2011年11月16日水曜日

大同3年(808) 公出挙徹底の命令 「およそ正税を出挙するには、国内の課丁を総計し、その貧富を量り、百束以下十束以上を出挙せよ。差に依りて普く挙し、偏多すべからず。」

東京 江戸城東御苑のジュウガツザクラ(2011-11-08)
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大同3年(808) 
5月
・桓武朝での徳政相論で征夷中止を主張した藤原緒嗣が、東山道観察使兼陸奥出羽按察使に任命される。彼は再三辞退を申し出るが、平城天皇は許さぜ、結局翌年3月に赴任。
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7
・畿内の班田を6年に一度に復す。
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・鎮守将軍兼陸奥介の百済王教俊、鎮所(胆沢城か)に赴任せず、常に国府(多賀城)にいるとの理由で天皇の譴責を受ける(『日本後紀』大同3年7月甲申条)。
胆沢城・志波城に鎮兵を配備するため、胆沢城の造営とともに鎮守将軍は陸奥守の兼任から陸奥介の兼任に改められ、胆沢城に派遣されたとみられるが、陸奥国司が鎮守府官人を兼任する従来の体制では、征夷によって拡大した支配領域に対応できなくなっていた。
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7月16日
・鎮守府官人の任期を国司と同じ6年と定め、両者の兼任を解消する方針が示される(同年7月丙申条)。
これは既存の官制の枠組みを活かしつつ、官人数の増大を図ったもので、これ以後の鎮守府は、胆沢城を主な拠点として陸奥北部を支配する統治機関に変化する
武官である鎮守府が地域支配を行うのは異例であるが、それは胆沢・志波の軍事的緊張が征夷終焉以後も高かったからである。

この年5月に陸奥出羽按察使に任命された藤原緒嗣も、陸奥守を兼任しておらず、按察使は分離した国府と鎮守府を上から統括する官として位置づけられた。
緒嗣は陸奥国の財政や官人の待遇などについて8件の申請を行い、征夷終焉に向けた体制の整備を行っている。
緒嗣に続いて陸奥出羽按察使になったのは、弘仁2年の征夷を主導した文室綿麻呂。
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9月26日
公出挙を成人男子全員に貸し付けるよう徹底するよう命じる

「およそ正税(しようぜい)を出挙するには、国内の課丁(かてい、成人男子)を総計し、その貧富を量(はか)り、百束以下十束以上を出挙せよ。差(さ)に依りて普(あまね)く挙し、偏多(へんた)すべからず。」(『類聚三代格』巻14大同3年9月26日官符)

量は一応考慮するが、成人男子全員に貸し付けられることになる(強制的官営高利貸し)。

ここでの官は、名目上は国衙を指すが、実際に公出挙を運営していたのは郡司たちをはじめとして、国衙の支配体制に組み込まれ、あるいは寄生していた、地域の有力者である。

公出挙は、春・夏(2・3月と5月)に人々に稲を貸し出し(貸し出した稲を本稲(ほんとう)という)、秋に利息(利稲(りとう))を付けて返還させる制度。
利率は、天平年間のように死亡者の借りた分は返還免除になっていた時期には5割であったが、平安時代初期以降は3割、死亡者返還免除無しで固定された。

ところが、この方法で各国の経常費を捻出した上、中央政府の必要とするものの買い上げ費用にもあてなくてはならなくなってきた。
しかも天平17年(745)には、あらたに公廨稲(くかいとう)という本稲を設定し、公出挙の運営が国司の収入に直結する仕組みが出来上がってしまう。
こうしてやがて、支給する側の必要・欲求に応じて貸し付けるようになってしまう。    

・この時点では、課丁(戸籍に登録された成人男子)ごとに負担させていたものが、しだいに反別3束(『類聚国史』巻83、弘仁12年(822)12月甲寅条)というように、耕作している田の面積に応じて負担させるようになっていく。
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1 件のコメント:

  1. 大同五年五月十一日の太政官符に
    陸奥国、元来国司鎮官等各 公廨 以 差 作
    (漢文なのでㇾ点や一・二点を省略してその順序にしたがった文字列として表記)
    つまり陸奥国では元来、国司、鎮官等はそれぞれ離れた場所に公廨を作った。と云う意味と思われる。
    また、刈田以北郡の稲を軍粮に分け与える。信夫以南の遠い郡の稲を公廨に給す。
    その行程を国府から計ると、陸奥南端の遠い郡からの距離は二三百里(当時の一里はおよそ五百メートルなので百~百五十キロメートル)
    なので、信夫郡、現在の福島市に相当する所に陸奥国府が存在したと言える。
    事実、平安、鎌倉、南北朝、室町時代の記述に符合する。

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