2011年3月4日金曜日

樋口一葉日記抄 明治27年(1894)2月25日(22歳) 「万感むねにせまりて、今宵はねぶること難し。」(樋口一葉「塵中日記」)

明治27年(1894)2月25日
二月二十五日 西村君来訪、午後まではなす。
平田君来訪されたるより、前者はかへる。例(いつも)のせまやかなる部屋の内に物がたること多し。五時まで遊ぶ。
「女学雑誌」に「田辺龍子、鳥尾ひろ子の、ならべて家門を開かるゝ」よし有けるとか。
万感むねにせまりて、今宵はねぶること難し
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平田禿木が来訪。
三宅花圃と鳥尾広子が家門を開くことが、「女学雑誌」に紹介されていたという。
花圃のことは、先に師の歌子から聞いていたが、広子(華族、貴族院議員、陸軍中将鳥尾小弥太の娘)もまた歌塾を開くということだ。
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2月3日付けの「女学雑誌」には、「歌人中島うた子の高門弟たる田辺花圃女史は、師のすゝめにより、鳥尾子の令嬢と力を合せて此度び新たに歌門を開かる」とある。
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師の歌子は、以前は、鳥尾広子について、少し歌がうまくなったもので有名になりたいという虚栄心がみえみえて、歌への真実の志がないと批判していた
(「こも又虚飾にて誠みちにこゝろざすの人には非らず」26年6月22日「日記」)。
その歌子が広子の家門を許したと知って、一葉は衝撃を受ける。
「万感むねにせまりて、今宵はねぶること難し。」
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歌子は、一葉にも家門を開くように言ったことがある。
しかし、家門を開くには、師匠への支払い、披露の催し、社交上の出費など莫大な金がかかり、一葉にはとうてい望めないこと。
歌子は一葉に、「発会当日の諸入用及びすべてのわづらひは憂ふるべからず」と言うが、これまでの歌子の行動を考えると、とてもあてにはできない。
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2月27日
この日、歌塾「梅の舎」を開いている田中みの子を訪問。
歌子に対して批判的なみの子と、折から訪ねてきた伊東延子(夏子の母)と共に、花圃と広子の家門についての憤懣をぶつけ、歌子を批判。
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みの子の歌子批判。
「品行日々にみだれて吝(ケチ)いよいよ甚敷(ハナハダシク)、歌道に尽すこゝろは塵ほども見えざるに、弟子のふえなんことをこれ求めて、我れ身しりぞきてより新来の弟子二十人にあまりぬ。
よめる歌はと問へば、こぞの稽古納めに歌合(ウタアワセ)したる十中の八九は手にはとゝのはず、語格みだれて歌といふべき風情はなし。」
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更にみの子の批判は、田辺花圃、鳥尾広子にも向けられる。
「「かゝるが中にこの有様を知りつくしたる龍子(タツコ、三宅花圃)ぬしが、これに身を投じて家門を開かんとすと聞こそ、おぼろげのかんがへにはあらざるべし。
秋の紅葉のさかりは今一時(イツトキ)なる師が袖にすがりて、我世の春をむかへんとするの結構、此間(コノアイヒダ)にかならずあるべし。
鳥尾ぬしがことはもとより論ずるにたらず。師が甘(ウマ)きロに酔ひて、我が才学のほどをもおもはず、うきよに笑ひ草の種やまくらん。すべて、てんでんがたきの世」とかたる。」
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花圃が家門を開くのは、歌子の衰えを承知のうえで、今のうちに歌子にすがって「我世の春をむかへんとする」ためだ。
広子は、「師が甘き口に酔ひて、我が才学のほどをもおもはず、うきよに笑ひ草の種やまくらん」とも言う。
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一葉はみの子を励ます。
「いでさらば、何事をも言ほじ、おもはじ。
我はもとよりうきよに捨て物の一身を、何のしわざにか欺くべき。田中ぬしはしからず。
なまなかあらはし初(ソメ)たる名を末弟(バツテイ)におされて、朝(アシタ)の霜の、此まゝに消なんはいかにロをしからずや。師に情なく、友に信なくとも、何か又そは厭(イト)ふにたらず。
念とする所は君が手腕(テナミ)のみ。
うきよは三日みぬ間の桜なれば、君もむかしの君ならで、歌学大(オホイ)にあがり給ひしか知らねど、我が知りたるまゝならば、此世はとまれ、天下後代に残してそしりなきほどの詠(エイ)あるべしとも覚えず。
いかで万障をなげうちて、歌道に心を尽し給はずや。
我れもこれより君が為に、およぶ限りの相手にはなるべし。かずよみをもなし、各判をもなし、論議弁難もろ共にみがゝでやは。
我は今まで、小商人(コアキンド)の歌よむことをもなさゞりしかど、君は常におこたりなくつとめ居たまひしに相違あるまじ。
まが玉をみがくに他山の石を以てすとか。一人にてはいかでか」とすゝむ。」
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一葉は、こう書く。
「此人もとより汚濁の外に立ちて、すみ渡りたるこゝろならぬはしれど、おもて清くしてうらにけがれをかくす龍子などのにくゝいやしきに、よしけがれはけがれとして、多数(アマタ)のすてたる此人に、せめては歌道にすすむ方(カタ)だけをはげまさんとて也。」
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みの子が元来汚濁の外にいてすっかり澄み切った心でないことは知っているが、表面は清浄で裏面に汚れを隠している龍子(花圃)などが憎らしく卑劣なのに対して、たとえ汚れは汚れとしても、多くの人が見放したこの人に、せめて歌道の方面に進むことだけは励ましてやりたい。
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勝気な一葉である。
花圃には、自分が文壇に出るに際して世話になっている。
また、みの子の歌子対する批判なども、多分相当程度一葉の煽動にもよるだろうと想像される。
才能では負けない、ただお金がないのである、一葉には。
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後日談。
翌3月、一葉がみの子を訪ねた際には、みの子は、花圃の家門の発表、披露について「鍋島家の恩顧をあほがん為」、歌子と共に鍋島侯爵邸へ「参賀」の仕度中であった。
「醜聞紛々、田中君の内情みゆる」と一葉は書く。 
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一葉もまた、3月未、歌子から「我が此萩の舎は則ち君の物なれば」と云われ、萩の舎で働くよう迫られ、「此いさゝかなる身をあげて歌道の為に尽し度心願なれば」と言い、歌子の申し出を承諾し、萩の舎の助教となる。
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「★樋口一葉インデックス」 をご参照下さい。
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