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延暦8年(789)
この年
・この頃、都城の内外に住む農民のなかに、賤(奴婢・家人)の名にかくれて課役を逃れようとするものがあった。古代の身分制を破って、良と賤の間に事実上の通婚が行われていた。
この年、桓武の政府は、良民人口を増やすためその間に生まれた子供全てを良民として戸籍に登録。
また、諸司に隷属する品部(ともべ=何らかの手工業を世襲している大化前代の部の残存形態)のなかにも逃亡する者が増え政府をてこずらせる。
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2月
・長岡宮の内裏が、「西宮」から「東宮」(第2次内裏)に移転。
この場所は大極殿・朝堂院より数m低い位置にあり、雨水が直接流れ込んでいた可能性も指摘されている。
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3月9日
・征夷軍、多賀城を発し、道を分け賊地めざして進軍。
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3月10日
・桓武天皇、奉幣使を伊勢神宮に派遣して、征夷の成功を祈願。
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3月28日
・北上川東岸に集結した阿弖流為(アテルイ)らを攻撃するための軍勢は衣川(北上川の支流、平泉丘陵の北を東に流れる川)を渡河し、同川北岸に営三処(衣川営)を置く。
紀古佐美は、朝廷に4月6日付けの奏状でこれを報告(『続日本紀』延暦八年五月癸丑(十二日))。
なぜ衣川に軍営を置いたか
4月6日付け奏状の続きとみられる一文が、桓武天皇の6月3日付けの勅に引用されている。
それによれば、「胆沢の賊は、すべて河(北上川)の東に集結しています。まずこの地を征して、後に深く攻め入ろうと考えております」という。
つまり蝦夷軍の主力が北上川(当時は日高見川と呼んだ)の東に結集しているため、北上川の西にあたる衣川に軍営を置き、北上川を渡って蝦夷を攻撃する作戦である。
征夷軍は前軍・中軍・後軍の3軍に分かれ、3ヶ所に置かれた軍営は、三軍に対応するものと考えられる。
征東副使佐伯葛城は、進軍開始ののち突然没す。
路線対立による政争の犠牲かもしれない。
葛城は副使4人の中でも軍兵を指揮・統率する能力を特に強く期待されていたと思われ、大使紀古佐美の作戦にも大きな影響を与えたと思われる。
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5月12日
・4月6日付け奏状を見た桓武天皇は、直ちに作戦が実施されるものと期待したが、一向に報告が来ないので、この日、征東将軍に勅を発す。
「それ以来、三〇日余りも経っているのに、なぜ逗留して進軍しないのか、その道理がわからない。
そもそも兵というものは、拙速を貴ぶものであり、巧遅が良いとは聞いたことがない。
また六・七月は、非常に暑くなるであろう。
今蝦夷の地に入らなければ、おそらくは時機を失うであろう。
一旦、時機を失えば、後悔しても及ぶことがあるだろうか。
将軍らは機に応じて進退し、非難されることがないようにせよ。
ただ久しく一カ所に留まって日数を重ね、軍粮を費やしている。
朕が怪しむところは、この点のみである。
滞っている理由と賊軍の様子を詳しく記し、駅使に付けて奏上せよ。」
と要求(『続日本紀』延暦八年五月癸丑条)。
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5月15日
・この日付け官符では、未進があれば、懲罰として専当国司と在国の国司との全ての公廨(くがい、公廨稲と呼ばれる本稲を出挙して得られた利稲を国衙財政の補填に充て、残りを国司の地位に応じて配分するもの。国司の得分、一種の給与)を奪うこととされる(『延暦交替式』)。
しかし、これは処罰としては厳しすぎ、処罰と補填の混同という問題が残る。
さらに、延暦14年(795)7月27日の官符では、未進の場合の補填問題に関しては、国司の史生(ししよう)以上が、公廨の配分比率をそのまま補填義務の比率として填納することとする(『延暦交替式』)。
史生は国司四等官の下にいるが、四等官と同様に中央から赴任し、公廨の分配にも与かるので、奈良時代から国司並みに扱われている。
この命令は、国司全員に補填の責任を負わせ、守(かみ)以下がランクに応じて公廨の取り分を割いて未進分に充てよ、とするもの。
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5月26日
・桓武天皇、詔を発し、死亡した征東副将軍佐伯葛城に正五位下を贈る。
12日に発した桓武の叱責の勅は19日頃には古佐美の許に届いたとみられ、これに対して古佐美が書いた釈明文に征乗副将軍佐伯葛城の死に関する報告を含まれていたようだ。
この頃、陸奥国と長岡京との駅使による通信には7日程度を要している。
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5月下旬~末頃
