2011年11月21日月曜日

川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(7) 「六 下町のうっとうしさ」

東京 北の丸公園(2011-11-18)
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川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(7) 
「六 下町のうっとうしさ」

大正8年9月23日
芝白金三光町の日限地蔵尊の境内に、頃合いの売家があると聞いて見に行く。
山の手へ戻ろうとしたのは、下町の住環境があまりに隣家と接しすぎ、プライバシーが保てなかったからである。
「現在の寓居はもとより一時の假越しなれば、此の頃はほとほと四鄰の湫隘なるに堪へやらぬ心地す」
下町の長屋共同体の濃密な住空間がうっとうしくなってきたのである。
若い芸者たちが、荷風の家に集まってきてにぎやかにお喋りするのも、はじめのうちは面白かっただろうが、次第に、山の手の子には、彼女たちが時をわきまえずに家に上がりこんでくるのがうっとうしくなってきた。

随筆「隠居のこゞと」(大正11)。
「曾て山の手の家を住みにくしと悪み、川添の下町住ひを風雅となしたるは、軍人と女学生とを毛蟲の如くに嫌ひしためなりしが、いざ下町に来て住めば、隣近所の蓄音機騒しく、コレラとチブスの流行には隣家と壁一重の起き臥し不気味にて、且は近年町内に軍人まがひの青年団といふもの出来て、事ある毎に日の丸の旗出せといふが煩しく、再び山の手の蜩鳴く木立なつかしく思返されて引移りしは、まことに天の佑なりけり」

荷風は、下町を見ることが好きだったので、決してそのなかに住むことが好きなのではなかった。
荷風はあくまでも下町を通り過ぎて行く旅人でしかなかった。
観察者でしかなかった
実際に下町に住んでみて、荷風は自分が結局は、山の手の子でしかないこと、「見る人」でしかないことを痛感する。」(川本)

「濹東綺譚」の「わたくし」が「お雪」の家にはじめて行ったとき、お茶を飲む前に「この邊は井戸か水道か」と聞く。
なぜなら「わたくしは花柳病よりも寧チブスのやうな侍染病を恐れてゐる」から。
「お雪」は幸いに、水道と答えるが、もし井戸の水だったら「わたくし」は、茶を飲む振りをするつもりだった。

「あれだけ職業的な女と肉体的な交渉を持った荷風が、本質的には他者との生ま生ましい「接触」を嫌う、過度に潔癖な山の手の子だった。
女との交渉も、相手が職業的な女であればあるほど、生ま身の女との「接触」というよりも、定型化され、記号化された女への「通過」だった。
荷風は女と「接触」したというより、女を「通過」した。
下町に対して「見る人」だったと同じように、女に対しても、荷風は「見る人」だった。」(川本)

中村眞一郎「荷風の生涯と芸術」。
「荷風は東京人である」、しかも「荷風には山ノ手的な色彩が極めて濃厚である」と指摘。

荷風のパラドックスである。
山の手の子でありながら、文明開化の底の浅さに反発すると、その代償価値として江戸的なるものを求めて下町に移り住む。
近代に反発して、江戸に戻ろうとする。
そうでありながら、実際に下町に住んでみると「近代人」としての素顔があらわになる。
下町にはプライバシーがない(いうまでもなく「プライバシー」は近代の概念である)、下町は「長屋」であって「都市」ではないと、再び山の手に戻ろうとする。」(川本)

随筆「深川の唄」(明治42年)
最後の有名なくだり。
下町への断念、自己の二重性を語る
(自分はいつまでも深川にいたい)あゝ然し、自分は遂に帰らねばなるまい。

それが自分の運命だ、河を隔て堀割を越え坂を上って遠く行く、大久保の森のかげ、自分の書斎の机にはワグナアの画像の下にニイチヱの詩ザラツストラの一巻が開かれたまゝに自分を待ってゐる・・・」

野口富士男は『わが荷風』。
「深川の唄」の最後を引用して、
「《われは明治の児ならずや》とうたった荷風は、同時に山の手の児であった。
深川も、玉の井も、浅草も、彼にとってはパリと同様、ある意味では異国であった。
異国ゆえの愛であった。
彼がそのことに気づかぬはずはなかったのに、それでもなお愛してやまなかった」

