2011年3月26日土曜日

樋口一葉日記抄 明治27年(1894)3月26日~28日(22歳) 「此人のもとを表だちてとはるゝ様に成ぬる、うれしとも嬉し.」(樋口一葉「塵中(ちりのなか)につ記」)

明治27年(1894)3月26日
二十六日 半井ぬしを訪ふ。
「これよりいよいよ小説の事ひろく成してんのこゝろ構へあるに、此人の手あらば一しほしかるべし」と母君もの給へば也。
年比(トシゴロ)のうき雲、唯家(イヘ)のうちだけにはれて、此人のもとを表だちてとはるゝ様に成ぬる、うれしとも嬉し
まづふみを参らせて、在宅の有無を尋ねしに、「病気にて就褥中なれど、いとはせ給はずは」と返事あり。
此日空(ソラ)もようよろしからざりしかど、あづさ弓いる矢の如き心の、などしばしもとゞまるべき
午後より出づ。君はいたく青みやせて、みし面かげは何方(イヅク)にか残るべき。
別れぬるほどより一月がほどもよき折なく、「なやみになやみて、かくは」といふ。
哀れとも哀也。物がたりいとなやましげなるに、多くもなさでかへる。
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廃業を決意し、これからはますます小説のことに手広く取り組んで行こうとの心構えも決まった。
桃水の助けがあれば、一段と好都合になるだろう、と母も言ってくれた。
数年来の心にかかる浮雲が、家族の中だけであってもすっきりと晴れて、表だってお訪ね出来るようになったことは、何とも嬉しい。
まず手紙で在宅の有無を尋ねると、
「病気で寝ているが、それでよろしければおいでをお待ちしています」
との返事。
この日は空模様もよくなかったが、射る矢のように飛んで行きたい気持ちは、もうじっとしておれなかった。
午後からでかける。先生はひどく顔色も悪く痩せて、以前の面影はどこにも残っていないほど。
「あなたと別れしてからは、ひと月とて元気な時はなく、病気に苦しめられてこんな状態です」
とおっしゃる。
本当にお気の毒で可哀相に思った。お話するのもひどく苦しそうなので、多くもお話しないで帰る。
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母の許しを得て桃水を訪問する。
「うれしとも嬉し」と書く一葉である。
しかし、桃水は病床にあって、存分には話はできずに帰る。
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 3月27日
二十七日 小石川に師君を訪ふ。田辺君発会、昨日有べき筈之所、同君病気にてしばしのびたるよし。
その序(ツイデ)に我上(ワガウヘ)をも、「いかで斯道(コノミチ)に尽したらんには」など語らる。
「我が萩之舎の号をさながらゆづりて、我が死後の事を頼むべき人、門下の中に一人も有事(アルコト)なきに、君ならましかばと思ふ」など、いとよくの給ふ。
ひたすら頼み聞え給ふに、これよりも思ひもうけたる事也、さりとはもらさねど、さまざまに語りてかへる。
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「萩の合」に師の中島歌子を訪ねと、歌子は一葉に歌道への精進を勧める。
「私の『萩の舎』を譲って、私の後のことを頼むことが出来る人は、今の門下には一人もいない。もしあなたが引き受けてくれたらね」
など言う。
かねてしていた事だが、口にも出さず他の話に紛らして帰る。
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結局、4月から一葉は「萩の舎」で稽古を助教として手伝うことになる。月2円という。
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二十八日 母君、音羽町佐藤梅吉に金策たのみに行。むづかしげ也しかは、帰路(カヘリ)、西村に立よりて、我(ワガ)中島の方へ再度(フタタビ)行べきよしを物がたりて、金策たのむ。「直(スグ)にはむづかしげにみえし」とか聞しが、母君帰宅直に、車を飛して釧之助来訪、金子の員(カズ)を問ふ。その親などにはゞかれば成べし。
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母が金策に走る。
4月になって、西村釧之助から利子付きの借金50円を世話して貰うことになる。
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翌3月29日~5月1日(一葉の終焉の地となる丸山福山町への転宅前日)、一葉は日記を書いていない。
4月の日記のメモの一部に、
「店をうりて引移るほどのくだくだ敷、おもひ出すもわづらはしく、心うき事なれば得かゝぬ也」
とある。
一葉は疲れ果てている。
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「★樋口一葉インデックス」 をご参照下さい。
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