2011年7月17日日曜日

昭和16年(1941)6月1日~10日 重慶爆撃 重慶隧道大惨案

昭和16年(1941)6月
この月
・国民政府、法幣増発阻止のため田賦(田地税)の国税化と現物徴収実施
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・第1軍、山西省経済警察本部を特設(本部長は軍参謀長が兼任)、経済取締を強化  
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・台湾軍研究部辻政信中佐ら、海南島1周長距離機動演習(敵前上陸に引続く長距離移動演習)。
タイ~マレー~シンガポール想定。  
この演習の研究結果に基づき辻が編纂した「これさえ読めは勝てる」という「虎の巻」は、開戦に当り乗船と同時に全南方作戦部隊将兵全部た配布される
(服部卓四郎大佐(戦後、第1次復員局史実調査部長・資料整理部長、史実研究所長)「大東亜戦争全史」)。
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・日本鉱業・中野鉱業・旭石油・日本石油の石油鉱業部門を統合し、帝国石油会社設立。
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・日本撮影者協会が発足。
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・徳田秋声「縮図」連載開始
・近松秋江「三国干渉」(桜井書店)。
・太宰治(32)、「千代女」(「改造」)
・小林秀雄(39)、「川端康成」(『文藝春秋』)、「伝統」(河出書房『新文学論全集』第六巻)、「伝統について」「アランの『芸術論集』」(『朝日新聞』)。尾沢良三『女形今昔譚』に序文を発表。 
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・ヘミングウェイ(42)、日中戦争報道特派員として妻マーサと中国およびアジアを取材旅行。
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6月1日
・ゾルゲ、ドイツのソ連攻撃が6月15日であると打電。モスクワ側はこの情報を無視。

「独ソ戦の開始が、およそ六月一五日という予想は、ショル中佐(ベルリンから来た陸軍武官でゾルゲの古くからの友人)がベルリンから携えてきた情報にもっぱら基づいている。
オット大使は、自分はその情報について直接ベルリソから受け取ることがlできず、ショル中佐の情報が手元にあるのみだと述べた」。
しかし、モスクワに届いたこの電報には「疑わしい、挑発のための電報のリストに入れるよう」とのソビエト側の書き込みがされる。
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6月1日
・ジャワ島からの最初の引揚げ船榛名丸、ジャワ島バダビア発。
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6月1日
・イギリス軍、バクダッド入城
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6月1日
・5月20日にクレタ島に上陸したドイツ軍、島を占領。
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6月1日
・イギリス軍、エリトリアの首都アスマラを占領。     
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6月1日
・ドイツ「プリンツ・オイゲン」、ブレストに到着。米沿岸警備部隊、グリーンランド南方からの哨戒を開始    
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6月2日
・フランスのヴィシー政府、ユダヤ人定員法制定。
法律家・医師・大学教授2~3%と制限。ユダヤ人人口調査を命令
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6月2日
・イタリア、ムッソリーニ(58)、ブレンネロでヒトラーと会談。
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6月4日
・関東州国防保安令公布
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6月5日
重慶隧道大惨案
夜、日本軍機による3波の夜襲。防空洞内大量窒息死事件、数千人(2,500)死亡。


国民党政府「大隧道窒息事件審査報告書」。
「当日、この随道に避難してきた人は、普段と比べ極めて多かった。なかでも婦人と子供の数が普段より多く、また避難者の荷物が多かったのも特徴である」
較場口隠道の最大定員は6555人であるが、少なく見積もっても倍以上の避難民を収容と推定。
押し合いへし合いの状況の下、出入り口の泥濘が靴や草鞋に付いて持ち込まれたため、滑り易く足元を踏ん張るのが覚束なくなる。
更に、換気用通風機が故障。毒ガス投下の噂に、出入り口付近の人々は奥へ奥へと詰める。

犠牲者数はいまなお不明。
当局の調査委員会は、死者992人と発表するが、当時でもこの数字は信用されず。

カール・マイダンスの写真(十八悌口脇の石段に折り重なって倒れた男女、子供の姿)によって空襲下の悲惨事を世界に伝えた「ライフ」は、「重慶市民四千人、空襲下の防空洞で窒息死」の見出で報じる。

その頃重慶に住んでいたハン・スーインは1968年に書いた自伝の中で、「約一万二千人が重慶の公衆防空壕で窒息死したのである(二万人という報告もある)」と記す。
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6月5日
・駐独日本大使大島浩、3~4日にヒトラー、リッペントロップ外相と会見した結果、独ソ関係悪化により開戦必至との報告。開戦2~3ヶ月でソ連を制圧するだろうとの両者の話を盛り込む。

(ヒトラー)
「独ソの関係はますます悪化し、独ソ戦争はおそらく不可避と考えあり。ソ連のドイツに対する態度は外面友誼的なるも、実際は常に全然反対なり。
・・・自分は相手に敵意あるを認むれば、常に相手より先に刀を抜く男なり」。

