2011年5月5日木曜日

永井荷風年譜(9) 明治37年(1904)満25歳~明治38年(1905)満26歳 「如何なる点からしても戦争と云ふ事に幾分の趣味も有する事が出来ない」  娼婦イデスとの耽溺生活

永井荷風年譜(9) 
明治37年(1904)満25歳
ゴーチェ、アランポーなどの詩を読んで伝奇小説を書きたいと思い、一方では「平家物語」「栄華物語」なども読み返など多様な傾向の読書に励む。
ある種の思想混乱状態であった。
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2月9日
日露戦争開始。 
4月8日
自転車でサウスタコマに遊び、広い牧場に感動する。
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4月26日
この日付の生田葵山宛書簡でゾラからモーパッサンへの関心の推移を告白。
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5月初め
西洋人の家に移る。
バルザックを読み始める。
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6月1日
この日付け弟(貞二郎)宛て手紙 
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「余と雖も幼かりし昔を顧れば、楠(楠木)正成を神と思ひ足利尊氏を世界の最大悪人と思つて疑は無かつた無邪気な時代もあつたのだ。
教育の結果か、何か知らぬが、人間と云ふものは、変る時は恐しく変るもの、余は如何なる点からしても戦争と云ふ事に幾分の趣味も有する事が出来ない
又国家と云ふものを尊重する事が出来ない
諸行無常、栄枯盛衰が真理であるからには、好し、日本国が、露西亜見た様に大きな大帝国になった処で仕方がないぢや無いか。
羅馬帝国も矢張一度は亡びて了つたものです」
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荷風の戦争観、歴史観を示す。
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6月27日
日本からの便りで斉藤緑雨の不遇の死を知り、江戸狭斜の情趣が死んだと惜しむ。
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六月二十七日 故国より送来れる新聞雑誌は斉しく斎藤緑雨の訃を伝へたり。
余は其の伝を読みて誠に人事ならぬ悲しみを覚えたり。
緑雨が生涯の不幸は彼自らの性格のなせし処なりしと。
あゝ江戸狭斜の情趣を喜び味ひたるものは遂に二十世紀社会の生存競争には堪へ得ざるものなるけつ歟」
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斎藤緑雨は辛辣な批評で鳴らした明治の文学者であり、『油地獄』『かくれんぼ』といった小説も書いているが、荷風の言葉で表現すれば「明治が生んだ江戸追慕の詩人」(『深川の唄』)であった。江戸趣味の賛美者であった緑雨は文壇や社会における「新傾向」をことごとく皮肉たっぷりに攻撃したことで知られる。そんな緑雨に深い哀悼の意を表しているところに荷風の意外な「反動」意識が見て取れる。
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7月28日
この日付け後藤宙外(春陽堂「新小説」の主宰者)に絵葉書を送る。
「戦争の影響を受けざる『新小説』は毎号面白く拝見致し居り」と書く。
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9月
トルストイの自叙伝「幼年時代」「少年時代」を読む。 
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10月8日
セントルイス万国博覧会に行くためタコマを出発。ロッキー山脈を越えミシシッピー川を渡る。
13日夜、セントルイス着。「疲労甚しく殆ど倒れんとす」(『西遊日誌抄』)。
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10月24日
カークウッドの農家に移る。
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11月16日
ミシガン州カラマズ大学の聴講生として学ぶことを決心する。南の方が好きだという。
22日、カラマズに到着し下宿。
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11月28日
正式な入学許可を得てフランス語講座出席が決まる。
英文学とフランス語を主に聴講(フランス語初級の単位を取得)。
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12月28日
短篇小説「岡の上」を脱稿、木曜会に送付。翌明治38年6月1日「文藝倶楽部」に発表。
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明治38年(1905)満26歳
1月2日

旅順港陥落の報。
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1月
父親がアメリカへ来るが荷風とは会えず。
父親の来たのはシアトルで、荷風はすでに3,000Km離れたカラマズにいる。
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3月中旬
シカゴに遊ぶ。「市俄古の二日」執筆。
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4月1日
この日付け西村恵次郎(渚山)宛て手紙
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「春画は何よりの好物、アリガタウアリガタウ! 
