2011年8月13日土曜日

永禄7年(1564)1月1日~4月30日 第2次国府台の戦い 織田信長・浅井長政攻守同盟 [信長31歳]

永禄7年(1564)
この年
信長31歳、光秀37歳、秀吉29、家康23歳
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・石山本山殿堂、失火により焼失。
顕如、これを機に堅固な要塞築く。
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・この年、大友氏は毛利氏との戦いで、鉄砲1200挺を備えていたという。
弘治2(1556)年より本格的鉄砲を生産。
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・高山飛騨守(奈良県榛原町沢の沢城主、松永久秀配下)、堺から日本人修道士ロレンソ(肥前(平戸市中野白石)出身の日本人、半盲の琵琶法師)を招き、6日程滞在させる。
飛騨守の子で右近(12)が受洗、霊名ジェスト(正義)というキリシタンになる。  
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・ハンガリー王国、トランシルヴァニア候国国会でルター派・カルヴァン派の信仰が認められる。
ドイツ系市民の間ではルター派、ハンガリー系貴族の中ではカルヴァン派が優勢。
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・ネーデルラント、フェリペ2世による新教弾圧。高級貴族~庶民まで、側近会議に反抗。
熱烈なカトリックでスペインで生まれ育ったフェリペ2世、父カール5世の新教弾圧を忠実・厳格に行う。
強力な宗教迫害、強引な司教区改革に対し、高級貴族~一般庶民まで、側近会議に対する反抗が表面化。
反抗の中心にはオラニエ公ウィレム、エグモント伯ラモラール、ホールネ伯ら高級貴族がいる。
彼等はフェリペに働きかけ、1564年に側近会議の1人を解任。
しかし、事態は改善されず。フェリペはこの一件以後、全国議会召集を停止するなどより王権強化方向に向かう。
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・フランス、ロードニェール、第2次フロリダ遠征。
根拠地フォール・カロリーヌ(カロリーヌ砦)を建設。
スペインは同じくフロリダにサント・アグスティン砦を築き、フランス勢力と対決。
フランス人は先手をうってサント・アグスティン砦の撃破をはかるが、遠征船団がハリケーンで難破、生き残りもスペイン軍に殺され、カロリーヌ砦も破壊。
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・リヨンでペスト 流行。
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・トスカナ(フィレンツェ)大公コジモ・デ・メディチ、引退。長男フランチェスコを摂政とする。但し、コジモは名目的には大公に留まる。  
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・フランス、ミシェル・ド・ノートルダム(ノストラダムス)、「王附医師」の称号。
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・スウェーデン、デンマーク・リューベック連合艦隊にゴトランド沖で敗れる。
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1月
・上杉勢、利根川渡り上州和田城攻撃。
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1月1日
・フランス、シャルル9世、「ルシヨン王令」。
1年の初めを「復活祭(移動祝祭日、春分後の最初の満月の次の日曜日)の前日」から「1月1日」に変更。(12世紀、教会が復活祭の前日を年始と定めた)
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1月1日
・北條氏康、江戸衆太田・恒岡両氏に離反した太田康資の家臣を葛西城に入れるよう命ず
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1月9日
第2次国府台の戦い
上杉謙信の要請を受けた安房の里見義弘(北条家を離反した太田康資と武蔵岩槻の太田資正が合流)8千、相模の北条氏康・氏政父子2万と下総国府台で戦い、敗北。
里見義弘戦死。北条側重鎮遠山綱景戦死。
以後、関東は北条氏に制圧される
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1月10日
・武田晴信、飛騨の桜洞城の城下に火を放つ
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1月11日
・松平家康(23)、三河一向一揆勢に包囲されている上和田城救援のため岡崎城を出陣。
上和田の戦いで大敗。家康は銃弾2発を受ける。洞窟に身を隠して一揆勢の探索を逃れる。
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1月22日
・上杉政虎(35)、和田城包囲解き、常陸佐竹氏や下野宇都宮氏と合流して常陸小田城(小田氏治)攻撃。小田城全滅。
城主小田氏治は菅谷氏の土浦城へ逃亡し再起を図る(小田城攻め)。
2月、再度離反した佐野氏の下野唐沢山城に軍勢を進め、佐野氏を降す。
4月、政虎帰国。
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1月24日
・フランス、シャルル9世、母の摂政カトリーヌ・ド・メディシスと国内巡幸(1563年1月~1566年5月、3年半)。
パリ→サン・モール(パリ南東10Km)→フォンテンヌブロー(パリ南南東55Km)→
3月14日サンス(パリ東南110Km)→トロワ(サンス東60Km)「トロワの和約」調印→バール・ル・デュック(トロワ東北90km)→
5月22日ディジョン→シャロン(ディジョン南60km)→マコン(シャロン南50km)→リヨン→ルション→ロマン→ヴァランス→オランジュ→
