2011年3月6日日曜日

明治7年(1874)3月 「明六雑誌」創刊 [一葉2歳]

明治7年(1874)3月
・「明六雑誌」創刊
前年(明治6年)7月アメリカより帰国した森有礼が、「万国史略」の著者西村茂樹を訪ね「我国ノ教育ヲ進メンガ為ニ、有志ノ徒会同シテ、其手段ヲ商議スル」結社結成を持ちかける。
賛同した西村が、福沢諭吉西周中村正直加藤弘之津田真道神田孝平箕作麟祥、杉亨二ら8名を誘い、明治6年秋、「明六社」を結成。
「明六雑誌」第1号に西周「洋学ヲ以テ国語ヲ書スルノ論」掲載。洋字使用論でローマ字論争が起こる。
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○加藤弘之:
佐久間象山に学ぶ。幕臣となって幕府の洋学教育機関、開成所の教授職竝(なみ)となる。
維新後、新政府に参加し天皇の侍講として洋書講義をおこなう。
明治4年以降、文部大丞。
幕末の『鄰草(となりぐさ)』(文久元年(1861))、『立憲政体略』(慶応2(1866))、『真政大意』(明治3年)によって、日本に初めて立憲政体、憲法、議事院の原理を紹介。
「億兆ノ為メニ一君ヲ置キ奉ラセ玉フ訳デ、決シテ一君ノ為メニ億兆ガアルト云フ訳デハナイデゴサル。」(「真政大意」)
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西周、津田真道は陸軍省、加藤弘之、西村茂樹は文部省、森有礼は外務省、神田孝平は兵庫県令、箕作麟祥は司法省、中村正直は大蔵省に在職する官吏(中村、箕作、西村は翻訳官や編書官)。
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薩摩の森有礼以外は、出身の違いはあるものの、幕末の最終局面では、幕府の蕃書調所から開成所にいたる洋学教育の中心に身をおき、尊王攘夷や復古の風潮に染まったことのない思想家。
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雑誌の名は明治6年に作られた「明六社」の名をとる。和紙で20ページ弱。各号3千部は売れたと言われ、再版号も多い。
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社員のうち、議院設立が尚早との意見を持つのはドイツ系統の思想を持つ加藤弘之で、森有礼・西周はそれに加担した。
西村茂樹・津田真道等は議院設立の即行論者。
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津田真道(幕末にオランダ、フランス等に学ぶ)は、雑誌に3ヶ月連載した「政論」において代議員選出の範囲と手続きについての自説を述べる。
「士族ハ従来文字アルモノ稍(ヤヤ)多ク、平民ハ豪富ニアラザレバ、書ヲ読ム者希ナリ。故ニ今代議士司選ノ人ヲ定メテ悉皆華士族トシ、並ニ平民ノ多ク租税ヲ納ムルモノトシ、其平民、都会ニ於テハ譬(タト)へバ二百円乃至千円以上ノ地券ヲ有スルモノニ限リ、村落ニ於テハ五十円乃至百円以上ノ地券ヲ有スルモノニ限ルベシ。・・・右ノ如ク定メタル選者ヲ初選者卜名ヅク。初選者百人ニシテ相当ノ鑑識ヲ具スル一人ヲ選挙シ、之ヲ本選者卜名ヅケテ、此本選者ノ更ニ選挙スル所ノ人ヲ代議士トシテ議院ニ会集シテ、国民ニ代リテ国事ヲ審議スル人トス」
そして、日本の人口3,000万の中から60名乃至120名を代議士として選出すべきと述べる。
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その他、森有礼、西周、加藤弘之、阪谷素(シロシ)、神田孝平等が殆ど毎号、議会政治について論じる。
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第1号巻頭の西周「洋字を以て国語を書するの論」:
明六社結成を「時宜ヲ制シテ漸次開明ノ域」に入るために「学術文章ノ社ヲ結パント欲」したと位置づけ、そのためには、国語国字改良が必要とし、今まで中国の漢字をつかってきたならば、今、ヨーロッパをモデルにして進もうとするとき、「洋学」を採用して何の不思議があろうかという。
ローマ字採用論。utukusiki hanaと書いて文章としては「ウツクシキ花」と読ませ、口語としては「ウツクシイ花」とkをサイレントにすればいいと述べる。
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福沢諭吉は、前年明治6年の小冊子「文字の教」で、今後は漢字をなるべく使わない文章を書くべきと述べる。文章の改革思想が、西や福沢によって次第に識者の注意を引くようになる。
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第2号は、福沢諭吉が「学問のすゝめ」4篇(明治7年1月刊)の主張する「私立」の精神への反論。
福沢は、
「日本には唯政府ありで、未だ国民あらずと云ふも可なり。
……我国の文明を進めて其独立を維持するは、独り政府の能する所に非ず、又、今の洋学者流も依頼するに足らず。
……既に改革家の名ありて、又其身は中人以上の地位に在り、・・・私立の地位を占め、……政府の頂門に一釘〔針)を加へ、旧弊を除で民権を恢復せんこと方今至急の要務なる可し。」
と云う。
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津田、森、加藤、西は、「私立」にこだわるだけで開化は進展できるかと疑問を呈出。
「学問のすゝめ」4篇は「此社」(明六社)のために執筆されたものなので、理念は理解できる。
