2011年6月5日日曜日

明治7年(1874)6月14日~7月31日 台湾問題解決に償金説浮上 大隈は開戦主張 シッティング・ブルとクレージー・ホースはインディアン連合軍を組織  [一葉2歳]

明治7年(1874)6月14日
・朝鮮に滞在の森山茂、3回目の交渉。好転の兆し。
21日、寺島外務卿宛に報告。日本の征韓論や台湾出兵は清国を通して知られていて、日本の出方が注目されている。
森山は、5ヶ月以内に、外務卿寺島宗則と外務大丞宗重正(元対馬藩主)の書契を持参、朝鮮政府の礼曹判書に提出し交渉の事前協議に入る旨通告し帰国。
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6月15日
植木枝盛(18)の部落差別を非難する枝盛の投書を掲載(「高知新聞」)。
活字になった枝盛の文章の初見。
「高知新聞」は明治6年7月30日に民立共立社から発刊される。帰郷後は新聞縦覧場で新聞を読んでいたが、この年4月13日から枝盛の自家で購読するようになる。
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6月18日
・イギリス公使パークス、寺島外務卿に各国公使に公告なしの台湾出兵を難詰。
大兵を他国領土に送るにあたって各国公使に公告する以前に、軍隊が「私に」出動したのは文明国にあるまじきことだ、日本が万国公法を犯しているのは明らかだ、清への場合は例外としても他国へ3千もの大軍を送れば必ず戦争になる、日本が清に向かってそのようなことをしたからには他国が日本に向かって同様なことをしても文句はいえないだろう、もし他国が北海道に3千の軍隊を上陸させたら日本はどうするつもりか・・・。脅迫すれすれの威嚇的な言辞。
さらに、パークスは、清国総署大臣から外務卿あての照会に回答したのかと日本側の落ち度を突いてくる。寺島は未だ回答していないと日本側の怠慢を告白。
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6月18日
・大隈蕃地事務局長官、蕃地事務局准2等出仕リゼンドルと連署で台湾出兵の法理的根拠をボアソナアドに諮問。
24日、大久保利通、ボアソナアドを知る。
25日、ボアソナアド、大隈へ意見書。
出兵がもたらす戦争への危険性警告。大久保は、その後何度もボアソナアドに会い、その万国公法理論が重要・有効と認め、北京への随行を決める。
ボワソナアドの回答。
①「蕃地」が無主地であることを論証するためにリゼンドルが挙げた歴史的・地理的根拠は正当であり、清国は領有の「権」を主張できない。
②しかし、清国が領有を断念したとの証拠もない。
③他国が「蕃地」を征服しようとすれば、清国には「自国安堵」のために他国の行為を.「妨制」する「利」がある。
ポワソナアドは、リゼンドルの顔をたてながらも、たとえ「蕃地」無主地論が成立するとしても清国が自国の安全保障を理由に武力干渉に訴えることは国際的に承認されると指摘。  
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6月22日
・榎本武揚・ロシア外務省アジア局長ストレモーホフ会談
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6月23日
・屯田兵制度設置
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6月24日
・清国皇帝、日本の出兵は修交条規違反、即時撤退を要求するよう、もし従わない場合は罪を明示して討伐するよう閩浙総督李鶴年らに勅命。
しかし、皇帝が沿海各地の総督・巡撫・将軍らに戦備と勝算を「諮問」したところ、台湾防備関係者以外はみな戦備不十分だから勝算なしとの悲観論を上奏。
清軍の装備は貧弱で士気も低く、軍1万を台湾に派遣するがマラリアに苦しむ日本軍3千に対しても何も手出しせず。
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6月24日
・台湾から帰着の谷干城、原住民平定近いと報告。
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6月27日
・第1回三田演説会開催。会員は福澤諭吉ら14人。
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6月27日
・クワハディーコマンチ族の若者クワナ・パーカー、コマンチ族・カイオワ族南部シャイアン族連合軍を率いテキサスの白人交易所アドービ・ウォールズを襲撃。合衆国軍の徹底した報復戦に降伏。
「1875年6月2日」条約でインディアン専用地とされたバッファローの住む地域に白人猟師が侵入した事から始まったにもかかわらず、戦士の多くはフロリダ刑務所に収監、残った部族の者はオクラホマの居留地へ戻される。
合衆国政府は、ジョージ・カスターら各将軍に北部平原インディアンを狩り集め同じ様にインディアン準州(オクラホマ)へ送るように命令。
シッティング・ブルとクレージー・ホースは、残っていたインディアンを集めて連合軍を組織
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7月
・銀座煉瓦街、完成。  
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・ロシアんのアレクサンドル3世、ブラッセルに欧州15国とトルコ代表招集。俘虜待遇含む戦争法理。ブラッセル宣言、米不参加、英反対
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7月5日
・台湾問題に関する閣議。
閣議に備えて、リゼンドルが①「番地」領有、②償金と引換えに台湾を返還、の2つの選択肢を示し、幕引き方法に償金説が浮上。大勢がこれに傾きだす。

清国総署大臣が日本外務卿に宛てて抗議的照会を発し、清国皇帝が遠征日本軍討伐を勅命したので、台湾一件は日清国交問題の様相を帯びるに至る。
日本の世論も、「蕃地」平定が済んだ以上は速やかに撤兵すべきとの意見、この機会に清国本土に進出せよとの意見などに分裂。


