2011年11月27日日曜日

詩人金子光晴の関東大震災 金子光晴「詩人 金子光晴自伝」より

東京 北の丸公園(2011-11-25)
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詩人金子光晴の『詩人 金子光晴自伝』(講談社文芸文庫)にある関東大震災に関する記述

詩人による震災の惨禍の描写、避難者を導いた(らしき)行動ぶり、朝鮮人・社会主義者への弾圧・加害、震災により崩れ行く(江戸から続く)明治日本の様子、詩人の受けたダメージ、などがわかる。

1.震災までの金子光晴略伝

明治28年(1895)12月25日、愛知県に生まれる。本人は海部郡津島町を故郷としている。
明治30年、2歳で金子荘太郎(29)・須美(16)の養子となる。
 義父の転勤に伴い、京都~東京へ移る。
明治40年(1907)6月、12歳の時に義父が牛込区新小川町に土地屋敷を購入。
大正4年(1915)2月(20歳)、前年入学していた早稲田大学を退学。
4月、東京美術大学日本画科に合格。但し、殆ど通学せず除名。
9月、慶応義塾大学文学部予科1年に入学。
大正5年10月、義父(48)が没し、遺産を義母と折半。
大正6年、22歳、新小川町から赤城元町の借家に移る。
大正7年12月、義父と親交のあった古美術商とヨーロッパ旅行。
ロンドン~ブラッセル~パリ~ロンドンに滞在
大正10年1月末、26歳、帰国。
大正12年7月、28歳、詩集『こがね蟲』出版。

2.『詩人 金子光晴』の記述
(適宜段落を施す)

『こがね蟲』の出たのは、大正十二年の初夏のことだった。僕が二十八歳の時だ。

その頃僕は、赤城元町の家の二階の八畳を他人に貸して、玄関わきの女中部屋の三畳にうつっていた。・・・三畳とは言っても、裾の方の一畳は、釣戸棚で、そこに夜具を入れるようになっているので、戸棚の下へ足をのばせるが、立って歩ける面積は二畳だった。僕は、殆ど、そこに夜具をしきっぱなしにしていた。「自動車部屋」という名がついていたが、そこには、さまざまな人がのぞきにきた。・・・

・・・・・・

その年の九月一日に、関東一円にわたる大地震があった。

正午頃、僕がまだ三畳の自動車部屋に寝ている時に揺れ出した。・・・
揺れ出して、そのうち終ると思っていた地震が、ますますはげしくなり、はては、台所の引窓から屋根瓦が落ちてきた。
神社の石垣の崖下にある家なので、危険を感じた僕は、座蒲団を頭にかぶり、瓦の落ちてくるのを防ぎながら通りに出た。

当時はもう新小川町の情夫の方へいきっきりになっていた義母をたずねてみるつもりで、神社の前を通ると、鳥居がいまにも倒れそうゆらゆらしていた。

大地は飴のようにうねりつづける。
僕が通りすぎるとすぐ、うしろで、がらがらと石塀が崩れる。

新小川町に辿りつくと、近辺の小家は大方勤め人で、主人が不在で女や年寄が途方にくれている。
川田家の板塀をひきはがし、庭の空地に二百人ばかりの老幼婦女子を避難させた。
無断闖入というので、川田から文句がきて、早速、邸内から出て欲しいという。

余震は益々はげしく揺りかえし、下町の方角にあたって、煙りの柱が立った。大火事の龍巻が起っているのであった。

追々、勤先から命からがらの男たちがかえってきた。
庭に頑張って、一晩、二晩、戸板のうえに寝る。
再三追出しの催促がくるので、僕と、もう一人が、日本刀を腰にさして談判に行った。
その見幕で、ともかくも、こちらの言い分を認めさせた。