だが、「在官」の人間を排除して、どこに開化の推進者を見出せるか、「在官私立ニ拘ラズ」開化の問題をたてるべきではないか、と質問する。
 この頃には、慶応義塾出身者も大量に政府内部に進出しており、また大久保政権は、イギリスを規範とする殖産興業を進めている。
その大久保政府は反対派を排除することで、福沢の指摘どおり、強大化しすぎており、「未だ国民あらずと云ふも可な」る状態である。
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明六社同人の大部分は、この政府に様々な形で参加しつつ、各方面でジレンマに直面している。 津田真道や中村正直は、政府改革、自由・自主の主張に力点をおいている。
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第6号で、津田は、「出板自由ナランコトヲ望ム論」で、「文明」と「野蛮」の別は、「唯其民ノ言行自由ヲ得ルト得ザルトニ於テ」はっきりする、政府が治安を保とうとして言論を抑圧するのは、かえって政府「顚覆ノ原(ミナモト)」だという。
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「民撰議院設立建白」への評価も分かれている。
もっとも徹底した賛成論は福沢諭吉。民撰議院が早いというなら、廃藩置県も早すぎたのか、明治4年が廃藩置県の「好時節」だったように、明治8年は「即、民会創立ノ好時節也」((明治8年)「五月一日明六社談話筆記」)。
津田、西村は議院に賛成だが、加藤弘之、森有礼らは時期尚早論。
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・西周「百一新論」(上下)出版。
日本の道徳思想の基幹となっていた儒教思想と対比させ、近代ヨーロッパの哲学思想を紹介。
 西洋思想の本質はフィロソフィア即ち「哲学」とでも訳すべきものである、と彼は言う。
以前から、ヨーロッパのフィロソフィアなるものがその文明の中核であると紹介していたが、それを性理学または理学と訳していた。
しかし、哲学と訳すのがよいとこの書で述べている。
理学は物理化学をも意味しており、この混同はしばらく続き、次第に哲学という言葉に落ち着いてゆく。
西は主にコントの実証思想の影響を受け、西洋の学問の根本を学ぶには、西のこの書を読むことが是非必要だと知識階級人に看倣される。
しかし西の論は、福沢に較べると難解で、読者は知識階級の中の一部に限られた。
津田真道と西周は共に幕末の洋学の秀才で、蕃書調所(幕府の洋学研究所)の教授手伝であった。
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○西周:
石見国津和野の代々の藩医西時義の子として、文政12年(1829年)に生れる。
20歳の時、藩命により儒学を学ぶため大阪、岡山等に遊学。
25歳の時、藩の学塾塾頭となる。
翌年、江戸詰となってから洋学に志し、オランダ語を学ぶ。
その後、英語を学び、29歳の時、蕃書調所教授手伝並、次に教授手伝となる。そこで津田真道と同僚となる。
34歳の時、西は、津田・榎本武揚(兵学)・赤松則良(造艦)らとオランダ遊学を命ぜられろ。
これら幕府留学生は3年間学んで、慶応元年末に帰国。西と津田は蕃書調所の後身である洋学の大学(開成所)教授に任命される。
西は幕府のためにオランダ政治学を訳述し、また万国公法を訳す。この頃の門弟は500人という。
慶応2年頃、彼は慶喜にフランス語を教え、幕府の外交文書を訳して重く用いられる。
鳥羽伏見の戦後、慶喜が江戸に逃れると、西も江戸に戻る。
慶応4年、西・津田は幕府命により立憲政体の調査研究を命ぜられる。
明治3年3月、山県有朋は、徳川家に従って駿河に退き沼津の兵学校教授をしている西を兵部省顧問とし、ヨーロッパ式の軍制制定にあたらせる。
西と山県は極めて親密で、西は長く陸軍に関係を持つことになる。
西は兵部省に勤める傍ら、侍読(明治天皇の教師)をも兼ねる。
また、兵部省に出仕する傍ら、浅草鳥越の自宅で育英合という私塾を開き、漢学、英語、数学等の諸学課を統一した学問として教えることを始める。
彼は、明治3年~6年、近代ヨーロッパの文明全体の本質を包括的に教育しようとして、18世紀のフランスのアンシクロペジストと同じやり方で「百学連環」という特別講義を行い、それを「百一新論」として纏めて出版。
日本において最初のこの体系的な近代文化の講義(歴史学、地理学、文章学、数学等の基本学課の外、特殊学として、神学、哲学、法学、経済学、統計学、物理学、化学等に及ぶ)は、次々と刊行されることになる。
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この頃、西周は神田小川町に住み森林太郎(13)を預かっている。
林太郎は、旧津和野藩典医で、西家の親戚に当る森静男という蘭医の息子。
森静男は西の勧めで維新後東京に一家を移し、向島曳舟通で病院を開いていた。
長男林太郎を東京医学校に入学させる積りで、ドイツ語学習のために、本郷の壱岐殿坂にある受験学校の進文学舎に入れたが、曳舟から渡舟で隅田川を渡り、距離のがあるので、小川町の西家に預けた。
この春、15歳と願書に書き東京医学校を受験し合格、下谷和泉橋の旧藤堂邸にある医学校に通う。
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「★樋口一葉インデックス」 をご参照下さい。
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