然し不思議ですね、一年半ばかり此の国に居て、日本の春画を見るのは君のと、その少し以前湖山が呉れたのとを見たのが初めてです。
所が少しの間に風俗と境遇が違つて居るので、日本の春画は可笑しいばかりで、少しも実感を起させない。
実感の点からと云ふと足踊りをやツて居る安芝居の広告画の方が遥に有力なのです。
今日春情実感を起させる一番有力なのは、女のペチコートの間から、ほの見える足の形一ツです。細い舞り靴をはいた女の足……此れが一番微妙な妄想を起させるです。
靴と靴足袋とを取つて了つた素足になると、最う駄目です。
裸体画かスタチューでも見る様で、実感は却て薄らぐ」
*西村恵次郎:
巌谷小波(博文館編集局の責任者)の門下生で同編集部員
荷風は、小波が主宰する文学サークル「木曜会」に参加しており、西村とは親しい間柄。
西村宛ての荷風の手紙には面白いことが多いという。
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5月5日
カラマズ大学の芸文学会で、"The Japanese Newest Play Of New Japan"と題して英語で講演し、尺八の独奏を披露。
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5月25日
この頃起稿した「春と秋」を浄写。明治40年10月1日「太陽」掲載。
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6月14日
カレッジの講座終了。ペンシルバニアの友人に会うため、カラマズを出て、16日、ナイアガラの滝近くのキングストンに到着。2週間滞在。
30日、ニューヨークに向う。
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7月8日
アメリカの生活が詩情を喜ばせる点に欠けているのを嘆じ、従弟の永井松三(号素川)にフランスに渡り文学を研究したいと相談する。
松三は荷風の意向に賛意を示し、まず旅費を捻出するために、ワシントンの日本公使館の臨時雇いを紹介してくれる。
19日、ワシントンに到着、公使館に居住し、20日より勤務を始める。
ワシントンの夏は炎熱極まりなし。
(「車中炎熱殆ど忍ぶ可からず」、温度計は華氏110度(摂氏43度)だったという。)
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日露戦争終結に当たって公使館の業務が多くなり、人手を求めていた。
荷風の仕事は、「毎朝役人の出勤する前に事務室を掃除し郵便物を調べ電話の取次をなし新聞を取揃へる」くらいのことで、「夜間は読書の暇充分」。
したがって「日露談判結了の日までこゝに労働し其の給金と故国よりの送金とを合算して秋風と共に一躍大西洋を越えて仏蘭西に行かん」と『西遊日誌抄』に記している。
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永井松三は、荷風の父の弟・永井松右衛門の長男で、荷風より2歳8ヶ月年長。
一高~東京帝大政治学科~外務省というエリートで、この時、入省3年目でニューヨークの日本領事館に勤務。
その後、天津、ニューヨーク、ワシントンに勤め、外務次官となり、昭和8年には特命全権大便としてドイツに赴く。
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8月3日
モーパッサン「水の上」を原書で読み始める。
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8月29日
父が荷風のフランス行きに反対すると言ってくる。
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9月13日
酒場の娼婦イデスとの交情深まり耽溺生活に浸る。
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九月十三日 朝夕の風身にしむやうになりぬ。
美しき燈火の光の恋しさに夜下町の寄席に入るに訳もなき愚なる俗曲却て客愁を動す事深し。
一酒舗の卓子にカクテール傾くる折から不図わが傍なる女(これがイデスなり)の物云ひかくるがまゝに打連れてポトマック河上の公園を歩み遂に誘ほれて其の家に至る。」(「西遊日誌抄」)
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九月廿三日 再び家書を得たり 仏国に遊ばんと企てたる事も予期せし如く父の同意を得ざりき。
今は読書も健康も何かはせん。
予は淫楽を欲して巳まず。淫楽の中に一身の破滅を冀ふのみ
先夜馴染みたる女の許に赴き盛にシャンパンを倒して快哉を呼ぶ」(「西遊日誌抄」)
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淫楽を父が荷風のフランス行に反対した事への反抗のせいにする
