2011年9月9日金曜日

宝亀2年(771)~4年(773) 井上内親王・他戸親王が排斥され、山部親王(37歳、のちの桓武)が立太子

宝亀2年(771)
1月
井上内親王の産んだ他戸(おさべ)親王を皇太子に定める。
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2月
・光仁天皇即位に功績のあった左大臣藤原永手(58)、没
以後、宝亀年間を通じて右大臣大中臣清麻呂(おおなかとみのきよまろ)が首班となる。
しかし実際には、次席の内臣(後、内大臣)藤原良継や、参議になったばかりの藤原百川が隠然と実権を掌握
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宝亀3年(772)
1月13日
・現存する大友家持の自署文書の2例がともにこの年のもの。
(家持は、左中弁。「官符」発行の責任者として太政官の事務局である弁官局の次官)
①太政官符:宝亀3年正月13日大伴家持自署
②太政官符:宝亀3年5月20日大伴家持自署

①山背国久世郡の雙栗神と、同国乙訓郡の乙訓神の祟りを解く必要から、それぞれ神田と神部・幣帛を寄せることを神祇官が上申(解)したのに対し、宝亀3年1月13日付で、光仁天皇の勅によって承認するからすぐに実施するように指示したもの。『続日本紀』に記載がないもの。

②宝亀3年5月20日付で、神祇官に対し、右大臣大中臣清麻呂の宣を受けて、今後、大和国の広瀬神社を月次幣帛に預かる例に加えることを指示したもの。『続日本紀』に記載あり。
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3月2日
・光仁天皇の皇后井上内親王、天皇を呪誼した疑いにより皇后の地位を下ろされる。
更に5月、これに連坐して他戸親王も廃太子となる。
井上・他戸は、のち大和国字智(うち)郡に幽閉され、宝亀6年4月の同日に没す(自殺或いは他殺)。
のちに井上の怨霊が世上を騒がすことから見て、恐らく藤原百川によって仕組まれた冤罪であったと推測できる。
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9月28日
・光仁天皇は、大伴駿河麻呂(おおとものするがまろ)を陸奥按察使(むつあぜち)に任じる。       駿河麻呂は老齢を理由に一旦は辞退。
天皇は、「陸奥国はもともと人をよく選んで任ずべき国である。汝駿河麻呂は、ただひとり私の心にかなっている。だから按察使に任ずるのである。このことをよく知るように」との勅を発し、駿河麻呂に2階級特進の正四位下を与えて赴任させる(『続日本紀』宝亀三年九月丙午条)。

駿河麻呂自身は武官の経験はないが、大伴氏は代々軍事を家業とする家柄。
以前にも大伴古麻呂(こまろ)が陸奥按察使兼鎮守将軍に任じられたが(『続日本紀』天平宝字元年(757)六月壬辰条)、橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の変に連座して、陸奥赴任前に捕われ、拷問の上殺害されている(同年七月庚戌条)。
この時、駿河麻呂も捕われて何らかの処罰を受けている(同年八月甲午条)。

駿河麻呂にとって、今回の按察使就任は、武門の家としての面目を施す機会であり、古麻呂の雪辱を果たす機会でもある。
彼は翌年7月までに陸奥守と鎮守将軍を兼任し、東北の軍事・行政を一手に担うことになる。

これまで按察使・陸奥守・鏡守将軍の三官を兼任したのは大野東人(おおのあずまひと)と藤原朝猟(あさかり)の2人だけ。
按察使に任ずる際、光仁天皇は駿河麻呂個人に勅を発し、位を授けている。
光仁は、老練な駿河麻呂による蝦夷問題打開を期待し、駿河麻呂も天皇の期待に応えるべく38年戦争を戦い抜き、現地で没している。
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宝亀4年(773)
1月2日
山部親王(37歳、のちの桓武)が立太子。藤原良継(宿奈麻呂)の娘乙牟漏(おとむろ)が東宮妃となる。      
山部の母は高野新笠(たかののにいがさ)、百済系帰化人和乙継(やまとのおとつぐ)の女で、光仁の夫人
(キサキの序列は、妃(ひ)・夫人・嬪(ひん)であり、夫人は高い位ではない)。
聖武天皇の娘井上内親王を母とする他戸親王に比べると見劣りがする。

しかし、山部は、母と同じ百済系の氏族の代表格である百済王一族を取り立て、外祖母を出した土師氏の要望を受け入れて、大枝(のち大江)・秋篠・菅原への改姓を認め、それまでの墓葬に携わる土師氏のイメージを一新し、新興官僚氏族として政界に進出する素地を与えるなど、従来の伝統に囚われない人材登用の道を開くことによって、自らの政権基盤を固めてゆく。

○藤原百川の暗躍
井上・他戸を排斥し山部を立太子させるこの一連の事件を仕組んだのは、藤原式家の百川であったと言われる。
百川は兄の良継とともに、早くから山部親王の才能を見抜いており、良継は娘の乙牟漏(おとむろ)を皇太子時代の山部親王に、百川は娘の旅子を即位して間もない桓武天皇に嫁がせている。

桓武天皇は延暦21年(802)夏、神泉苑で百川の子の緒嗣に和琴を弾かせて涙を流し、「緒嗣の父がいなければ、どうして自分は帝位につくことができたであろうか」と述べて、29歳の緒嗣を参議に抜擢する(『続日本後紀』承和十年(843)七月庚成条の藤原緒嗣伝)。

百川は、光仁天皇即位の際にも、天武系の人物を推す吉備真備らの反対を押し切って白壁王を皇太子に擁立したと伝えられている(『日本紀略』宝亀元年〈770〉八月癸巳条所引百川伝)。
百川は光仁・桓武の擁立に大きな役割を果たした。
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10月
・井上内親王・他戸親王母子は平城京を追われ、大和国字智郡(奈良県五條市)に幽閉される。
宝亀6年4月27日、母子同時に没する。『続日本紀』は死因を記さないが、自殺か暗殺であろう。
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