2011年9月21日水曜日

宝亀11年(780)3月22日~7月21日 伊治呰麻呂が反乱 按察使殺害、国府多賀城焼亡

宝亀11年(780)
3月22日
・陸奥国上治郡の大領(長官)の伊治呰麻呂(これはるのあざまろ)が反乱
按察使(あぜち)の紀広純(きのひろずみ)を伊治城で殺害。
反乱軍はさらに陸奥国府多賀城を略奪し、これを焼き払う(『続日本紀』宝亀十一年三月丁亥(22日)条)。
按察使が殺害され、多賀城・伊治城が蝦夷の手に落ちるという未曾有の反乱。

同条は、事件の背景にある人間関係を以下のように記す。
「伊治呰麻呂は本これ夷俘の種なり。
初め事に縁りて嫌ふことあれども、呰麻呂怨みを匿(かく)して陽(いつわ)りてこれに婚び事ふ。
広純甚だ信用して、殊に意に介さず。
また牡鹿郡大領道嶋本(大)楯、毎(つね)に呰麻呂凌を凌侮して、夷俘を以て遇す。
呰麻呂深くこれを撳(ふく)む。」

(呰麻呂は夷俘の出身。初めは広純を嫌っていたが、怨みを隠して媚び仕えていたので、広純は彼を信頼していた。陸奥国牡鹿郡の大領の道嶋大楯(みちしまのおおたて)は、常に呰麻呂を「夷俘」として辱めていたので、呰麻呂は深く怨みに思っていた。)

道嶋氏:
黒川以北十郡の一つである陸奥国牡鹿郡を本拠地とする豪族。
もとは坂東からの移民(上総の伊甚(いじみ)地方が故地と推定される)で蝦夷ではない。
一族からは、中央政界で活躍し、陸奥国大国造となった道嶋嶋足、陸奥国国造・鎮守軍監・陸奥員外介(むついんがいのすけ)を経験した道嶋三山が出ており、陸奥国内では一般の郡司よりも羽振りが良かったらしい。
そんな道嶋大楯が呰麻呂を常に「夷俘」として扱い、侮辱していたという。
国家の政策に協力してきた呰麻呂にとっては、耐え難い屈辱。

伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)
もともと伊治城が置かれている陸奥国栗原郡付近(宮城県内陸北部、現栗原市)に勢力を持つ蝦夷の族長。
国家に協力した功績で、伊治公の姓と、第二等の蝦夷爵(えみししやく、蝦夷に授与される位)を与えられていたが、志波村の蝦夷征討の功により宝亀9年6月25日の論功行賞で、外従五位下という地方在住者としては最高位が授けられる。
呰麻呂は、俘軍(服属した蝦夷の軍)を率いて征夷戦に参加している。彼に対する破格の叙位は、彼の軍功が並々ならぬものであったことを示す。
さらに彼は、陸奥国上治(かみはり)郡の大領(郡司の長官)にも任命される(『続日本紀』宝亀十一年三月丁亥条)

●呰麻呂の乱の縫過
3月22日条が記す事件の経緯。
「時に広純、議を建てて覚鱉柵を造りて、以て戍候を遠ざく。
因って俘軍を率ゐて入るとき、大楯・呰麻呂並びに従ふ。
是に至りて、呰麻呂自ら内応をなして、軍を唱誘して反す。
先づ大楯を殺し、衆を率ゐて按察使広純を囲み、攻めてこれを害す。
独り介大伴宿禰真綱(まつな)を呼びて、囲みの一角を開きて出し、護りて多賀城に送る。
その城、久年、国司の治所にして、兵器・粮蓄、勝(あ)げて計(かぞ)ふべからず。
城下の百姓、競ひ入りて城中に保(まも)らんと欲すれども、介真綱、掾石川浄足、潜かに後門より出て走(に)ぐ。
百姓遂に拠る所なく、一時に散り去りぬ。
後数日にして、賊徒乃ち至り、争ひて府庫の物を取る。重きを尽くして去る。
その遣るところは火を放ちて焼く。」