*十月八日 二年前の今月今夜余は初めて舎路の港に着し夜泊の船上新世界の山影を月明の中に眺めたるなり。
二年の後今夜亦月明水の如し 感慨極りなく眠る能はず独り公使館の後庭に出でゝ厩のほとりの石に腰かくるに樹影参差として草の上にあり涼露蕭々雨の如くに衣を潤せり。
余はさまざま身の行く末を思ひやりて唯尽せぬ愁に打沈むのみ」
*10月16日
日露講和もなり、公使館の臨時雇いも今月限りとなる。
この日、イデスにニューヨークに戻ることを告げる。
「彼の女が化粧の香高く薫るさま何となく薔薇咲く春夜の庭に在るが如き思なり。
余は程なくこの都を後に紐育に去るべきよし語出でしに彼の女は暫く無言にて唯だ腹立たし気に細き靴の先にて散積る落葉を音高く蹴たりしが忽余が身を堅く抱きて声をもらせさらば今宵より毎夜わが家に来てたまはれかし、執根く跡は追ふまじければ別るゝ日まで一日に必ず一度来てたまはれかしとてひたとわが胸に其の顔押当てたり」
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「鳴呼人の運命ほど測りがたきはなし。異郷の街の旅より旅にさまよひ歩みて、将に去らんとする時この得がたき恋に逢ふ。余は明日を待たで死するも更に憾みなし」(「西遊日誌抄」)
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10月30日
この日をもって公使館を解雇される。
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11月2日
ニューヨークに帰り、イースト・サイドの日本人経営のホテルに宿泊。
住込みの仕事を探したが適当なものがなく、11日、ふたたびカラマズに向けて出発。
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11月24日
父の配慮で正金銀行ニューヨーク支店に勤務する手筈が整う。 
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「十一月三十日 紐育出張店支配人より電報あり。兎に角来談すべしといふ。
余は突然華盛頓にて別れたるイデスの事を思ひ出し余若し紐育の銀行に勤務の身とならば両地の距離わづかに急行列車の半日に過ぎざれば再び相逢うて暖き接吻に酔ふ事を得べし。
かく思へは今は経済原論の一頁だも知らざる身を顧みるべき暇あらず、両三日中に当地を引払ひて馳せ赴くべき旨返電す」
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12月4日
ミシガンのカラマズを去り、ニューヨークに着く。
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12月7日
この日より出社。
銀行の仕事は死ぬほど嫌だと悩むが、荷風を実業家させたい父に反抗しながらも、その指示に従っている。
毎夜、酒屋に入り浸り娼婦と戯れ、オペラを見て慰める日々である。
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(十二月七日)
「若し此度父の望める銀行に入らずば永久父と和するの機会あらざるべしと△△子(従兄松三)の忠告により流石に我儘も云兼ねたるなり。
美の夢より外には何物をも見ざりし多感の一青年は忽ち世界商業の中心点なるウォールストリイトの銀行員となる。・・・何等の滑稽ぞや」。
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(十二月八日)
余の生命は文学なり

家庭の事情止むを得ずして銀行に雇はるゝと雖余は能ふ限りの時間をその研究にゆだねざる可からず。
余は信ず他日必ずかの『夢の女』を書きたる当時の如き幸福なる日の再来すべきを。
余は絶望すべきにあらずと自ら諌め且つ励ましたり
然も余は一時文芸に遠ざからざる可からざる事を思ふ時は何等か罪悪を犯したるが如く又探き堕落の淵に沈みたるが如く感じて心中全く一点の光明なし」(「西遊日誌抄」)
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12月14日
夜、サラ・ベルナールの「サッホオー」を見て深く感銘し、以後、「フェードル」「妖姫(ソルシエール)」などを続けて鑑賞。
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12月25日
チャイナ・タウンの酒場でクリスマスを祝う。
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「★永井荷風インデックス」 をご参照下さい。
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