2012年1月12日木曜日

承和9年(842)1月 前介中井王の暴状 文室宮田麻呂事件

京都 円光寺(2011-12-24)
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承和9年(842)
・この年、豊後国府は、大宰府を通して政府に前介(さきのすけ)中井王の暴状を報告(『続日本後紀』承和9年条)。

院宮王臣家の進出
正六位上中井王は、豊後介に在任中、日田郡をはじめ近隣の諸郡で土地を入手し農業経営を拡大し、稲を農民に貸し付けていた。
任地に根をはった中井王は、交替期がきてもこの地に留まり、「前介(さきのすけ)」として郡司・百姓に対していた
また、彼は、豊後国以外に筑後・肥後国などにも勢力を伸ばしていた。
更に、彼は、農民の調・庸未進の分を代納して倍の利息を強奪していた。

中井王の土着の拠り所は土地経営にあったが、諸郡の土豪・有力農民のなかには、この前介を迎え、これと結ぶ者もいた。
中井王は、彼らと党を結んでその首領となり、国府の権力に抵抗していた。

こうして、地方の不平分子は前介を中核として結合するという形勢が生じていた。
国府も中央も、中井王を無法者として本籍地に還任させる処置をとったが、彼がそれに従ったかは疑わしい。
中井王は、既に任地に根を張り、国府に手向かうほどの実力を蓄え、周辺には彼を支援する地方民が党として結合していた。

桓武朝の延暦16年(797)に国司の土着化を禁圧してから40余年、国法に抗して土着する国司とともに、院宮王臣家と呼ばれる勢力が入り込んできた。

院宮王臣家は、上皇(太上天皇)・親王(天皇の兄弟・皇子)・女院(天皇のキサキ・内親王など)・東宮などの皇室関係者、天皇の子孫に当たる王、藤原氏など上流貴族のイエの総称。

院宮王臣家は家政機関を持ち、経済活動、とくに地方社会に進出し、荘園経営に力を注いだ。
彼らは、低くても五位、一般的にはそれ以上の位階を有し、律令的権威からすれば、国司より位階が高く、優位にあった。
従って、その権威を求めて浮浪人や在地の有力者が傘下に集まり、国府に対して納税を拒否したり、国府からの使者に暴力をしばしば加えた。

『将門記』では、常陸国に居住していた藤原玄明(はるあき)は、広大な田地を耕作しながら、「束把(そくは)の弁済」をせず(まったく税を支払わず)、しばしば税を督促にやってくる国府からの使者(収納使)に暴力を加えたという。
彼もまたいずれかの院宮王臣家と主従関係を結んで国司と対立していたと考えられる。
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1月10日
文室宮田麻呂(ふんやのみやたまろ)事件
この日、新羅人李少貞(張宝高の叛乱軍を鎮圧した閻丈の部下)ら40人が、筑前大津(博多港)に来て、
①張宝高は死に、その副将李昌珍たちの叛乱も討滅されたが、賊徒の一部が日本にやって来るかもしれないから、来たら捕まえて貰いたい
②去年李忠たちが日本に持ってきた品物は、張宝高の子弟たちが遣わした物だから、すぐに返却してもらいたい
と述べた。

大宰府からの報告は、公卿たちの討議に付された。
第一の件は、新羅の内紛に巻き込まれるのは面倒であるし、賊徒として処罰されそうな張宝高の旧部下を新羅の現政権側に渡す謂われもない、ということで無視することにした。

第二の件の検討過程で、張宝高の部下だった李忠たちが持ってきた品物は、前筑前守文室宮田麻呂が差し押さえていたことが露見。

宮田麻呂に問いただすと、彼は、「張宝高が生きていた時、唐国の貨物を買おうと思って宝高に絁(あしぎぬ)純を手渡しておいた。受け取る予定の物は些少ではなかったが、張宝高は死んでしまったので、その部下の李忠たちが持ってきた品物を、代わりに差し押さえた」と返答。

中央政府の建て前から言えば、境外の人が日本の産物を欲しくてやって来たのであれば、交易させてもよいが、こちらから私的に代価先払いの交易を仕掛け、うまくいかないので差し押さえるというのは、以ての外の行為である。
大宰府の官人たちも見て見ぬふりをしている。
これは、「賈客(こかく、商人)の資(もとで)を失うのみならず、深く王憲の制(国家の秩序)無きを表す」行為である、と断定。

しかし、本当は、向こうが日本産品を欲しがっているのではなく、自分たちが舶来品を欲しいのである。露見していなければ、宮田麻呂と手を組んで、裏から舶来品を手に入れようと画策したかもしれない。
しかし、堂々と正論を吐き、差し押さえ品は厳重にリストアップして新羅人に返却せよ、との指令が下される(『統日本後紀』承和9年正月10日条)

文室宮田麻呂は、翌承和10年12月、謀反を計画しているとして密告され、家宅捜索の結果弓矢などが発見される。斬刑のところ、死一等を減ぜられ伊豆に配流となる。

この事件は冤罪らしく、その後まもなく盛行した御霊会の中で、早良親王・伊予親王・藤原吉子・藤原仲成・橘逸勢とともに、文室宮田麻呂の霊が慰められている(『三代実録』貞観5年(863)5月20日条)。
宮田麻呂失脚の理由は、承和の変に連坐した春宮大夫文室秋津の近親者だった、との説もある。
新羅との密貿易にからんで、「知りすぎた男」として封殺されたとの推測もできる。
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