2011年11月22日火曜日

永禄11年(1568)1月~3月 信長、北伊勢平定 武田信玄・家康密約(今川領国分割占領) [信長35歳]

東京 江戸城東御苑(2011-11-16)
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永禄11年(1568)
この年
信長35歳、光秀41歳、秀吉33歳、家康27歳
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・顕誓(蓮如の孫、証如時代の本願寺の姿勢に批判的)「反古裏書」。
1525(大永5)年の実如没後、天文~永禄年中、寺内町の設立・破却が行われ、領主権力との対立点になっていること、美濃・北方(近江)・南方(摂・河・泉)で寺内破却が行われていると述べる。
天文6年の美濃の福勝寺を中心とする多芸郡十日講門徒の蜂起と守護土岐氏の弾圧、永禄6年の三河一向一揆の敗退、天文の乱における細川晴元や六角定頼との摂・河・泉や近江門徒の抗争・寺内破却などの事を指す。
天文~永禄期の一向一揆は、この寺内町の問題が一つの焦点と考えられ、このような動向のなかで、寺内町に結集する門徒を中心とする商人・手工業者は、団結を強め、粘り強い抵抗と柔軟な対応と、本願寺の政治力を最大限に利用しながら着実に、寺内特権を獲得・伸張させてゆく。  

「突如御円寂の後、又在々所々の新坊、坊主衆にいたるまで、寺内と号して人数をあつめ、地頭領主を軽蔑し、限りある所役をつとめざる風情、定て他家の謗難あるべきものをや、すでに濃州所々の寺内破却せられ、南方にも北方にもその類あまたきこゆ、」。
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・ユグノーの残虐行為(カトリック側も復讐)。
①アングレームを襲い、聖職者・女子供を虐殺。
②アングレームの虐殺を見たポンス、兵士の命の保証を条件にユグノーに降伏。ユグノー、ポンスの町の兵士を虐殺。
③オーリャックで、行政官を拷問・縛り首。
④ラ・ロシェルの私掠船団、宣教師69名を乗せてブラジルに向かうポルトガル船7隻を拿捕、宣教師全員溺死させる。
⑤ユグノー大将ラ・ヌーの言葉
(我々は第一の戦いを天使のように戦い、第二は人間として、第三は悪魔のように戦った)。
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・カトリックのドミニク・ド・グールギュ率いるフランス軍、スペインの砦を攻撃。
1564年スペイン軍によるフォール・カロリーヌの虐殺の報復としてスペイン人数百人虐殺。
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・フランス、ミシェル・ロピタル、「1567年における内乱の和平について」。
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1月
・三好義継、河内出口で三人衆と交戦、撃破。津田城占領。
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・徳川家康(27)、従五位下左京太夫に叙任。
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2月
・毛利元就・輝元、周防松崎社領三田尻を安堵。
この月、伊予の河野通直と宇都宮豊綱が争う、元就、通直を支援。
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・武田信玄、義信の館を破却。
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2月上旬
信長、北伊勢平定
信長4万、伊勢に侵入。
殆ど戦うことなく北伊勢8郡手中に。
滝川一益勢州総奉行(蟹江)、木下藤吉郎(桑名)。
3男織田三七郎信孝を豪族神戸具盛の嗣子とし、弟織田信包に長野次郎具藤(北畠具教の次男、長野氏の名跡を継ぐ)の跡を継がせる

北伊勢は長野(長野工藤)氏・神戸氏・関氏ら有力国人と地侍が割拠(既に員弁・桑名2郡は信長に服属)。
信長侵攻の前から滝川一益による内部工作は進む。
長野城・神戸城は簡単に和睦に応じる。
神戸氏支城高岡城・長野氏支城安濃城で多少の戦闘があるだけ。
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2月8日
・朝廷、公卿山科言継を摂津国高槻・普門寺へ派遣、阿波三好氏に養育されていた阿波公方足利義栄(よしひで)に将軍宣下、第14代将軍となる。
松永久秀ら迎える。
この時点で、三好三人衆・松永久秀の関係は悪化。
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2月11日
・フランス、ラ・ロシェル、ユグノーに城門を開く。  
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2月16日
武田信玄・家康密約(今川領国分割占領)
この日付で、信玄が家康に今川領国分割占領の提案と今後の昵懇を求める。
今川領土駿河・遠江を大井川を境として分割。信玄要望で信長纏める。
12月、信玄、駿河に侵入。    
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2月16日
・アルバ公、全ネーデルラント住民を「異端」として「死刑に処する」と布告。
アルバ公在任中の6年間(1567~1573)で1万8千を殺害。
ネーデルラント中の市当局よりアルバ公に憐れみを乞う陳情が殺到。
アルバ公、「異端のために陳情する」という行為を許さず。
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2月20日
・三好三人衆側と十市遠勝の軍勢、秋山氏の森屋城で交戦。三好三人衆側が森屋城を奪取。
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2月26日
・堺、津田宗及、三好三人衆ら150人を自宅に招く。
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3月
・武田信玄、北信濃に出兵。
上杉輝虎重臣本庄繁長、内応、反乱挙兵、居城村上本城、輝虎軍に包囲される。
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・フランス、ギーズ一門の強硬政策で王家一門を維持するカトリーヌ・ド・メディチによって、宰相ミシェル・ロピタルは無用の邪魔者となる。
3月~5月、辞任強制。正式辞表は1573/2/1付。  
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3月8日
・朝倉義景の母、二位の尼に任ぜられる。祝宴は終日終夜に及ぶ遊宴。
3月下旬南陽寺に義秋を招いて終日遊宴や歌の会。

この日、朝倉義景、自邸に足利義昭を招き、お抱え越前猿楽の一若大夫が演能(「朝倉始末記」)。
朝倉氏は越前猿楽の保護者で、越前国内の猿楽を京都に派遣して学ばせることを奨励。
朝倉氏の代で越前猿楽は一層中央の猿楽との交流を深める。
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3月11日
・十市遠勝、三好山城守・篠原弾正と誓紙を交わす。
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3月16日
・長尾輝虎(39、上杉謙信)、守山城(富山県高岡市東海老坂)攻撃開始。
鳥坂城主中条藤資から「本庄繁長謀反」の報をうけ攻撃中止。
25日、春日山城に帰還。
(畠山義綱の能登復帰のため、神保長職・上杉謙信出兵するも、越後で本庄繁長が謀叛したため、謙信帰国。畠山義綱(重臣のクーデタで能登を追放されていた)の能登奪回失敗)
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3月21日
・三好備中守・遊佐安芸守・大嶋助兵衛・加地六郎兵衛ら高屋衆など1500、大和国興福寺西陣「番替」として到着。
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3月23日
フランス、ロンジュモーの和議・第2次ユグノー戦争(宗教戦争)終結
新旧両派が和約。アンボワーズ王令<新教徒の礼拝の自由>復活。
謀反は不問(ユグノー要塞は全て保持)。
フランス国王はユグノーが雇ったドイツ騎兵・ドイツの大公への給与を支払う。
ユグノーはフランス王の軍隊と王冠を保持を承認。


続く何ヶ月もの間、うまく騙されたことに怒った旧教徒派が、様々な都市でユグノーを殺戮。
ユグノーもカトリックを殺戮。


カトリーヌ・ド・メディシス(49)、「タカ派」となる
(首尾一貫性のなさが危険、有効でないと認識、政治の基本路線とカトリーヌの行動の一致を決意)。
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