連日火事は消えず、江戸川を一つへだてて対岸まで燃えひろがった。
そのあいだも、地震はくり返され、つぶれた家から圧死体がはこび出された。

夜は、狐火のようにいろさまざまな焔が燃えて、うつくしいほどだった。

この天災で、多くのものがくずれ去った。
江戸時代からのこっていた建物や什器、その他、二度と存在しないような貴重な物件が烏有に帰した。

なんらかの意味で、過去の完成に支えられていた僕じしんの精神の拠点がゆらぎ出したとともに、日本の崩壊も、そのときにはじまったようにおもえてならない。

単なる一つの災厄ではない。
明治が早幕(はやまく)に築きあげた新しい秩序が、ようやくその素地の無力を露呈しはじめたとも考えられる。

そのどさくさのあいだにおこった朝鮮人さわぎや、左翼書生への神経病的な当局並びに、一般市民の警戒ぶりが、はっきりそのことをものがたっている。
地震のひびわれのあいだから、反政府の思想運動が芽ぶき、人々の心に不安と、一脈の共感をよびさませた。

余震は十日すぎてもつづいた。

各町内に自警団が組織され、椅子テーブルを持出して通行人を一々点検した。
髪の毛をながくしていたために社会主義者ときめられて、有無を言わさず殴打されたうえに、警察に突出されるのを、僕は目撃した。

アナーキストだった壺井繁治などが逃げあるいたり、弘前なまりのために、鮮人とまちがえられた福士幸次郎が、どどいつを唄って、やっと危急をのがれたということが、あっちでもこっちでもあった。

いつもわけのわからない人間が多勢集るというので、僕のうえにも疑惑の眼が光った。隣家の東条という家の二階で、夏休みで帰省している学生の本箱からクロポトキンの『相互扶助論』をみつけて、読みふけっていた。

丁度、大杉の虐殺の事件があって、そんなことが夜警詰所で話題になったとき、それについて、理髪店の主人と激昂して議論をやりあった。
そんなことから痛くもない腹をさぐられた。

暴力団のような男がいて、大曲の河岸で待っているから来いと、僕のところへ申し入れてきた。
誰にも言わず、僕は、日本刀を腰にさして出かけていった。青江下坂の三尺近い細身の長刀で、造りもよく、奈良安親作の赤銅に鉄線の花を彫りあげた精巧な鍔(つば)がねうちのものだった。
まさか、それであいてを切る気でもなかったのだろうと思うが、ゆきがかり上、わきへそらせることのできない融通の利かない性格のために、つい先へ、先へと自信もないのにすすみ出てしまうのはわれながら日本人の、とりわけ東京育ちの弱点を備えていると気づいておどろいたものだ。

先方は、棍棒をもって三人で待っていた。
「この社会主義奴(め)、くたばれ」といって、いきなり一人が棒をふり廻してきた。
僕は、やっと事態のばからしさに気がついて、ニヤニヤ笑い顔をつくっていると、先方も顔をみあわせて、ぶつぶつ話していたが、このへんにまごまごしていない方がいい、二度と顔をみたらただではおかないと凄んだ果てに引上げていった。

左の拇指(おやゆび)と、左の耳のうしろに僕は傷をうけていた。
僕はひどく悲しくなって戻ってきたが、そのために牛込を去って、鶴見の潮田の汐見橋の橋詰にある叔母の家に当分行っていることにした。
つづいて、東京の土地をあとにするような仕儀になった。

・・・・・・

『こがね蟲』は、大震災のために出鼻をくじかれてしまったが、僕はまだ、『こがね蟲』を書いたことを後悔してはいなかった。
しかし、震災以後、僕は、じぶんの作品などよみかえさない人間になっていた。

僕の表情の、どこかの筋肉が引きつってしまったらしい。
それなのに、僕は、じぶんの作品の他人の批判に対して、謙虚を欠いていたが、それも荒々しい震災気分の結果である。
僕の身辺にあつまる人たちは、誰一人そのことを僕に注意してくれなかった。・・・


3.「庭の空地に二百人ばかりの老幼婦女子を避難させた」「川田家」とは

土佐出身の川田小一郎の邸宅。
この時は、息子の龍吉の代である。
小一郎は、岩崎弥太郎を助けて三菱を大会社に育てた人物で、第3代日本銀行総裁。男爵。

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詩人 金子光晴自伝 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)
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金子光晴にとっての震災と、永井荷風の詩「震災」とを対比すると面白い。
交差する部分もある(コチラ
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