2012年1月31日火曜日

永禄11年(1568)12月 信玄、駿府城を陥落す。 家康、遠江侵入。 堺に集結した三好三人衆勢は1万。 [信長35歳]

京都 二条城(2012-01-24)
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永禄11年(1568)12月
この月
・信長、山城妙顕寺へ、義昭下知による妙顕寺への「永寄宿」・「非分課役」等免除を安堵(「妙顕寺文書」)。
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・失脚していた若狭の庶子家武田信方、将軍近習の上野氏に対し、「上意」に応じて遠敷郡賀茂荘の社納について違乱しないと書状を送る。
将軍を若狭の支配者として認め、それに結びつこうとする姿勢をみせる。
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12月3日
・黒田長政、誕生。
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12月6日
武田信玄の駿河侵攻(三国同盟破綻)。
信玄、甲府進発。穴山信君を先陣として駿河侵攻。
12日、薩垂峠で今川勢2万(内応者多い)撃破。この年2月、家康と密約。今川・北条との三国同盟を破棄し駿河に侵入。
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12月9日
・北條氏照、上杉輝虎に武田信玄の駿河侵攻を伝え、盟約を打診。
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12月7日
・松永久秀、大和国人衆の諸城を攻略。
貝吹城(高市郡高取町)の攻防は激戦。久秀軍に多数の討死。
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12月9日
・竹内秀勝・喜多重政、大和法隆寺へ信長への御礼銭600貫文の受領を宗勁・宗純に申渡した旨通知(「法隆寺文書」)。
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12月9日
・家康(27)、遠州・井伊谷城へ入城
武田信玄の駿河侵入と同時に三河から遠江に侵入。本多平八郎忠勝、従う。
12日、引佐郡の菅沼忠久・近藤康用・鈴木重時3人に誓書を与え所領宛行いを約束、遠江侵入の案内役として井伊谷筋から侵略。白須賀、宇津山陥落。
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12月12日
北條氏政、駿河に出陣
17日、先陣、薩垂峠に出陣、武田勢の退路を遮断。
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12月13日
駿府城陥落
武田勢山県昌景・馬場信春先手、駿府市中放火(浅間神社・臨在寺など)。
今川氏真、遠江掛川城へ逃亡。
事前に今川方の内応工作が進められ、瀬名信輝・朝比奈信置・三浦義鏡・葛山氏元らの離反が確認できる。
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12月14日
・家康、井伊谷城・刑部城を攻略。西遠江の諸豪族は服属。
18日、浜松引馬城、久能の久能宗能攻略。家康、曳馬城に入る。
20日、二俣城攻め。無血入城。
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12月15日
・若宮へ親王宣下。誠仁親王を名乗る。
16日、二条晴良の関白「再任宣下」陣儀。
19日、元服儀式。
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12月16日
・信長、大覚寺門跡へ、義昭下知に任せ門跡領・下河原領・功徳院分を安堵(「大覚寺文書」)。
沢与助(近江浅井氏に属した少土豪)へ、近江御園内の神田郷の米方54石と小物成12貫文を宛行う。
一色藤長へ、義昭下知に任せ領知を安堵。
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12月16日
・和田惟政・坂井好斎・中川重政・木下秀吉、松永久秀へ、今井宗久・武野宗瓦の訴訟で信長の和解提案を武野宗瓦が拒否したため、今井宗久の勝訴とした、と伝える。
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12月19日
・武田信玄、常陸の太田資正に対して北条氏の背後を脅かすよう要請。
23日、家康に宛てて、遠江出陣を謝し、更に掛川城の氏真追撃を要請。
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12月24日
・松永久秀、岐阜訪問。骨董名品(「不動国」行などの「名物」)を信長に献上。越年。
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12月25日
・今川氏真、武田信玄に圧迫され、越後上杉輝虎(謙信)の援助を乞う。
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12月27日
・家康、今川氏真が入った遠州掛川城包囲。
信玄重臣秋山信友、一揆扇動し自軍を遠江侵入させる。
翌日、家康は遠江の見付に兵を引き、越年。
翌永禄12年5月、和睦、開城。
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12月28日
・北条氏康、援軍4千を掛川へ送る。
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12月28日
・岩成友通ら三好三人衆5千、境湊近くの和泉家原城攻め。前美濃国主斎藤龍興・宿老長井隼人ら牢人勢も加わる。
義昭に守護を任ぜられた三好継家・寺町左近・雀部次兵衛、自害。
三好三人衆、堺入り、軍勢は1万となる
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