2011年9月17日土曜日

永禄8年(1565)6月1日~7月31日 京都で十六本山会合が成立 ヴィレラとフロイスを京都から追放 [信長32歳]

永禄8年(1565)
6月
・大友義鎮家臣星野氏等、伊予に侵入。
河野氏は平岡房実・和田通興・戒能通森・土居通建等に防衛させ、一方で忽那通著・来島通康・村上武吉等の水軍の来援もあり、大友勢を撃退。
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京都で十六本山会合の成立
洛中の日蓮宗寺院15ヶ寺(本禅寺・本法寺・妙顕寺・妙蓮寺・本隆寺・立本寺・本国寺・本能寺・妙満寺・頂妙寺・要法寺・妙泉寺・妙伝寺・本満寺・妙覚寺)が、会合或いは諸寺と呼ばれる組織を結成。
のち、寺院の数は16ヶ寺として一定を見るので、この組織は一般に十六本山会合と呼ばれる。
会合は、洛中を舞台に軍事的な衝突をしかねない諸勢力に対して音信や礼銭・礼物といった金品を贈ることで良好な関係を取り結ぼうとする。

天正2年(1574)3月に信長が上杉謙信に贈ったとされる『上杉本洛中洛外図屏風』は、この頃(永禄7、8年)の作といわれ、屏風には多くの日蓮宗(法華宗)寺院、本満寺(「はうまんじ」)、頂妙寺(「ちゃうめうじ」)、妙顕寺(「めうけんじ」)、妙覚寺(「めうかくじ」)、本能寺(「法能寺」)、本国寺(「本國寺」)などが確認できる。この屏風を描いたとされる絵師狩野永徳は妙覚寺の有力な檀徒。

天文5年(1536)7月の天文法華の乱(延暦寺の大衆と近江守護六角連合軍と、法華一揆との闘争)において、法華一揆が敗れたことにより、洛中の法華寺は焼き討ちされ、「およそ三千人はかり」(『厳助往年記』7月27日条)とも、「一万人」(『快元僧都記』8月29日条)ともいわれる戦死者を出し、僧侶たちは和泉国堺に避難を余儀なくされた。
法華寺院以外にも被害が及び、「洛中過半焼亡」(『公卿補任』)、「下京ことごとく放火、上京過半炎上」(『厳助往年記』7月27日条)、「下京大略焼けおわんぬ、上京三分の一ばかり焼く」(『後法成寺関白記』7月27日条)といったように、下京は灰塵、上京も3分の1が失われた。

その後、乱から6年後の天文11年(1542)11月、後奈良天皇の綸旨により早くも帰洛が許されることとなる(乱の2年後には祇園祭の山鉾巡行は復活している)。
本能寺など幾つかの寺院は既に還住の動きをしており、それを追認する意味もあった。
ただ、山門はこれに反発し、今後日蓮宗の寺は叡山末寺として山門の指揮に従うべきと幕府に申告。そのため近江守護六角氏が調停に入り、天文16年にようやく和議が調う。

永禄の頃には、復興成った法華寺院は、かつては京都還住、寺院再建のために一丸となっていたが、本山各門流による勢力伸張のための激しい抗争を繰り広げていた。
本国寺は、永禄6年閏12月、檀越であった松永久秀の要望をいれて、義輝が朝廷に対し、門跡寺院への格上げを奏請するほどに力を回復していた。
この要求は山門との軋轢を憂慮した正親町天皇によって退けられ、かえって天皇の権威が将軍の上位に存在することを明示する形で終わる。しかし、このような本国寺に対する本能寺など諸寺院の反発は激しく、対立は深刻であった。

