2011年6月26日日曜日

明治7年(1874)9月5日~10月31日 台湾問題を巡る日清談判妥結(日清戦争への火種残る) [一葉2歳]

明治7年(1874)9月5日
・上海、米人プロテスタント宣教師が創刊した「中国教会新報」、「万国公報」(週刊)と改題。のち3万8千部発行。欧米事情・思想の紹介。清末の思想界に影響を与える。
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9月7日
・植木枝盛(18)、「明六雑誌」を購読。明六社の開明主義に大きな関心を持つ。
「閲読書日記」によると、明治7年に読んだ書物は37。
前年に続き、翻訳書が大部分を占めるが、福沢諭吉「世界国尽」「学問のすゝめ」「西洋事情」、加藤弘之の「真政大意」、津田真道の「泰西国法論」、中村敬宇の「西国立志編」など明六社啓蒙思想家の著述が多数。
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9月10日
・大久保一行、北京着。この日、恭親王が郡王に降格される。
12日、西太后、恭親王の降格取消し、円明園修復工事も中止させる。東西太后が同治帝を説得(西太后、政界復帰)。
14日、清国全権恭親王らと第1回交渉。16日、第2回。19日、第3回。10月5日、第4回。交渉不調だが、英国公使ウェードの尽力で31日、日清平和条約調印、和議成立。 


14日の第1回交渉。
大久保は、両国の争点が「貴国政府は生蕃を属地といい、我国はこれを無主野蛮の地というの両三句に止まる」ことを確認してから問答に入るが、双方共これまでの言い分を繰り返すだけのどうどう回りに終始。
日本側は、国際法の基準に照らせば「生蕃」には清国の統治が及んでいないから無主の地だと主張。
清側は、日清修好条規第3条「両国の政事禁令各異なればその政事は己国自主の権に任すべし・・・」を採用して、「生蕃」を清国流のやり方で治めているのだからとやかくいうのは修好条規違反、と突っぱねる。

清国総税務司ロバート・ハートの描写。
大久保は、ヴィッテルやマーティンらの国際法学説を総署に射ちこんでいる。
総署はただこう返答するだけだ。「ご忠告どうもありがとうございます。けれども台湾はやはり私たちのものなのです」と。
日本人どもはわれわれを国際法論争に引き込みたがっている。かれらには、フランス人法律家とリゼンドルという大きな知恵袋があるから、うんと説得力があって的を射た一節を引用することができるのだ。
われわれは議論を避けている。そして、ただこういうのだ。「わかりました。けれども台湾は私たちのものなのです」・・・  

大久保がポワソナアドと協議した交渉開始の際の質問二ヵ条。
清国は台湾を自らの版図と主張しているが、「第一ニ既ニ版図ト云ヘバ、必ズ官ヲ設ケ化導スルノ実アルベシ、今生蕃ニ何等ノ政教有リ乎。第二ニ万国往来シ各国皆ナ航旅ヲ保護ス、今生蕃人海路ノ障ヲ成シ屡々漂民ヲ害ス、之レヲ度外ニ置テ懲辧セズ、他国ノ人民ヲ憐マズシテ唯生蕃残暴ノ心ヲ養フ、此理有ル乎」というもの。
①は領土としての具体的立証を迫る、
②は、無害航行権という「自然ノ性法卜万国公法卜ニ背反スル兇暴ノ行為」を懲罰せぬのは正理にかなわない、と問詰したもの。

16日の清国側の回答。
①「台湾府志」などを根拠として、社餉(「生蕃」の納税)社学(一種の学校)があるから政教が存在する、就近庁州県に分轄したから官を設けている。
②国際交渉事件は、必ず照会文函によって調査答弁することを例とし、照会がなければ査弁しないとして、直接の回答を避ける。

