2012年1月19日木曜日

承和15/嘉祥元年(848) 藤原良房、右大臣となる。 上総国で移配蝦夷の反乱

東京 江戸城天主台(2012-01-17)
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承和15/嘉祥元年(848)
この年
・藤原氏と嵯峨源氏の張り合い。
この年、源常(37歳)は左大臣藤原良房(45歳、橘氏公の没後の後任)は右大臣、源信(39歳)は大納言。
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2月10日
移配蝦夷の反乱
この日、上総国から俘囚丸子廻毛(まるこのつむじ)らが「叛逆」したと飛駅奏言(ひえきそうげん、天皇への緊急報告)してきたのに対し、政府はただちに発兵勅符(天皇の緊急動員令)を相模・上総・下総など5ヶ国に対して発給し、共に討伐せよと命じた。
その後、12日、上総国は俘囚57人を斬殺捕獲したと飛駅奏言してきた(『続日本後紀』)。

しかし上総国では、その後も不穏な状況が続き、貞観12年(870)には夷俘の群盗による放火や略奪があり、元慶7年にも市原郡の俘囚30人余りが反乱を起こし、官物の略奪、民衆への殺略・放火を行う。

延暦24年(805)、桓武没の目前、征夷と造都の政策を放棄して以後、小規模な征夷はあるものの、以前のような大規模なものはなくなった。
38年戦争と呼ばれる奈良時代の終わりから平安時代のはじめにかけての征夷は終結し、坂東諸国にようやく復興の兆しが見えてきた。
しかし、俘囚(移配蝦夷)の反乱という形で征夷のつけが回ってくる。
政府は、帰順した蝦夷に対し、田地を与え、税を免除するなどの恩典を与え、集団で諸国に配置した。
その理由は、彼らが軍事力、とくに騎馬戦に長じていたため、治安維持の役割を期待したためであった。とくに西国では、防人の代替えの目的を持っていた。
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6月13日
・「嘉祥」に改元
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8月5日
・京畿大洪水。河陽橋・宇治橋が損傷し、茨田堤が流失。
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8月8日
・摂津国・河内国の洪水被害者に賑給。
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9月19日
・長年大宝(皇朝十二銭の七)鋳造。
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12月4日
・和気斉之、伊豆国に流罪。
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