2010年11月16日火曜日

東京 三ノ輪 浄閑寺(投込寺)  永井荷風の詩碑 花又花酔の川柳の碑 新吉原総霊塔 遊女「若紫」の墓

東京三ノ輪の浄閑寺、別名「投込寺」。
安政2年の大地震で亡くなったたくさんの吉原の遊女が投げ込まれたことが、この別名の由来とか。
永井荷風の詩碑もあります。
11月13日、竜泉の一葉記念館を再訪した折に立ち寄りました。



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永井荷風詩碑と筆塚
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花又花酔の川柳
「生まれては苦界  死しては浄閑寺」
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新吉原総霊塔 
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遊女「若紫」の墓
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永井荷風の日記『断腸亭日乗』昭和12年6月22日の条(改行を施す)
「六月廿二日。快晴。風涼し。朝七時楼(*吉原)を出て京町西河岸裏の路地をあちこちと歩む。
起稿の小説主人公の住宅を定め置かむとてなり。
日本堤を三ノ輪の方に歩み行くに、大関横町と云ふバス停留場のほとりに永久寺目黄不動の祠あるを見る。香烟脉ゝたり。
掛茶屋の老婆に浄閑寺の所在を問ひ、鉄道線路下の道路に出るに、大谷石の塀を囲らしたる寺即是なり。
門を見るに庇の下雨風に洗はれざるあたりに朱塗りの色の残りたるに、三十余年むかしの記憶は忽ち呼返されたり。土手を下り小流に沿ひて歩みしむかしこの寺の門は赤く塗られたるなり。今門の右側にはこの寺にて開ける幼稚園あり。セメントの建物なり。
門内に新比翼塚あり。本堂砌の左方に角海老若紫之墓あり。碑背の文に曰ふ。

若紫塚記
女子姓は勝田。名はのぶ子。浪華の人。若紫は遊君の号なり。
明治三十一年始めて新吉原角海老楼に身を沈む。楼内一の遊妓にて其心も人も優にやさしく全盛双(なら)びなかりしが、不孝にして今とし八月廿四日思はぬ狂客の刃に罹り、廿二歳を一期として非業の死を遂げたるは、哀れにも亦悼ましし。
そが亡骸を此地に埋む。法名紫雲清蓮信女といふ。茲に有志をしてせめては幽魂を慰めばやと石に刻み若紫塚と名け永く後世を吊ふことゝ為しぬ。噫。
明治卅六年十月十一日
七七正当之日       佐竹永陵誌
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又秋巌原先生之墓。明治十年丁丑二月十日歿。嗣子原乙彦受業門人中建之。ときざみし石あり。庫裏の戸口に至り、谷豊栄・遊女盛糸が墓のある処を問ひて香花を購ふ。
僧は門内左側に井戸と茨の垣あるあたりを指したれば線香樒(しきみ)を受取り歩み行くに、そのあたりに唯一人遊びゐたる十二三歳ともおぼしき少女、並びたる二個の墓石を教へ、其傍に立ち独語のやうに二人仲好並んでゐるのと言ふ。この少女は寺の娘なるべし。折々墓詣する人の来るを案内して、其来歴をも知れるなるべし。
十二三の年にて情死といふ事を知れるや否や。或は唯仲の好かりし二人の男女の墓とのみ思へるにや。余は何とも知れず不可思議なる心地して姑くは少女の顔を見まもりたり。
目黄不動の門前に立戻りバスに乗り、銀座ふじあいすに朝飯を食し、十時過家にかへる。英文不夜城載する所の写真を見るに、盛糸・豊栄の墓は現在のものゝ如く密接せず。其間少し離れて立てられたり。現在のものは後に立直せしものなるべし。
六月以来毎夜吉原にとまり、後朝のわかれも惜しまず、帰り道にこのあたりの町のさまを見歩くことを怠らざりしが、今日の朝三十年ぶりにて浄閑寺を訪ひし時ほど心嬉しき事はなかりき。近鄰のさまは変りたれど寺の門と堂字との震災に焼けざりしはかさねがさね嬉しきかぎりなり。
余死するの時、後人もし余が墓など建てむと思はゞ、この浄閑寺の塋域娼妓の墓乱れ倒れたる間を選びて一片の石を建てよ石の高さ五尺を超ゆべからず、名は荷風散人墓の五字を以て足れりとすべし
銀座に飯して帰れば十一時なり。午後蔵書の中より吉原に関するものを取出して読む。夜執筆二三葉。早く寝につく。」
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浄閑寺に墓を作るというのが荷風の意志であったが、実際の墓は永井家の墓所、雑司ケ谷墓地に建てられた。
しかし昭和38年5月18日、森鴎外の長男於菟を委員長に、岡野他家夫、小田嶽夫、野田宇太郎、金山正好、北大路健らが参加した建碑実行委員会の手で浄閑寺の墓地のなかに荷風の詩碑と筆塚が作られた。
詩碑には、『偏奇館吟草』(昭和21年)中の詩『震災』が、黒御影の面に明朝の活字体で刻みこまれている。
「今の世のわかき人々 われにな聞ひそ今の世と また来る時代の藝術を。われは明治の児ならずや」に続く25行の長詩である。
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筆塚はスウェーデン産の赤御影。
小さな紙の畳紙(たとう)を型どり、荷風筆の「荷風」が刻まれている。
筆塚の設計者、谷口吉郎は、
「『たとう』と言うのは、明治の女性たちが、針仕事の糸巻や針、布ぎれ、その他、身辺の小間物などを包みこむ紙製の袋物である。それは一枚の紙を折りたたんだもので、上部が風車のような形となっている」という。
「荷風さんにふさわしい、断腸亭好みの意匠を案出したい」との思いから生まれたともいう。
筆塚には、遺歯2枚と愛用の小筆が納められている。
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詩碑に刻まれている詩。


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震災    永井荷風
今の世のわかい人々
われにな問ひそ今の世と
また来る時代の芸術を。
われは明治の兒ならずや。
その文化歴史となりて葬られし時
わが青春の夢もまた消えにけり
團菊はしおれて櫻痴は散りにき。
一葉落ちて紅葉は枯れ
緑雨の聲も亦絶えたりき。
圓朝も去れり紫蝶も去れり。
わが感激の泉とくに枯れたり。
われは明治の兒なりけり。
或年大地俄にゆらめき
火は都を焼きぬ。
柳村先生既になく
鴎外漁史も亦姿をかくしぬ。
江戸文化の名残煙となりぬ。
明治の文化また灰となりぬ。
今の世のわかき人々
我にな語りそ今の世と
また来む時代の芸術を。
くもりし眼鏡をふくとても
われ今何をか見得べき。
われは明治の兒ならずや。
去りし明治の兒ならずや。
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震災によって、東京から江戸と明治が消えていったことを詠嘆調でうたう。
九代目団十郎、五代目菊五郎、一葉、紅葉、緑雨もいなくなった。
師と仰いだ柳村(上田敏)、鷗外漁史(森鷗外)も既になく、震災後の東京は、「明治の児」荷風にとって異質の町になったと嘆く。
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しかし、モダン都市東京の復興と同じく、荷風の立ち直りも早い。
更に、辺境を求めて彷徨いながらも、反面では、その東京を大いに楽しむことも忘れていない。
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若紫の生涯、哀れである。
若紫についてはコチラの説明が詳しいです。
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「★永井荷風インデックス」 「★東京インデックス」 「★寺社巡りインデックス」をご参照下さい。

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