2010年12月9日木曜日

治承4年(1180)9月3日 頼朝の房総再起 関東武士団に参向を促す

治承4年(1180)9月3日
・頼朝、小山朝政・下河邊行平・豊島清元・葛西清重ら武蔵を中心とした関東の有力武士に参向を促す。
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□「吾妻鏡」(改行を施す)
「仍って御書を小山の四郎朝政・下河邊庄司行平・豊島権の守清元・葛西の三郎清重等に遣わさる。これ各々有志の輩を相語らい、参向すべきの由なり。
就中、清重は源家に於いて忠節を抽んずる者なり。而るにその居所江戸・河越等の中間に在り。進退定めて難治か。早く海路を経て参会すべきの旨、慇懃の仰せ有りと。」(「吾妻鏡」同日条)。
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□「現代語訳吾妻鏡」
「三日、壬子。
(大庭)景親が源家譜代の御家人でありながら、今回はあちこちで弓を引き申したのは、単に平氏の命令を守っているのではなく、別のことを企てているようにも見える。
ただし、景親ら凶徒の一味に加わっている者たちは、武蔵、相模の住人ばかりで、そのうち三浦・中村は今は御供にある。それならば、景親の謀略は大したことはあるまいと、評議があった。
そこで、御書を小山四郎朝政、下河辺庄司行平、豊島権守清元、葛西二郎清重らに送られた。それぞれ志のある者を誘って参上するようにという内容であった。
とりわけ「清重は、源氏に対して忠節をはげんでいる者であるが、その居所は江戸と河越の中間にあるので、動きが取りにくいであろう。早く海路を経てやってくるように。」という丁重な仰せがあったという。」
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○小山朝政(1158保元3~1238暦仁元):
父は小山政光の男。母は宇都宮宗綱の女(寒河尼)。
石橋山の敗戦からの復活を目指す頼朝に合流、以後有力御家人として成長。
正治元年(1199)播磨国守護。幕府草創期に各地でめざましく活躍。
3代将軍実朝が御家人達に頼朝からの書状などの提出を求めた際、多くが数通しか示せない中で、朝政ら3名は「数十通を献ぜし」める(「吾妻鏡」元久元年5月19日条)。
承久の乱の際には、「上洛に及ばず、各鎌倉に留まり、且は祈祷を廻らし、且は勢を催し遣はす」(「吾妻鏡」承久3年5月23日条)とされた宿老に数えられている。
その後程なく出家。
嫡男朝長が早世し、朝長の子長村を嫡男として相伝した所領・所職は、下野・武蔵・陸奥・尾張・播磨5ヶ国。
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○下河辺行平(生没年未詳):
源頼政の郎党の下河辺行義の子。秀郷流藤原氏で、八条院領下総国下河辺荘の荘司。
この年(治承4年)5月、頼政挙兵を頼朝に告げる。
頼政の敗死後、頼朝に従って信任を受け、平氏追討・奥州攻めで武勲をあげる。
平氏追討では、範頼に従って鎮西を攻める。この時は兵糧不足に苦しむが、行平は自らの甲胃を手放して小船を手に入れ戦おうとする。
弓の名手で、頼朝命により頼家の弓の師範となる。また、武家の故実にも通じている。
建久6年(1195)11月、頼朝より源氏の門族に准じる待遇を与えられる。
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下河辺行義の子には六男に下河辺行秀がいる。
出家して智走房と称し、天福元年(1233)3月、熊野那智浦より補陀落渡海(小舟で海に出る捨身行)を行う。その際、出家よりこれまでの事情を記した書簡を北条泰時へ送る。
元々御家人で、建久4年(1193)4月、源頼朝の下野国那須野の巻狩で大鹿を射ることを命じられたものの外し、それを恥じて狩場で出家をして逐電。
その後、熊野に入って法華経の読誦請をし、今回の補陀落渡海に及ぶ、という。
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○葛西清重(1162~1238):
豊島清元の2男。母は下河辺行義の女。
頼朝挙兵に際し、その召に応じて参陣、頼朝より武蔵国丸子荘を与えられる。
養和元年(1181)、頼朝の寝所を警固する弓箭に達者な者の1人に選ばれ、寿永元年(1182)には、北条政子の安産祈祷の為に、武蔵国六所宮への使者となる。
寿永3年、平家追討のため範頼に従い西海道に赴き、翌年、豊後国に渡る。
文治5年(1189)、奥州合戦に際し、大手軍の頼朝麾下で従軍し、加藤景廉と共に武蔵・上野の「党者等」を率いる(「吾妻鏡」文治5年7月17日条)。
阿津賀志山合戦では、三浦義村らと共に僅か7騎で先陣を争い、畠山重忠陣を追い越す。
これらの軍功が認められ、同年9月、陸奥国内の御家人の奉行と平泉郡内の検非違使所の管領を命じられる。また、伊沢・磐井・牡鹿郡以下数ヶ所を与えられる。
清重は奥州残留が命ぜられ、建久元年(1190)、奥州藤原氏の残党大河兼任と戦い、これを破り、のち「奥州総奉行」と称される。
同年頼朝上洛に際し、御宿奉行を命ぜられ、右兵衛尉に任ぜられる。
正治元年(1200)、梶原景時弾劾状に署判し、元久2年(1205)の畠山重忠の乱では、北条義時軍の先陣を勤める。
建保7年(1219)3代将軍実朝暗殺に伴い、出家入道したと考えられ、承久の乱に際しては宿老の1人として鎌倉に残る。
貞応3年(1224)には、新執権泰時への協力を求められる。嘉禎4年(1238)9月14日没(77)。
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一般的には、武蔵には、小規模な独立的武士団(党的武士団)が多い(武蔵七党など)。
各家々が独立性を保ち、武士団としての協同体制がとられている。
但し、畠山重忠・河越重頼などの秩父氏のように、相模の武士団に似た、一族を軍事的に統率する強力な惣領に統合された武士団(惣領的武士団)も存在している。
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「★治承4年記インデックス」 をご参照下さい。
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