巣伏の戦いで征東軍が大敗。
・19日頃、軍の長期滞留を叱責する勅が紀古佐美の許に届く。
厳しく責められた古佐美は、衣川営で逗留していた軍に進軍命令を出す。
以下、古佐美の奏状による経緯。
征東副使入間広成、左中軍別将池田真枚、前軍別将安倍猿嶋墨縄の3名が協議し、作戦を策定、前・中・後3軍連携して挟撃作戦で阿弖流為らを胆沢の地に攻めことにする。
征東将軍紀古佐美は衣川におらず、副将軍の入間広成と鎮守副将軍の池田真枚・安倍猿嶋墨縄が中心になって実戦を立案。
古佐美は国府多賀城か、衣川への補給基地である玉造塞にいた。
古佐美の秦状は、おそらく征東副将軍入間広成からの報告を受けて作成されたものである。
しかし作戦を立案した3人も、実戦には参加せず、後に桓武天皇の怒りをかう。
鎮守副将軍の池田真枚と安倍猿嶋墨縄は、奏状では左中軍別将・前軍別将と呼ばれている。
合戦は、5月下旬~末頃。
①中軍・後軍各2千からなる計4千が、衣川営を出て北上川本流を東に渡河し、東岸を北に進軍、阿弖流為らの集結する敵軍の拠点に向かった。
②阿弖流為の居地近くで蝦夷軍300程と合戦。
蝦夷軍は北へ退却(誘導作戦か)、官軍は途上で蝦夷の村々を焼き払いながら北上し、前軍と合流する予定の巣伏村をめざした。
③北上川西岸を北に進軍する前軍(兵数不詳、中・後軍同様2千人か)は、前方に出現した強大な蝦夷軍に阻まれ、北上川を東に渡河し中・後軍と合流することができずにいた。
④ここで、突然中・後軍の前方に蝦夷軍800程が出現し官軍を襲い、さらに東の山上に潜んでいた蝦夷軍400程が横・後方から急襲、官軍は退路を断たれた。
⑤中・後軍は川と山に挟まれた狭い場所に追い詰められて総崩れを起こし、官軍側は戦闘死(25)・溺死(1,036)合わせて1,061、裸で泳いで来たもの1,257という悲惨な敗戦を喫した。
焼いた賊の集落は14ヶ村・800戸。
なお戦地を脱した敗残兵は、別将出雲諸上・道嶋御楯らに率いられて帰還した。
胆沢の蝦夷の族長として有名な阿弖流為が史上に登場するのは、これが初めて。
彼は北上川を渡った中軍と後軍を巧みに巣伏村(岩手県奥州市江刺区愛宕の四丑が推定地)までおびき寄せ、北上川東岸の狭隘な地形を利用して、南北に挟み撃ちにした。
東は山、西は大河である。征夷軍は行き場を失い、次々と北上川に飛び込んで退却せざるを得なかった。
その結果、戦死者25人、負傷者245人、溺死者1,036人という敗戦となる。
中軍・後軍合わせて4千人の征夷軍に比べて、蝦夷軍は1,500人。惨敗である。
胆沢の蝦夷の本拠地が北上川東岸にあると見せかけ、戦場を東岸に設定したのも、阿弖流為ら蝦夷側の陽動作戦であったと考えられる。
衣川~江刺の北上盆地は、北上川が盆地の東端を流れ、東岸には北上山地が、西岸には広大な胆沢扇状地が広がっている。
西岸の胆沢扇状地には蝦夷の集落が大・小の遺跡として分布しており、一般集落と農業生産地帯であったとみられるが、北上山地には集落遺跡は発見されていない。
もし胆沢扇状地が戦場となれば、兵力が多く集団戦に長けた征夷軍に勝てる見込みはなく、仮に互角に戦えても、多くの集落と耕地を失う。
そこで蝦夷側は、軍勢を北上川東岸に移し、そこに征夷軍をおびき寄せ、地形を利用したゲリラ戦術で対抗した。
この作戦は、蝦夷軍の主力が北上川の東にあるように見せかけるという情報操作から始まっており、見事な陽動作戦と言える。
紀古佐美は、阿弖流為らの猛攻の前に敗戦を喫したいわゆる巣伏村の合戦について朝廷に報じた奏状を送る(6月3日の7日前くらい)
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737年多賀柵は賀美郡にあり、後年、多賀城となった。780年呰麻呂の乱で伊治城から多賀城へ国司等が緊急避難したことからも多賀城は伊治城の近くにあったことは明らかです。現在、多賀城跡とされる場所は江戸時代に仙台伊達藩学者が多賀城碑出土を根拠に多賀城跡と強弁したものです。本当の多賀城は現在多賀城跡とするところから50Km程、北方にあり当時に一日の行程は40Km程度なので伊治(栗原郡)から緊急避難的に避難できません。
返信削除多賀城碑が名取郡近くから出土するはずがないのです。碑文の内容も続日本紀と全く符合しませんね。捏造された贋物に間違いないでしょう。呰麻呂の乱で刈田郡以北は逆賊に占拠され賊地に帰してしまったのです。
延暦七年三月三日 [続記・紀略] 788年
下レ勅、謂二発東海、東山、坂東諸国歩騎五万二千八百余人一、
限二来月三月一、会二於陸奥国多賀城一、其点レ兵者、先尽二前般入レ軍経レ戦叙レ勲者、
及常陸国神賤一、然後簡下点余人堪二弓馬一者上、仍勅、
此年国司等無レ心二奉公一、毎事闕怠、屢沮二成謀一、苟曰二司存一、豈応レ如レ此、
若有二更然一、必以レ乏二軍興一従レ事矣
国司等にこの計画を成功させるため予め多賀城へ兵糧等を運び込むよう命じていましたが、国司等は刈田郡以北へ入る事ができませんでした。刈田郡以北は逆賊が占拠してしまったのです。
征討軍でさえ刈田郡以北へ入れず、刈田郡、伊具郡に挟まれた阿武隈川峡谷で敗北したのです。
陸奥国府は現在の信夫郡にあったのです。