2012年2月19日日曜日

元慶8年(884)2月4日 陽成天皇(満15歳)譲位 光孝天皇(55歳)即位 基経は実質的関白就任

東京 北の丸公園(2012-02-17)
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元慶8年(884)
この年
・黄巣の乱、終わる。
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2月4日
陽成天皇(満15歳)は、基経の主導下に譲位させられる
次に基経が担ぎ出したのは、故仁明天皇の第三皇子、時康(ときやす、光孝天皇、55歳)親王
陽成天皇の大叔父(親の叔父で四親等)。

陽成は、自ら筆をとって譲位の旨を認め書を太政大臣基経に届けさせた。
天皇の方が基経の攻撃に崩れてた。臣僚による廃帝である。

若い陽成に詰め腹を切らせたからには、後継者の人選は基経の責任であった。
基経の札は、陽成の同母弟の貞保(さだやす)親王(11歳)か、廃帝と自分の娘の女御佳珠子(かすし)との間に生まれた貞辰(さだとき)親王(7歳)かであろうと推量された。

基経は、承和の変で良房らによって皇太子の座を追われた恒貞(つねさだ)親王を後釜に据えるという態度にでた。しかし、この廃太子は仏門に入って久しく、これを拒否。
この提議は基経のゼスチュアだったかも知れない。

基経が初めから皇嗣として考えていたのは、仁明天皇と寵姫藤原沢子を父母とする時康(ときやす)親王。
沢子は基経の生母と姉妹。親王は55歳。性格は謙恭寛大で、一族の間で評判が良かったたらしい。文徳の皇后明子(あきらけいこ)は親王に好感を寄せ、遊宴に際しては招いてよくその主人役を依頼したという。
基経は、青年客気の廃帝の後釜に、老成の好人物を据えて王座の安藤を図った。

時康擁立は基経の企図通りに運ばれた。
『大鏡』にあるエピソード:
嵯峨天皇の皇子で、左大臣の源融が、太政大臣基経に対し、「近き皇胤をたづぬれば、融らも侍(はべ)るは」と言ったところ、基経は、「皇胤なれど、姓給(たまい)てただにてつかへて、位(皇位)に即(つ)きたる例やある」と切り返して黙らせたという。

光孝は、仁明の第三皇子で、父から愛護されており、承和13年(846)に四品(しほん、親王の位階の第四位)になり、庄たるべき広大な土地を与えられている。
常陣太守をへて嘉祥3年(850)に中務卿にすすみ、貞観18年(876)には式部卿の地位につき、元慶6年(882)には一品になっている。
傍流として王座からは全く見離なされていたが、親王の中では、陽の当たる道を歩んでいた。

さて、廃帝の陽成、
上皇の在位は65年間となり、冷泉天皇の42年を大きく凌ぐ第1位となる。
光孝の後は、一旦臣籍降下して父の光孝の後をうけて宇多が即位するが、宇多は元侍従であったため、「あれはかつて私に仕えていた者ではないか」と言ったという逸話が「大鏡」に紹介されている。
陽成は、宇多の皇子で再従兄弟でもあった敦仁親王(醍醐天皇)、朱雀天皇、村上天皇と、大叔父の光孝系の皇統継承を見届けた。
82歳で歿。墓は真如堂の西にある陽成天皇神楽岡東陵(コチラ)
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5月26日
・右大弁従四位上橘広相が欠員となっていた文章博士となった(2名体制で1名は菅原道真)。
橘広相は道真の父、故菅原是善の門人。
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5月28日
・光孝天皇、朝廷の博士らに太政大臣の職掌の有無、唐のどの官に相当するかを考究させる。
光孝は、基経の処遇に深く考慮した。
光孝の年齢・閲歴・力量からいえば、即位を機に親政が復活する筈の状況であったが、光孝は敢えてそれを避けた。
光孝の命により、菅原道真・善淵永貞(よしぶちのながさだ)・中原月雄(なかはらのつきお)・大蔵善行(おおくらのよしゆき)らは、中国と日本の諸制を検討した結果、太政大臣は唐の三師三公に当たり、具体的な職掌を想定されていない、という結論に達してした(『三代実録』)。
この時期、惟宗直本(これむねのなおもと)という法家個人によって、『令集解(りようのしゆうげ)』が編纂された時代だけに、日唐の古法制の考証は詳密である。
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6月5日
・光孝天皇、勅を下し、基経の皇嗣決定についての功労を讃え、博士らの論旨に従って宣明。

「朕その賞を議せんとするに、・・・本官の任(まま)にその職行なわせんと思(おも)おして、所司(博士たち)に勘(かんが)えしむるに、師範訓導(天皇にたいする)のみにはあらぎりけり。

内外の政統(す)べざるなくもあるべかりけり、仮傍に(たとい)職とする所なくあるべくとも、朕の耳目腹心に侍(はべ)るところなれば、特に朕が憂いを分かたんとも思おすを、今日より官庁にまして、就いて万政頒(わか)ち行ない、入つては朕が躬(み)を輔(たす)け、出でては百官を総(す)ぶべし、奏すべき事、下すべき事、必ず先ず諮稟(相談)せよ、朕まさに垂供(すいきよう)して(手をこまぬいて)成を仰がんとす。・・・」

(太政大臣の職は師範訓導だけではない、内外の政、すべないものはないから、今日より官庁に座して大政を行い、奏すべきこと、下すべきこと、まず必ずはかり申せと、事実上後世の関白にもあたる任を基経に委ねた)

太政大臣として万機の統裁を基経に委ねる旨を宣言。
「関白」の語はないが、基経に与えられた権限は、後世の関白と同一と看做される。

光孝の次の宇多天皇が、即位直後の仁和3年(887)12月22日に出した勅には、「万機巨細にわたって、百官を指揮し、案件は皆太政大臣(基経)に『関白』し、そののちに奏し下すこと、すべて従来通りにせよ」(『政事要略』巻30。意訳)とある。
「すべて従来通りにせよ」(「一に旧事のごとくせよ」)は、この光孝天皇の勅を承けているので、仁和3年の方が「関白」(関与し、申し上げる)という語の初見ではあるが、実質的には、光孝がこの時に基経に与えた権限を、後世の関白の職掌と同一とみなすことができる
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・光孝天皇、2ヶ月前に自らの皇子・皇女29人を臣籍に降すことを予告しておき、この月、それらに源朝臣(みなもとのあそん)の氏姓を与えた。
この事は、光孝が自らの子供たちを次の皇位に就かせる意思がなかったことを意味する。
この処置は、近い将来、基経がその外孫にあたる親王を皇嗣に立てる場合のことを考慮したためと考えられる。
また、自分の皇子を皇位に就かせる意思がないことは、光孝自身が、自分を中継ぎ天皇として意識していた可能性がある。
しかし、事実は、彼の皇統(仁明の皇統)が以降も続いていくことになる。
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