(広純が覚鱉城を造るために、俘軍を率いて伊治城に入った時、大楯と呰麻呂もこれに従った。
ここで呰麻呂は自ら内応し、俘軍を誘って遂に反旗を翻す。まず道嶋大楯を殺し、次いで按察使広純を包囲して殺害。
さらに陸奥介の大伴真綱を呼び、囲みの一角を開いて出し、多賀城に護送(真綱に多賀城明け渡しを要求したとも言われている)。

(多賀城は長年にわたって国府であり、多くの兵器・食糧を備蓄している。
城下の民衆は城中に入り保護を求めるが、介の真綱と掾の石川浄足は、密かに後門から出て逃亡。指揮官不在となり、多賀城に逃げ込んだ城下の民衆も逃げ去る。
数日後、「賊徒」(反乱軍)は無人となった多賀城に到着、争って府庫の物を略奪し、貴重なものをことごとく持ち去った上、残りは火を放って焼き払った。)

『続日本紀』は、事件は紀広純と道嶋大楯に対する呰麻呂の個人的な怨みが原因とするが、呰麻呂の反乱に同調して、陸奥・出羽両国で多数の蝦夷が蜂起し、東北全体が大混乱に陥っていることを見ると、単に呰麻呂の個人的な確執だけでは説明できない。
背後には、律令国家の支配に対する蝦夷たちの怨恨がある。  

この時の多賀城・伊治城の焼失は発掘調査によって確認されている。
多賀城の火災の痕跡は広範囲に及んでいるが、特に政庁地区の建物の殆どが焼け落ちている。
政庁の西辺築地では、築地の屋根に葺かれていた瓦が焼けてずり落ち、その焼け瓦をかきならした状態が検出されている。
伊治城跡では、政庁跡の建物群が火災で全焼し、外郭南門跡でも火災の痕跡が確認されている。
多賀城・伊治城ともに、火災の後に復興されている。

●乱の影響
移民系住民の逃亡、延暦2年になっても回復せず
出羽国司の申請(『続日本紀』延暦二年六月丙午条)。
「宝亀十一年、雄勝・平鹿二郡の百姓、賊のために略(略奪)せられ、各本業を失ひて彫弊(疲弊)殊に甚だし。
更に郡府(郡家ぐうけ)を建て、散民を招集して、口田(くでん、口分田)を給ふと雖も、未だ休息を得ず。
これに困りて調庸を備へ進むるに堪へず。
望み請ふらくは、優復(課役免除)を蒙り給ひて、まさに弊民を息めむことを。」

呰麻呂の乱があった宝亀11年、出羽の蝦夷も蜂起して、雄勝・平鹿二郡の移民(柵戸)を襲撃し、郡家も破壊した。そこで郡家を再建し、逃亡した移民系住民を集め、口分田を支給したが、まだ調庸を徴収できる状態にないという。
この申請に対し、勅によって3年間の課役が免除される。

天平宝字元年(757)に雄勝城の造営が開始され、雄勝・平鹿二郡の建郡や柵戸の移配など、この地域に積み上げてられきた支配の成果が、呰麻呂の乱によって失われたことを示している。

伊治呰麻呂の乱は、各地の蝦夷が連動して蜂起し、それが移民系住民の逃亡を引き起こし、東北全体を大混乱に陥らせた。
律令国家がそれまで積み上げてきた東北辺境政策の成果を一挙に失わせ、国家の威信を大きく揺るがした。
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3月28日
・中納言で従三位の藤原継縄を征東大使に、正五位上の大伴益立(ましたて)と従五位上の紀古佐美(きのこさみ)を副使に任命。
翌29日、従五位上の安倍家麻呂(やかまろ)を出羽鎮狄(ちんてき)将軍に任命し、征東副使の大伴益立に陸奥守を兼任させる。
同日(29日)、陸奥介大伴真綱(呰麻呂の指示で伊治城から多賀城に護送され、掾石川浄足と共に多賀城から逃亡)が、鎮守副将軍に任命される。
但し、6月8日に鎮守副将軍は百済王俊哲に交替。