9月12日モンテリマール→9月23日アヴィニョン、
10月16日出発→ラ・クロー→サロン(アヴィニョン南南東40km)→エクサン・プロヴァンス→ブリニョル→ツーロン→
11月6日マルエーユ→アルル→タラルコン(アルル北15km)→ボーケール→ニーム→エーグ・モルト→12月17日モンプリエ    
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2月
・毛利元就、長門日枝神社を再建・遷宮。
春、義輝、元就の病治療のため医師曲直瀬道三らを出雲に派遣。
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・美濃で竹中半兵衛重虎(重治)・安藤守就のクーデタ。一時、稲葉山城が占領される。
のち斎藤龍興が奪回。
この美濃国内の内乱に乗じて、信長はこれまでの西美濃からの侵入を、東美濃への攻略作戦に切り替えていく。
居城を、清洲より北東に位置し美濃により近い小牧山に移したのもこの作戦の一環と考えられる。
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2月13日
・松平家康、居城の岡崎城を攻囲した上宮寺の一向一揆の軍勢を撃退。
28日、三河一向一揆を鎮圧。前年9月蜂起。      
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2月15日
ガリレオ・ガリレイ、誕生(1564~1642)。イタリア・ピサ。両親はフィレンツェ出身。父は、音楽家。
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2月17日
・下野の佐野昌綱が北条氏康に応じて上杉謙信に背いたため、謙信が唐沢山城を攻める。城主佐野昌綱降伏。色部勝長、荻原伊賀守、吉江織部を唐沢山城に留めて守らせる。(唐沢山城攻め)
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2月18日
ミケランジェロ・ブオナッローティ(88)、没(1475~1564)。
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2月28日
・北條氏照、小田野氏等の国府台での戦功を賞する  
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3月
織田信長・浅井長政(20、近江北三郡)攻守同盟。異腹の妹お市御寮人(17)。
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・武田信玄、川中島の清野氏に岩櫃城の真田幸隆(52)救援を命じる。  
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3月2日
・松永久秀、春日祭の費用として1,500疋を山科言継を通して献上。
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3月4日
・武田信玄が信越国境に出陣したとの報を受け、上杉輝虎(35)、関東から春日山城留守将蔵田五郎左衛門、荻原伊賀守に実城を死守するよう厳命をだす。
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3月10日
・将軍義輝、上杉謙信・北条氏康・武田信玄の和解をはかる。
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3月13日
・フェリペ2世、グランヴェル枢機卿(47、パルマ公妃補佐、フェリーペ2世腹心)、スペインに召還、罷免。
マルゲリータ・ディ・パルマ、エグモント伯(42)、オラニエ公ウィレム1世(31)らの要求による。
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3月16日
・松永久秀、広橋国光・万里小路惟房を通じ改元を申請するが返事は下されず。
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3月18日
・武田信玄、信濃水内郡野尻城を奪い返す  
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3月19日
・松永久秀の妻、没。    
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3月21日
・武田信玄、会津蘆名盛氏を誘う。
4月、蘆名盛氏、武田氏に呼応し越後に出陣。
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4月
・毛利元就、洗骸より富田城に迫り尼子義久を破る。  
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・武田信玄、西上野に侵入。
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4月11日
・トロワの和約
イングランド、カレーを放棄(1562年月「ハンプトンコートの密約」でユグノーがカレーの譲渡を約束)。
フランス・イングランド間の通商の自由、「関税」撤廃。
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4月13日
・信長(31)、犬山城(城主織田信清)攻めのため小牧発。
家老和田新介・中嶋豊後守は前年又はこの年信長に降る。
この年9月まで東美濃侵攻。
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4月17日
・毛利元就、尼子義久と富田城に戦い、勝利。
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4月23日
・イングランド、シェークスピア、誕生。中部ストラッドフォード・アポン・エイヴォン。
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「★信長インデックス」をご参照下さい。
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