2011年5月14日土曜日

永禄3年(1560)8月2日~12月25日 上杉輝虎の上野進出、関東席捲の勢い  フランス、オルレアンの「三部会」召集  [信長27歳]

永禄3年(1560)
8月
・この月、三好長慶、芥川城を引き払って河内飯盛城に移る。
この年初、河内守護畠山高政が長慶に無断で守護代を更迭し、安見直政を選任させた為、再度三好軍は河内に入る。
7月~10月、河内各所で戦闘し飯盛・高屋両城を降伏させ、河内は三好氏の領国となる。
大和国衆もが畠山に一味したというので、松永久秀は奈良盆地の諸城を陥れ、8月には大和主要部を制圧。
三好長慶政権は山城を除く畿内全てを掌握
(部将配置)
山城:淀城(細川氏綱)
摂津:芥川城(三好義興)
丹波:八木城(松永長頼)
大和:信貴山城・多聞山城(松永久秀)
河内:飯盛城(三好長慶)、高屋城(三好義賢)
和泉:岸和田城(十河一存)。
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・十河一存、河内観心寺へ全3ヶ条の「禁制」下す。
9月、三好長慶・松永久秀、河内観心寺へ全3ヶ条の「禁制」下す。
10月15日、松永久通、河内観心寺へ全3ヶ条の「禁制」下す。(「観心寺文書」)。
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・松平元康、尾張国境梅坪に攻寄せる。佐々内蔵助500、退散させる。
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・浅井長政、初陣。六角氏を野良田合戦で撃破。
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・毛利元就、足利義輝より錦直垂を贈られる。
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・スコットランド、宗教改革議会、開始。
17日、カルヴァン主義のに基づく「スコットランド信条」が通過、スコットランドにおけるローマ法皇の権威が否定され、スコットランドにおけるカトリックは少なくとも法的には一掃(ラテン語によるミサ禁止)。
ジョン・ノックスら新教指導者、教会構成改革・教典制定を行い、宗教改革の原則・指針を纏めた「第一規律書」「宗教の告白」を纏め、議会承認。
スコットランドの宗教改革。
聖職者の犠牲は少ない(新教7人、旧教2人)。カルヴァン主義によった改革。聖職者でない長老による集会(後、地方長老会)により牧師を任命。
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・フランス、貴顕会議。旧教教会内の悪弊を修正するため。
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8月2日
・武田信玄、釜無川と御勅使川の信玄堤(竜王堤)沿岸への移住者に棟別銭を免除(移住奨励)。
竜王堤(甲斐市竜王):
信玄堤と呼ばれるものの中で最も有名なもの。
天文11(1542)年の釜無川大洪水後、信玄の発意で大改修が施され、弘治3(1557)年頃完成と云われる。
その技法は、後々まで甲州流川除法として全国的に展開される。
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8月6日
・三好長慶の兵、畠山高政の兵を河内石川郡に攻め破る。
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8月7日
・ロシア、イヴァン4世(雷帝)妃アナスタシア、没。
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8月23日
・信長、兵1,000を率い2度目の州俣出撃、退却。
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9月
・武田信玄、信濃奥郡に進出。越後勢が反撃。信玄は後退。
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・生駒家長(信長側室生駒氏の兄)に馬一疋の関税を免除(「生駒文書」)。
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・北條氏康、長尾景虎の上野出張に対し、上総久留里城の包囲を解き、河越城に出陣。
北条氏政も下野唐沢山城から撤退し小田原に帰陣。
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・松平元康(家康)長女亀姫、駿府にて誕生
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9月1日
・大友氏の兵、再び伊予宇和郡三間に侵入。
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9月4日
・伊勢貞孝、奥九州3ヶ国の調停のため日向に下向。
伊勢貞孝、伊東家の番弓笠掛日記を所望し、写本を月担上人を介して贈る。
伊東義祐、家督を義益に譲る。
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9月8日
・イングランド女王エリザベス1世の愛人ダドリーの妻、エイミー・ロブサートが変死。
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9月19日
・関白近衛前久、京都を発ち、越後の長尾景虎のもとへ向かう。
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9月28日
・越後守護代長尾(上杉)景虎(31、謙信)8,700余、関東管領上杉憲政を奉じて上野へ出陣
沼田城(沼田市)・岩下城(吾妻郡)・那波城(伊勢崎市)を攻略。
29日、厩橋城(前橋市曲輪町)に入城。春日山城留守居役は長尾政景。
上野の国人たち、北条氏から離れ、続々と景虎に帰属。
景虎軍、各城を落とし関東席捲の勢いを示す。
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10月
・北條氏康、松山城に在城
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・大坂本願寺の指示により、加賀・越中の一向一揆が越後を焼く。
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・浅井賢政(長政、16)、家督相続。北近江の領主となる。
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10月5日
・伊予に侵入した大友氏の兵、宇和郡石城を落とす。
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10月10日
・香西元成・波多野右衛門・木沢新太郎ら、飯盛城の後詰めに出陣、宇治周辺で放火。
12日、松永長頼、丹波から出陣し、炭山に拠る香西元成を敗死させる。
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10月15日
・三好長慶、河内高屋城に紀伊根来衆と戦い、これを破る。
24日、三好長慶勢の攻撃に飯盛城安見直政(前年8月高屋城を追われ飯盛城に逃れていた)降伏。
27日、河内高屋城畠山高政降伏。
河内は長慶の領国となる。
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10月17日
・武田信玄、長尾景虎と対戦の北条氏康支援の為、加賀・越中一向宗徒に景虎の本国越後を攻めさせるよう本願寺顕如に依頼。
この月、越中の一向宗門徒の頭目上田藤左衛門に対し、謙信が上野に乱入したので、北条氏康と申合わせて進陣するが、門徒衆と相談して神保氏と共に越後に乱入するよう依頼。
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10月31日
・フランス、ブルボン家第一王子(結婚によりナヴァール王となったブルボン公アントワーヌ)と弟コンデ公、オルレアン入り。コンデ公、逮捕される。
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11月
上杉輝虎、上州・倉内城(後の沼田城)攻略し、完全に上州を平定
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11月13日
・三好勢松永久秀、万歳城を陥落。
この日、三好長慶、芥川城より河内飯盛城に入り、弟義賢(実休)に高屋城を与える。
18日、初瀬桜坊城陥落。24日、沢氏の檜牧城陥落。
29日、大和沢・桧牧を攻め、宇陀郡をその配下に置く。
大和一国、完全に松永久秀の手中に入る
三好長慶に脅威を抱く六角義賢(夫人は晴元夫人と姉妹)は、畠山高政・細川晴元らと結び、長慶を南北から挟撃する計略をめぐらせる。    
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11月26日
・フランス、ギーズ家による臨時法廷。コンデ公ルイに死刑判決。執行されず。
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12月
・フランス、カトリーヌ・ド・メディシス、占星術士をショーモン城に呼び寄せ、フランソワ2世の恢復を占星術士に頼る。  
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・十河一存(摂津岸和田城主)、摂津有馬に湯治、有馬温泉権現の禁忌に触れて落馬したとされる。
翌年、3月18日没。
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・信長、尾張東竜寺へ全5ヶ条の「禁制」下す(「東龍寺回答書」)。
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・北条氏康、河越城より小田原に戻る。
籠城の準備を進め、甲斐の武田家や駿河の今川家に援軍の要請を行う。
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12月5日
・フランス、スコットランド女王メアリー・スチュワート(18)の夫フランソワ2世(16)、没。
シャルル9世(10)、即位。母后カトリーヌ・ド・メディシスが摂政となる。
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12月10日
・フランス、「三部会」をオルレアンに召集。~ 1561年1月31日
ギーズ兄弟、コリニーの提案を受け入れる。
信教の自由の承認(新教徒の「教会の建立」は認めないが、「迫害」は 断念)
三部会開催。
「名士会」による教会の堕落の調査。