「近代西洋と明治日本、江戸と文明開化。
近代日本の多くの知識人を悩ませたこの対立項は荷風をもまた鋭く悩ませた。
そして、荷風の場合、「西洋と日本」の対立項は「山の手と下町」という形をとって、よりリアルなものと意識された。
「東京人」荷風の文学は、すべてこの「西洋と日本」、その私的バリエーションである「山の手と下町」の衝突とその止揚への希求によって生まれている。」(川本)

成瀬正勝『森鴎外覚書』。
鴎外を数少ない師として終生敬愛し続けた荷風について触れ、荷風論における文学論上の重要とは、「荷風における欧州的なものと日本的なものとの交流に関することである」と書いている。
約50年前のこの成瀬正勝の指摘はいまもなお切実なものとして残っている。

「荷風における欧州的なものと日本的なものとの交流」とは、
「山の手と下町の衝突と、その止揚への希求」の問題であり、
平たくいえば〝山の手の人間が、いかにして下町を愛することが出来るか″
あるいは〝下町を愛しようとした山の手の人間が、いかにしてそのことの困難を知るか″、
あるいはまた、〝作家は、ついに見る人、旅人から、脱することが出来るのか〞と。

「日乗」大正8年8月6日
築地住まいを始めたが、夏の暑いさかり、下町のごみごみとした雰囲気に堪えられなくなり、静かな場所を求めて、日比谷公園の木蔭に読書に出かける。
「丸の内に用事あり。途次日比谷公園の樹陰に憩ふ」

大正8年10月11日
「晡時また家を出で、日比谷公園を歩み、樹下の榻に憩ひミルポオが短篇小説集ビープドシードルを読む」

「曇天」(明治42年)では、「晴れた日の、日比谷公園に行くなかれ。雨の降る日に泥濘の本所を散歩しやう」と、「日比谷公園」より「泥濘の本所」をよしとしたのだけれど・・・。

大正8年10月29日
「大掃除なり。塵埃を日比谷図書館に避く。山茶花既に散り、八手漸く花をつくるを見る。大久保旧宅の庭園を思出して愁然たり」

塵埃を逃れ本を読みに行く。
「孤立した知識人」荷風。

騒音を避ける。人間関係のわずらわしさを避ける。
社会との濃密な接触を避ける。
「避く」ことは荷風の行動の基本である。」(川本)

大正8年7月20日
「暑さきびしくなりぬ。屋根上の物干台に出で涼を取る。一目に見下す路地裏のむさくろしさ、いつもながら日本人の生活、何等の秩序もなく懶惰不潔なることを知らしむ。・・・市民の生活は依然として何のしだらもなく唯醜陋なるに過ぎず個人の覚醒せざる事は封建時代のむかしと異るところなきが如し」

こういう下町批判が、「東京の夏は路地裏に在りても涼味此の如し。避暑地の旗館に往きて金つかふ人の気が知れぬなり」(大正8年8月11日)という下町讃歌と同居している。
下町に住み続けるか、あるいは山の手へ戻るか、この時期、迷っていたのだろう。

三味線にも興味を失なう。

大正8年9月21日
「俄国亡命の歌劇団、この日午後トスカを演奏す。余帰朝以来十年、一度も西洋音楽を聴く機会なかりしが、今回図らずオペラを聴き得てより、再び三味線を手にする興も全く消失せたり。此日晩間有楽座に清元会あるを知りしが往かず」

大正8年の7月24日
「風ありて暑気稍忍びやすし。陋屋曝書の餘地なければ屋上の物干台に曝す」

大正8年9月23日
芝白金三光町に売家を見に行く、9月29日に生地小石川金富町の売地を、11月1日には赤坂氷川町の売家を見に行く白金三光町、小石川金富町、赤坂氷川町。
山の手の高台の町である。

そして11月8日
そのあと20有余年を過ごすことになる麻布市兵衛町の貸地を見に行く。
「麻布市兵衛町に貸地ありと聞き赴き見る。
帰途我善坊に出づ。
此のあたりの地勢高低常なく、岨崖の眺望恰も初冬の暮靄に包まれ意外なる佳景を示したり。
西の久保八幡祠前に出でし時満月の昇るを見る」
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