東北に対する征討使は、天平9年(737)の持節大使藤原麻呂以来、43年ぶりの任命。
鎮狄将軍は、神亀元年(724)の小野牛養(おののうしかい)以来、56年ぶりの任命。
征東使には判官・主典各4人、鎮狄使には軍監・軍曹各2人も併せて任命される。

征東大使となった藤原継縄は、前月に中納言になったばかりで、外衛大将・左兵衛督の衛府長官の経験があり、初めて東北に関わる役職に就く。
副使となった大伴益立は、仲麻呂・道鏡政権下の東北政策に深く関わった人物で、天平宝字4年(760)正月に桃生城・雄勝城が完成した時の鎮守軍監で、自ら再征の労をとったことにより位三階を進められている。その後、鎮守副将軍兼陸奥介となり、神護景雲元年(767)10月に、伊治城造営の功績によって正五位上を与えられる。
紀古佐美は、東北政策に関わるのは今回が初めてであるが、桓武朝の延暦7年(788)7月には征東大使となっている。
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4月
・新羅で内乱。
金良相(後の宣徳王)が金敬信(後の元聖王)と共に挙兵。恵恭王が殺害される。
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4月4日
・征東副使大伴益立が節刀を授けられ(異例)、正五位上から従四位下に叙位され、出発。征東大使の藤原継縄は陸奥に下向せず。
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5月8日
・陸奥に下向した持節副将軍大伴益立らから最初に報告。
「且つは兵粮を備へ、且つは賊の機を伺ひ、方に今月下旬を以て進みて国府に入り、然して後、機を候(うかが)ひ変に乗じて、恭みて天誅を行はむ」というもの。
兵粮を蓄え、蝦夷の様子を窺いながら、5月下旬に国府多賀城に入り、その後機会を窺って蝦夷を攻めるという。
その後2ヶ月間連絡もなく、俘の献上もない。
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5月11日
・出羽国に渡嶋蝦夷への対応に関する勅が出される。
「渡嶋(わたりしま)の蝦夷は、早くから真心をつくして来朝しており、朝貢するようになってすでに久しい。まさに今、帰服した蝦夷が反乱を起こして、辺境の人民を侵し乱している。
鎮狄将軍・出羽国司は、饗宴を行う日に、特に意識して慰め諭すように」(『続日本紀』)。

渡嶋(北海道)蝦夷は、養老2年(718)に上京朝貢した記録があり、その後も出羽国(秋田城)に定期的に朝貢し、饗給を受けていた。
この年8月に秋田城停廃が議論されているので、この頃、秋田城の機能は一時停止されていた可能性が高い。
伊治公呰麻呂の乱の影響で、陸奥・出羽の蝦夷が離反する中で、渡嶋のような遠方の蝦夷に対しても、国家から離反しないように特に注意を払っている。
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5月14日
・坂東諸国および能登・越中・越後国に勅して糒(ほしいい=蒸した米を乾燥させた保存食)3万斛(こく=石)を準備するよう命じる。
同月16日、広く進士(志願兵)を募り、応募した者は戦乱の平定後に序列にかかわらず抜擢する旨の勅が出される。
征夷において志願兵を募ったのはこれが最初(この後、延暦8年の征夷でも進士が実戦に参加する)。
この頃は、軍団兵士制の弱体化が問題となっており、軍士徴発が困難な状況の中で、富裕層から戦闘能力に長けた者を集めようとした。
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6月
・光仁天皇、軍事行動を開始しない陸奥持節副将軍の大伴宿禰益立(おおとものすくねましたて)に対し、「佇(たたず)みて俘を献ずるを待つ」と述べて叱責(『続日本紀』宝亀十一年六月辛酉条)。
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6月21日
・征東使の申請により、甲1千領を尾張・参河など5ヶ国から軍所に運ばせ、翌22日には、同じく征東使の申請により、東海・東山道諸国に襖4千領を作らせ、9月5日までに坂東の軍士を多賀城に召集すること、8月20日までに下総・常陸国の糒1万6千斛を軍所に運ぶよう命じる。
大伴益立らには軍士・軍粮・武具が不足していて軍事行動が起こせなかった模様。
征夷は9月以降に延期されたことになる。
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