。」というもの。」 (「現代語訳吾妻鏡」)
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9月2日
・北条政子、頼朝の安否を知る。 
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「御台所伊豆山より秋戸郷に遷り給う。武衛の安否を知り奉らず。独り悲涙に漂い給うの処、今日申の刻、土肥の彌太郎遠平御使いとして、眞名鶴崎より参着す。日来の子細を申すと雖も、御乗船後の事を知ろし食されず。悲喜計会すと。」(「吾妻鏡」同9月1日条)。
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「辛亥。御台所が伊豆山から秋戸郷に移った。武衛の安否を知らず、一人悲しみに暮れているところ、今日の申の刻に、土肥弥太郎遠平が使者として真名鶴崎より到着。この間の状況を申し上げたが、船に乗りになってから後のことは知り得ないので、悲しみと喜びとが入りまじ
っていたという。」 (「現代語訳吾妻鏡」)
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9月2日
・頼朝の伊豆での反乱、福原に届く。
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□早馬(「平家物語」巻3):
2日、「大庭の三郎景親東国より早馬をたて、新都につき、太政入道殿に申けるは、伊豆国流人前右兵衛佐頼朝、一院の院宣・高倉宮令旨ありと申て、忽にむほんを企て、・・・

土肥・土屋・岡崎等與力して三百余騎の兵をひきいつつ、石橋といふ所にたて籠りて候を、同国の住人大庭三郎景親、武蔵相模に平家に心ざし思ひ参らする者どもを招きて、三千余騎にて、去二十三日石橋へよせてせめ候しかば、兵衛佐無勢なるによりて、さんざんにうち散らされて、椙山といふ所に引籠もる。・・・」。
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清盛は激怒。
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9月3日
謀反から内乱へ(治承・寿永の内乱
伊豆の流人源頼朝の反乱、全国に広がる。
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3日、兼実は頼朝挙兵の報に接す。
4日、藤原忠親(「山槐記」)がこれを知る。
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・「伝え聞く、熊野権の別当湛増謀叛す。その弟湛覺の城、及び所領の人家数千宇を焼き払う。鹿瀬以南併せて掠領しをはんぬ。行明同意すと。この事去る月中旬比の事と。

又伝え聞く、謀叛の賊義朝の子、年来配所の伊豆国にあり。しかるに近日凶悪を事とし、去るころ新司の先使を凌礫し〈時忠卿知行の国なり〉。凡そ伊豆・駿河両国を押領しおわんぬ。又為義の息、一両年熊野の辺りに来たり住む。しかるに去る五月の乱逆の刻み、板東方に趣き了りて与力す。彼の義朝の子大略謀叛を企つるか。宛も将門の如しと云々。」(「玉葉」同日条)。
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「★治承4年記インデックス」をご参照下さい。
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