日本側は、「答言を受けたが、要するに政教の実跡がない、政教のない土地は、万国公法上、領土と認められない」と反論、さらに正式に照会を発して、「夫れ、欧洲諸名公師論ずる所の公法、皆ないわく、政化逮(オヨ)ばざるの地は、以て所属となすを得ず。是れ理の公なるものとなす」と論じる。
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9月10日
・児島惟謙、京都府士族世継重遠の長女と結婚
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9月11日
・ワッパ騒動。酒田県、農民による雑税廃止・村役人不正追求運動、田川郡中心に全域に広がる。
県、指導者一斉検挙。
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9月16日
・駐清イギリス公使ウェード、大久保全権を訪問。清が日本の出兵を非理としなければ撤兵するか問う。確答せず。
26日、再度来訪。日本が撤兵するなら斡旋すると持ちかける。依頼せず。イギリスは200商社が活動し貿易額は年間4億£超であり平和を望むと述べる。
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9月19日
・天皇、近衛・東京鎮台・教導団の諸兵3370、砲18門などを統率して豊島軍元蓮沼村に行幸、陸軍中将山県有朋を参謀長として、自ら陸軍演習を指揮。
直接将官の上にたち指揮、(「元帥」「大元帥」としての行為)、国民徴兵軍である鎮台兵を直接指揮したこと(日本軍隊の最高統率者)で、男性的・軍人的天皇像を形成させてゆく。
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9月20日
・小野梓ら7人、文化啓蒙団体「共存同衆」創立。馬場辰猪ら加わる。
初期はイギリス留学者が中心。75年1月「共存雑誌」発行。79年衆員56人。公開講談会開催・共存文庫(図書館)創設などの活動展開。81年以後衰退。
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9月22日
・日本帝国電信条例制定。電信業務の政府管掌確立。
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9月22日
・この頃~10月3日頃。マルクス、ドイツ各地を廻る。
ライプツィッヒでリープクネヒト、ブロス他党組織代表者と会い、政治情勢・ドイツ労働運動について細かに相談。    
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9月23日
・アメリカ、政府「スー・インディアンとブラックヒルズの譲渡を交渉する」委員会派遣。
スー族部族会議と交渉。売却拒否。
強制買収方針に対抗してクレージー・ホースが戦闘酋長に選出される。
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10月
・朝鮮、日本公館長森山茂、一旦帰国。  
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・ワッパ騒動。酒田の豪商森藤右衛門、上京、左院に建白書提出。11月、再度提出。        
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・星亨、家族を残し単身イギリス留学に出発。1ヶ月後ナポリ上陸、ローマ~パリ経由、12月ロンドン着。
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この月初
・大山弥助、フランス留学より帰国。
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10月3日
・江戸後期の幕臣で町奉行の鳥居耀蔵(71)、没。
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10月5日
・大久保全権と清国との第4回会談。
会談後、大久保はこれ以上の交渉は無駄なので近く帰国するというが、清国側は帰国するなら引き止めないと冷ややかに対応。
18日、第5回。20日、第6回。23日、第7回会談。
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10月9日
・スイス、第1回万国郵便会議。万国郵便連合発足。
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10月12日
・バイエルン王ルートヴィッヒ2世、皇太后マリア・ビスマルクに抵抗してカトリックに改宗。
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10月14日
・大久保全権、駐清イギリス公使ウェードを訪問。償金と引換えに撤兵可能と婉曲に伝える。
ウェードは根回し開始。    
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10月15日
・岩倉、中国の大久保に手紙。
国内情勢を伝え、パークスが平和的収束を忠告、調停にあたってもよいとの「口気」であると伝える。
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10月16日
・大久保、リゼンドルに償金の代りに琉球の日本への帰属を条件にしてはどうかと相談。
リゼンドルは、これは清が承知しないだろう。但し、台湾で遭難した琉球人の償金を清が日本に支払えば、実質的に清が琉球に対して日本の権利を認めたことになると回答。
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10月17日
・島崎藤村の父正樹、天皇の行列に直訴状を書いた扇を投込む
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10月25日
・日本側、井上毅立案交渉決裂宣言書を送り10月26日出発とする。
夕方、駐清イギリス公使ウェード、仲裁。日清双方を往復。
27日、日清双方が調停案受諾。

ウェードが伝えた総理衙門諸大臣の意向。
①清国政府は名義はともかく合計50万両を支払う、
②日本側の要求する支払い約束の証書を与える。
日本側はこの条件の受諾を決定。
ウェードは9月中旬以来、両国仲裁に動いていた。
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10月28日
・この頃、マルクス、リープクネヒトより、10日にテルケがラッサル派の名で合同を申し入れてきた旨の報告受ける。
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10月31日
日清両国全権、「互換条款」3ヶ条と「互換慿単」に調印
償金50万両で台湾占領地を放棄。50万両は日本貨77万円。遠征費用362万円に輸送費などで支出合計は771万円。
修好条規を結んだばかりの日本の仕打ちに対し、総署大臣恭親王らは皇帝に軍備増強を上奏。
反対を押し切って修好条規締結を進めた直隷(河北省)総督李鴻章も対日戦備強化を通感、のち北洋陸海軍となる。日清戦争の種が蒔かれた
また、この協定により、清国は琉球遭難民が暗に日本国民と認めたことになり、国際的にも琉球に対する日本の統治権を認めたことになる  

 「互換条款」:
前文、「台湾生蕃」が「日本国属民等」を加害したので日本国が「詰責」した。
一、このたび日本国が出兵したのは「保民義挙」のためだったと主張しても、清国は「不是」と言わない。
二、清国は「蕃地」での遭難者と遺族に「撫恤銀」を支給する。日本軍が「蕃地」に設営した道路や建物は清国が有償で譲り受ける。金額や支払方法等は「互換憑単」で定める。
三、両国がやりとりした一切の公文は破棄し以後は論じない。「生蕃」にたいしては清国が自ら法を設けて航海民の安全を保証し再び「兇害」を起こさないことを約束させる。

「互換慿単」:
清国は「撫恤銀」10万両を即時支払う。「蕃地」道路・建物への報償40万両を日本側の撤兵完了と同時に支払う。撤兵期限は12月20日とする。
(50万両は日本貨幣換算で約77万円。日本軍の台湾遠征費用は約362万円、軍隊輸送用船舶購入費などを合算すると771万円余)  

「互換条款」は、予想以上に日本側に有利。
①遭難者(琉球人)は「日本国属民等」であると明記された。
②日本国の出兵目的は「保民義挙」のため、つまり自国民保護のためだと主張しても清国は反対しないとされた。
③清国が支給する「撫恤銀」は遭難者と遺族に直接手渡されるのでなく日本政府に支払われるとされた。
清国政府が、琉球人は日本国籍であり、日本政府は琉球人にたいする統治の権利と保護の義務を有し、したがって琉球は日本領であると客観的に承認したことを意味する。

総署大臣恭親王、ウェード調停案を飲まざるをえない勅許を乞う上奏において、「本案は日本の背盟興師に発したものだが、わが海彊の武備が侍むに足るものであったら、弁論の要もなく、決裂を虞れる事もなかったであろうに、今や彼の理由を明知し、わが備えの不足を悲しむ」と述べる。
日本の台湾出兵は日清修好条規に連反した不法行為であるのに、「わが備えの不足」のために阻止できず償金を出さねばならないところに追いこまれた無念さを吐露。
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「★明治年表インデックス」 をご参照下さい。
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