政府内の意見も様々で、大久保日記によれば、大久保は終始「断然の御確定」(7月3日)と基本方針の確定を主張するが、「議論分立につき、(三条が)別して御心配」(4日)、「蕃地事件御評議これあり、すこぶる紛論なり」(5日)と、連日の閣議にもかかわらず意見は不一致のまま。  
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7月8日
・三条太政大臣、陸軍卿山県に命じ台湾問題を陸軍将官の見解を問わせる。この日の閣議で報告。
山県有朋、津田出、山田顕義、三浦梧楼、井田譲、曾我祐準各少将は開戦に消極的。
野津鎮雄・種田政明2少将のみ戦備は不充分だが戦えなくはないと回答。
9日、暗黙のうちに償金説に立脚しながらも表面上は「やむをえず戦う」と決定。
「清国との商議は、両国の和親を保持するに力むるは勿論なりと雖も、もし彼より釁端(キンタン)を啓(ヒラ)かば、交戦已むを得ざるべし」。
日清両国共に、軍部は戦うことに腰が引けている。  
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7月9日
・武市熊吉、岩倉具視暗殺未遂の罪で斬刑。  
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7月12日
・外務省が管轄している琉球藩を内務省に移管。内国化を進める。
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7月13日
・大久保、渡清を内願。岩倉が反対(大久保の独断を危惧、不信)。三条も同調。
30日、大久保は渡清への側面支援を伊藤博文に要請。大久保渡清には大隈も反対。
8月、派遣決定。

30日付け大久保の伊藤博文(台湾出兵には消極的)宛て手紙。
自分の清国行き実現への側面協力を頼み、「即今廟堂上(政府内)の景況を以て・・・実以て慨歎泣血の至りに堪えず、ここに至り既往を論じ候ても、眼を開いて寝語(寝言)するも同然にて、丈夫の恥じるべきところ・・・」と、「既往」をあげつらわれることへの憤懣を露わにする。
「既往」は、「台湾蕃地処分要略」策定や長崎で出兵断行を裁定したことと推測できるが、台湾出兵に消極的だった伊藤に理解と同意を求めているところから見ると、大久保と伊藤が通じ合えた明治6年政変での「一の秘策」の共謀のこととも推測できる。
「廟堂上」で大久保に後ろ指が指されている「既往」は、明治6年政変の際の不明朗な行動で、政変の後遺症がなお大久保に重くのしかかっていたと解釈できる。

大隈も反対。
31日の大久保日記には、「同人(大隈)、中子(大久保)清国行きにつき異論これあり、当人辞職云々の事あり」とある。大久保が渡清するようなら大隈は辞職するというくらい大隈の反対は強硬。
同日記には、黒田や伊藤も「異論あり」の態度だったという。
大久保の不人気、大久保への不信感の強さ、根強さを示す。  
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7月13日
・東京府、道路や車内での頬かぶり・手拭かぶり禁止。
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7月13日
・プロイセン、ビスマルク狙撃。軽傷、犯人桶屋職人懲役14年。
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7月16日
・外務省4等出仕田辺太一、清国派遣。柳原前光の援助。償金による解決訓令。
田辺が携行した訓令書は、「償金を得て攻取の地を譲与する」ことを「神速議決」すること。つまり、「フォルモサ島の一部を日本に併す」方針を根太的に転換して、金銭と引き換えに「蕃地」から手を引くことへと譲歩し、しかも大至急に取り決め上というわけである。
軍部が弱気で、おまけに病魔で進退きわまった西郷遠征軍という重荷を抱えている以上、これ以外の選択はない。
さらに、「這回(シヤカイ)の機会を以て琉球両属の淵源を絶ち、朝鮮自新(ジシン)の門戸を開くべし」と、台湾への野望を放棄する代わりに琉球の完全確保を狙い、ついでに朝鮮との関係打開の手掛かりを探ることも任務に加えられた。
また、リゼンドルを特例弁務使として福建省に派遣し、かれの人脈をたどって側面工作に当らせる。

しかし、9日閣議の開戦決意と「蕃地」有償放棄はワン・セットの筈であったが、柳原はこれを理解せず、強気の開戦決意に立脚した交渉を続け、意見の不一致はなかなか埋まらず。
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7月24日
・イギリス、ガーナのゴールド・コースト南部を植民地とする。
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7月25日
・小学校教員検定試験・教員免許状制度、初めて制定。
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7月28日
・台湾蕃地事務局長官大隈重信、閣議に「海外出師の議」を提出。
「今日戦議一決し、現兵急進海陸並び迫る、彼(清国)兵備未だ実せず、周章狼狽なす所を知らず、ついに彼より和を請い罪を謝するに至らん」
「今日不戦に決す、彼に在りては兵備ますます修め、他日大挙もって我に迫らば、勢い戦わざるを得ず、・・・しかして今日先んじて戦うと、他日先んじられて戦うと、その兵鋒の利鈍あにただ一と十とのみならんや
「これ今日海外出師のこと急にせざるべからざる所以なり」と、早急に開戦に踏み切るようにと力説。
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7月28日
・政府、台湾征討で三菱に輸送業務を委託
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7月29日
・岩倉、大久保の清国使節への「切迫内願」に態度を軟化させ、大久保派遣の件を明日の閣議にかけようと約束。
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7月31日
・ロシアよりメノナイト教徒移民第1陣、ケベック到着。
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7月末
・親善大使としてスー族領域のブラックヒルズへ赴くジョージ・カスターと第7騎兵隊及び民間人5人(内2人は地質学者とベテラン金鉱堀)、金鉱を発見。
7月末、カスターは報告書に纏めるが、新聞社にスッパ抜かれた、スー族の「聖なる山」に金鉱堀が殺到ララミー砦条約は一方的に無効にされる
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「★明治年表インデックス」 をご参照下さい。
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