2011年2月19日土曜日

明治7年(1874)1月17日~28日 民選議院設立建白書提出  江藤新平、伊万里に上陸  [一葉2歳]

明治7年(1874)1月17日
民選議院設立建白書提出
板垣・江藤・副島・後藤・由利公正(前東京府知事)・岡本健三郎(前大蔵大丞、海援隊士)・古沢滋・小室信夫、左院に提出。
12日、古沢滋(27、旧土佐藩士)が起草、副島が筆をいれて完成。
18日付「日新新事誌」掲載、全国的に反響を呼び、民選議院論争起こる。
「・・・政権の帰する所を察するに、上帝室に在らず、下人民に在らず、しかも独り有司に帰す」。
民選議院を設立して「天下の公議」を政治に反映させ、有司専制を制限する。
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岩倉太政大臣代理の違法かつ専断越権な行為によって、適法かつ正当な手続きによってなされた閣議決定が一方的に覆され、それが既成事実となって罷り通っている現実に対する、下野参議の痛切な批判が込められている。
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有司専制批判・租税共議権主張・微温的立憲制の要求を盛ったこの建白書は、民選議院論争で国政参加権をさしあたり「維新の功臣」を出した「士族および豪家の農商」に限定し、本質的には政府部内反対派の要求である。
しかし、この行動は、愛国公党の組織的行為であり、「日新真事誌」掲載により広くアピールしたという点で従来のものとは異なり、当事者の主観的意図を越えて国民に迎えられ、民主主義を求める国民的運動が形成される政治的契機になる。
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「臣等伏して方今政権の帰する所を察するに、上(カミ)帝室に在らず、下(シモ)人民に在らず、而独有司(而も独り官吏)に帰す
夫(ソレ)有司、上帝室を尊ぶと曰(イ)はざるには非ず。而(シカモ)帝室漸く其尊栄を失ふ。
下人民を保つと云はざるには非ず。
政令百端朝出暮改、政刑情実に成り、賞罰愛憎に出ず、言路壅弊(ヨウヘイ)困苦告るなし
夫如是にして天下の治安ならん事を欲す、三尺の童子も猶其不可なるを知る。
因循改めずば、恐くは国家土崩の勢を致さん。臣等愛国の情自ら已む能はず。
即ち之を賑救(シンキフ)するの道を講求するに、唯天下の公議を張るに在る而已(ノミ)。
天下の公議を張るは民撰議院を立るに在る而已。則有司の権限る所あって、而して上下其安全幸福を受くる者あらん。請遂に之を陳ぜん。
夫れ人民政府に対して租税を払ふの義務ある者は、乃(スナワチ)其政府の事を与知可否(ヨチカヒ)するの権利を有す
是れ天下の通論にして復喋々臣等の之を贅言するを待たざる者なり。
故に臣等窃に願ふ、有司亦是大理に抵抗せざらん事を。
今民撰議院を立るの議を拒む者日く、我民不学無知未だ開明の域に進まず。故に今日民撰議院を立る尚応に早かる可しと。
臣等以為らく、若し果して真に其謂ふ所の如き歟、則之をして学且智、而急に開明の域に進ましむるの道、即民撰議院を立るに在り。
何となれば則ち今日我人民をして学且智に開明の域に進ましめんとす、先ず其通義権理を保護せしめ、之をして自重自重、天下と憂楽を共にするの気象を起さしめんとするは、之をして天下の事に与らしむるに在り」(「日新真事誌」18日付)
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ブラックが主宰する「日新真事誌」が建白書全文をスクープ
ブラックは英字新聞「ジャパン・ヘラルド」「ジャパン・ガゼット」の主筆兼経営者として客観的報道の意義と影響力を理解している。
建白書は、事前に板垣から参議木戸に渡されることになっていたが、木戸への使者である自由民権運動家(愛国公党員、小室信介の養父)小室信夫が「日新真事誌」に建白書を持ち込み全文を公表する。木戸はすこぶる感情を害したと云われる。
「日新真事誌」は民撰議院開設賛否両論に公平に紙面を提供、キャンペーンを展開し、国会開設の世論が、全国各地に巻き起る。  
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前年12月、この草案が出来ると、板垣・後藤等は、土佐人の林有造を使者として佐賀の江藤新平と鹿児島の西郷隆盛にこれを送り賛成の署名を求める。
江藤は賛成して署名するが、西郷は反対して「御建白の趣は至極当然の儀と存候、然れども天下の事は独り議論のみにては行はるべからざるものと存候へば、僕等は先づ腕力を用ゐて然る後此事成るべしと存候」という返書を寄こす。  
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「建白書」及び愛国公党の意義:
①日本近代化に関する体系的理念、構想、ノウハウを独占していた政府に対抗できる国政理念を提示。これまで政府の攻勢に追われ受動的抵抗をするだけであった反政府派に権威と理論が付与され、運動の全国的結集の核が生まれる。
②政治組織(「党」)の考え方を生み出す。のちの運動の中で定着してゆく。
③「天賦人権論」を公然と主張。  
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政府(大久保の独裁)の対応:
翌明治8年4月、漸次に立憲制を施くべしとの詔(ミコトノリ)を出し、木戸・板垣らを入閣させる。
同6月、民選議院に代わる地方官会議を開いて不平士族や豪農を宥める。
政府の約束は、讒謗律、新聞紙条例などの言論弾圧、また江藤らの相次ぐ士族反乱で棚上げにする。
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1月17日
・三条太政大臣、大隈参議兼大蔵卿に、台湾問題に関する副島大使の交渉結果検討依頼。
18日、大久保、副島種臣を訪問。
19日、福島九成、再び台湾出張を命じられる。
26日、三条太政大臣、大久保・大隈に台湾・朝鮮問題取調べ命じる。
大久保と大隈は、副島、リゼンドル、柳原前光、鄭永寧らと相談して、2月6日、大久保・大隈連名で「台湾蕃地処分要略」全9ヶ条を答申して閣議決定。
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1月20日
・江藤新平、伊万里上陸。嬉野温泉に滞在。
25日、佐賀入り。
2月2日、義弟(妻の実家)のいる長崎郊外深堀に移り静養、舟遊びなど楽しむ。
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1月21日
・樺太境界問題交渉、樺太と千島列島の一部との交換を提案。
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1月22日
・カナダ、総選挙、与党自由党勝利。
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1月23日
・近衛歩兵第1・第2連隊が組織され、天皇が軍旗を授ける    
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1月28日
・大久保、佐賀県権令岩村通俊を更迭、弟高俊(神奈川県権参事)就任。
佐賀の治安回復を指令。
通俊は就任半年で転任申し出、弟を推挙。
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「★樋口一葉インデックス」
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