当初、ブルボン兄弟(アントワーヌ・ド・ブルボンとその弟コンデ)は参加せず。
兄弟の妻ジャンヌ・ダルブレとエレオノール・ド・ ロワ(コンデの妻、コリニー妹)が「オルレアンは罠で、逮捕・殺害される」と出席に反対。
ギーズ兄弟は、膨大な軍隊をオルレアンに集結させ、リヨンを奪うべく準備していた新教徒の軍隊を攻撃。リヨンはジュネーヴ(カルヴァン)の一州になることを免れる。
後、ブルボン兄弟は、オルレアンに現れ、ルイ・ド・コンデ逮捕、裁判、「12月10日処刑」の判決。
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宰相ミシェル・ロピタルの演説
「ルッター派とかユグノー派とか教皇派とかいう徒党分派を表す呪わしい言葉はやめにして、キリスト教徒という言葉をそのまま用いたい。」

母后カトリーヌ・ド・メディシス摂政(41、1519~1589)は、スタンスを新教派寄りに変更
フランソワ2世妻メアリ・スチュアートをイングランド支配下のスコットランドに帰国させる(1561年8月)。
ギーズ兄弟は、国事から手を引く
(国王の妻の外戚ということが権力の源泉、フランソワ2世没後は他の貴族と「同等の存在」となる。但し、それぞれの役職は手放さず)。

アントワーヌ・ド・ブルボンがカトリーヌの籠絡の対象で それに成功する
(ルイ・ド・コンデを釈放、再審による 名誉回復を約束(1561年6月13日パリ高等法院)。国王総代理官に任命。国王の「国璽」を返却させる。)
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「★信長インデックス」をご参照下さい。
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