こうした状況を打開するため本山十五ヶ寺による和睦交渉が進められ、永禄7年8月、以後互いに中傷せず、末寺や信者を取り合わず、一味同心して布教にあたるという、「永禄の規約」が定められた。
この動きは、義輝の意をうけて、松永久秀が規約草案を作ることで進められた。
そして、この年5月の将軍義輝の暗殺後、その政情不安の状況下で、一層の団結を図ろうというのがこの会合成立への動きである。
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・家康(24)、宝飯郡桜井寺に白山先達職を安堵。
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6月13日
・バイヨンヌ、アドゥール河畔。カトリーヌ・ド・メディシス、娘スペイン王妃エリザベートと再会。
スペイン王フェリーペ2世はカトリーヌとの会見拒否(カトリーヌは異端カルヴァン派共犯者、トルコの同盟者)。
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6月18日
・山崎吉家(朝倉義景重臣)、直江実綱(上杉輝虎重臣)に一乗院覚慶(後の足利義昭)が奈良で無事であることを通知。
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6月23日
・三好義継、京都大徳寺大仙院へ寺領を安堵。
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6月24日
・六角宗房(近江箕作城主)、直江実綱(上杉輝虎重臣)へ書簡。
上杉輝虎(謙信)が上洛すれば天下再興は可能で、南方は六角義賢(承禎)らが平定する予定。
越前・若狭・尾張などへは大覚寺門跡義俊が協力を依頼すると通知(「歴代古案」)。
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6月28日
・スペイン、メネンデス・ド・アビレス、国王フェリペ2世よりフロリダ開拓団を編成し、セントジョーンズ河口のフランス人ユグノー教徒開拓地を破壊し、フランス人を一掃して、フロリダ沿岸に数ヶ所の開拓地建設するとの命を受ける
(新大陸からの財宝を積んでフロリダ海峡経由でスペインへ帰航する船団が、ハリケーンや海賊に襲われた時の避難所として使用するため)。
この日、メネンデス・ド・アビレス一行、スペイン・カディスを出港。
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6月30日
・カトリーヌ・ド・メディシス、シャルル9世、ギーズ大元帥、スペイン王フェリペ2世使者アルバ公3世フェルナンド・アルバレス(55)とバイヨンヌで会見。
新教徒の撲滅について議論。
改革派の不信・不安が再燃。闘争再開される。
アルバ公フェルディナンド、カトリーヌの結婚の提案(フェリーペ2世息子とマルグリット、フェリーペ2世娘とアンジュー公アンリ)をフランスの宗教問題の解決が先決と拒否。
カトリーヌに、1ヶ月以内にフランスから新教の牧師を追放、異端の疑いのある役人を即刻罷免、を要求。
カトリーヌは、これを拒否。
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7月
・美濃方の加治田城(加茂郡富加町)の佐藤忠能親子、丹羽長秀を通じて信長へ内々に忠節を申し入れ。美濃国内に内通者を切望していた信長は黄金50枚を与える。
永禄6年(1563)、関城長井道利を盟主として、堂洞城岸信周・加治田城佐藤忠能は反信長盟約を結ぶ。
岸信周は佐藤忠能の内通を怒り、盟約人質として堂洞城にいる「八重緑」姫を加治田城からよく見える長尾丸山で刺殺。
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・信長、降伏勧告使者として金森長近を堂洞城へ派遣。城主岸信周は拒絶。長近は鵜沼城に帰還。  
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・信長の標的は犬山の対岸、宇留摩城大沢次郎左衛門と猿喰城多治見修理。
信長、両城から10~15町の両城を見下せる伊木山(木曽川北岸、現各務原市内)に要害を築く。
織田勢の滞陣・圧迫に耐えかね宇留摩城は降伏。
丹羽長秀勢が猿喰城に隣接した高所を占拠、水の手を断たたれ猿喰城は開城。(「信長公記」)
猿喰城はコチラ
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7月5日
・将軍義輝を滅ぼした三好義継・松永久秀、法華宗僧徒らの圧迫により、内裏より宣教師を京から追放せよとの允許を出させ、その旨を町中に布告。
宣教師ガスパル・ヴィレラとルイス・フロイスを京都から追放


義輝は永録3年ビレラの京都居住を認めるが、義輝暗殺後、法華宗徒竹内三位季治・秀勝兄弟はバテレン殺害を天皇に進言。
三好・松永は同意するが、天皇派は追放にのみ同意。
ヴィレラとフロイスは、追放令による派遣兵が到着する前に、小西立佐らに護衛され京都を去り、堺に移り5年間を過ごす。
京の教会は法華宗の僧侶達の手に落ちる。
フロイスは、堺に居住する三好三人衆へ京都復帰を懇願。三好政康・岩成友通は拒否。
三好長逸の家臣篠原長房のみはバテレンに好意を寄せ、公家経由で禁裏への取成しを依頼するが、これも拒否。
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7月18日
・山科言継、堀川近江守から踊り歌を頼まれ、かの者の家に出向くと、町衆5~6人が踊りの稽古をしており、言継は「拍子以下」の振り付けをしてやる。
今夜の風流踊の準備に来ているとの事であった(「言継卿記」同日条)。
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7月23日
・島井宗叱、大友宗麟に相伝の印篭を贈る。
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7月28日
・一乗院覚慶(足利義輝弟、後の義昭)、細川藤孝・朝倉義景により興福寺一乗院を脱出
29日、和田惟政(近江国甲賀郡和田)の館に入る。  
細川藤孝が病気の覚慶に医術の心得ある米田求政を赴かせ、頃合をみて番人に酒を飲ませ、油断した隙に、覚慶を背負って塀を乗越える。
春日山に待機している藤孝と合流。義輝の元奉公衆で甲賀の土豪和田惟政の案内で和田館に入る。
大覚寺義俊(近衛稙家弟、義輝・覚慶の母方伯父)や義輝奉公衆一色藤長も積極的に支援。
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7月29日
・竹中重虎(後の竹中重治)、美濃敬念寺へ「禁制」を下す(「敬念寺文書」)。  
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7月29日
・スコットランド女王メアリー・スチュワート(22)、ホリルード宮殿チャペルでダーンリー卿ヘンリー・スチュワートと2度目の結婚。法王の特免状を受けず。
ダーンリー卿:
メアリーと同じくヘンリー8世姉マーガレット(ヘンリー7世娘)の孫、メアリーより2歳年下の従弟。
マーガレットは父ヘンリ7世の外交政略の道具としてスコットランド王ジェイムズ4世に嫁ぎ、国王ジェイムズ5世(メアリー父)を産み、夫ジェイムズ4世戦死後は有力貴族アンガス伯と再婚、ここで産んだ娘(メアリー父の異父妹)子。
ダーンリー卿はメアリーと共通のイングランド王家出身の祖母マーガレットを通じ、メアリーに次ぐイングランド王位継承権を有す。
ダーンリ卿と父レノックス伯は実力者アラン伯との政争に敗れ、20年間イングランドに亡命、この年(1565年)初めに許されて帰国。
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「★信長インデックス」をご参照ください。
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