(リッペントロップ)
「最近にいたり独ソ関係はとくに悪化し、戦争となる可能性はなはだ増大せり。
・・・ドイツは何等の交渉も行いおらず、しこうしてドイツの東方における軍の配置は完了しあり。
・・・独としては、もし日本にして準備の関係等にて南方進出困難なりとせば、対ソ戦に協力せらるることを歓迎す」。

大島は最後に自分の印象を記し、独ソ開戦は今や必至で、ヒトラーの従来のやり口からすれば、短時日中に決行すると判断しうる、と結論づける。
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6月5日
・英・中500万ポンド借款協定調印(ロンドン)。
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6月5日
・ドイツ軍、クレタで1万5千人の捕虜を得たと主張
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6月6日
・日本軍、重慶夜間爆撃
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6月6日
・大本営、「対南方施策要綱」決定。仏印・タイに軍事基地設営方針  
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6月6日
・蘭印経済省から日本向け輸出商品の割当額最終回答が提出。
一部の合意点を除き、生ゴム、錫、コプラ、ボーキサイトなどでは妥結に至らず。
17日、日蘭経済交渉打切り
蘭印特派大使芳沢謙吉、チャルダ・オランダ領東インド総督に対し会商打ち切りを伝達(交渉決裂の形をとらず)、引上げる。石油交渉のみ続行。
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6月6日
・日本編集者協会、日本編集者会と東京編集者協会、合同。
全編集者の統一組織。200余名。自主的結束が崩れ、徐々に戦争協力団体となる。

「これによりわが国編集者組織が一元化されるわけで、同協会の目的とするところは国防国家と日本文化の建設に積極的に協力するにあり、会員相互の向上と協力を図りつつ出版文化協会とも緊密に連絡して出版文化政策の具体化に努めようというのである」(この年の「雑誌年鑑」)。

設立当初に働いた者に代わり、橋本求・萱原宏一(講談社)、上村哲弥(第一公論社)、赤尾好夫(旺文社)、川島篤(ダイヤモンド社)、斎藤龍太郎・柳沢彦三郎・下島連(文藝春秋社)らがヘゲモニーを操るようになる。
彼らは、ナチスばりから「みそぎ」派まで幅はあるが、戦争政策への全面的傾倒のもとに、批判・質疑の類する事を一切排撃する点で一致。

ある右翼総合雑誌編集長は、軍報道部の軍人の同席する出版関係の会合で、
「今夜の会合には、国賊出版社の者が同席している。わたくしは彼らと同席するのを快しとしないが・・・」と言って「中央公論」「改造」編集者の方を睨め、自分の鰻誌がいかに愛国的であるかを宜伝(池島)。

三木清の論文を載せた他誌の編集着に向かい、「君、切腹せよ」と居丈高に詰めよる雑誌「公論」の編集者、陸軍報道部の中佐から金をもらって排英講演会を開催した某誌編集長、古事記・日本書紀を朗諭して、同僚の前に日本精神の「家元」を気取る編集者(池島)。
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6月6日
・フランス、パリ議定書、ヴェガン将軍の反対で延期
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6月6日
・ドイツ、「政治人民委員の取扱いに関する指針」。
対ソ戦では赤軍政治委員を分離した後抹殺する「コミサール(人民委員)命令」指示。
従来の戦争倫理無視、非戦闘員の虐殺。      
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6月6日
・イギリス軍、ハリケーン戦闘機をマルタへ輸送。 
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6月7日
・北海道紋別雄武町の幌内川ダム、ダム決壊、80人死亡
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6月7日
・愛知銀行、名古屋銀行、伊藤銀行が合併、東海銀行設立
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6月7日
・イギリス連邦軍と自由フランス軍、ヴィシー政府派の支配するシリア、レバノンに侵攻。
7月14日、シリアで休戦成立。
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6月8日
・ドイツ歩兵師団、フィンランドへの上陸を始める。
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6月9日
・麦類配給統制規則公布  
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6月9日
・情報局・大政翼賛会の音頭で「日本移動演劇連盟」結成、発会式。
委員長岸田国士(大政翼賛会文化部長)、事務局長伊藤喜朔。事務局は東京日日新聞内。  

前年昭和15年頃より劇団に農山漁村・工場鉱山などを巡回させて、国民精神作興・戦意昂揚に役立たせる為に、移動演劇運動が組織され、これを組織化し拡大する事を目的とする。
専属劇団「くろがね隊」、加盟劇団として東西の歌舞伎各劇団、新生新派、井上正夫や水谷八重子の一座、文学座、前進座など主な演劇団体が全て集まる。
文学座は、初めて8月に川崎の工場で移動演劇を上演。
昭和17年末迄の1年半の間に連盟の移動演劇公演回数は2,300回、観客動員数290万人に及ぶ。
昭和20年には、本土空襲の危険を分散し、交通機関の逼迫からくる移動困難に対処して、連盟は加盟各劇団の地方への疎開常駐を行う。  
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6月10日
・ドイツ海軍武官ヴェネカー少将、日本にはシンガポール攻撃の意志なしを、日本海軍の情報源から知る。    
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6月10日
・ドイツ、機雷敷設によるバルト海封鎖作戦開始
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6月10日
・パリの日本大使館が閉鎖。
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