2012年3月19日月曜日

寛平10年/昌泰元年(898)~昌泰2年(899) 藤原時平が左大臣、菅原道真が右大臣となる。道真「臣は地貴種にあらず、家はこれ儒林」

東京 北の丸公園(2012-03-15)
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寛平10年/昌泰元年(898)
8月16日
・「昌泰」に改元
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9月4日
・諸納言の政務不参

道真(54)は太上天皇(宇多)に諸納言らの政務復帰を諭すように請う。

宇多天皇が譲位の際、奏請・宣行のことは、すべて時平・道真の両人を経るように命じたことに対して他の納言たちは自分たちが疎外されたと疑い、政務をボイコットし、外記庁に出勤しなくなった。
道真は、詔旨は諸卿の政務関与を否認したものではないと説明するが、諸納言は聞き入れない。
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9月18日
・宇多は勅使を下して諸納言らに説明。
この時の納言は、権大納言源光(53歳)・藤原高藤(61歳)・中納言藤原国経(71歳)の3人。
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9月19日
・道真の再奏状。政務復帰なる。
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10月
漢詩から和歌への変化を物語る資料。
この月、宇多上皇は、平安京~吉野(奈良県)の宮滝~竜田道~住吉神社(大阪府)~帰還のルートで御幸。

上皇は、大和国で素性法師(僧正遍昭の在俗時代の子)を呼び出し、近習の者たちと共に和歌を詠ませる。
素性は和歌の名手として知られ、たびたび名歌を披露し、別れ際には、宇多から下賜された馬に乗り、宇多の御衣を羽織ったという。

この様子を見た道真は、「人々以為(おもえ)らく、今日以後の和歌の興衰を」と、随行記『宮滝御幸記(みやたきごこうき)』(『扶桑略記』所引)に書く。
その場にいた人々は、今日以後ますます和歌が興隆するであろうことを感じたという。
この言葉は、漢詩から和歌への変化を捉えている。
道真は、和歌よりも漢詩文に秀でているので、宇多の素性への厚遇に接して和歌の興隆を予感し、複雑な気持ちを抱いたであろう。
この時期以後、和歌は男女間の恋愛の道具のみならず、しだいに貴族の必須の嗜みとして公的にも認められ、以後、中世に向けて多くの勅撰和歌集や個人の私家集が編纂されるようになる。

道真、宇多上皇の吉野の宮滝御幸に扈従(こしょう)した折に和歌を詠む
   このたびは幣もとりあへず手向山
           もみぢの錦神のまにまに
              (古今和歌集)(百人一首)
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昌泰2年(899)
この年
・上野国から再三、群盗の被害甚大と報じられる。
政府は上野国に追討勅符を下し、推問追捕使(すいもんついぶし)を派遣。
推問追捕使は犯罪の調査団であり、発兵権も認められている(寛平・延喜東国の乱)。
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2月
藤原時平が左大臣、菅原道真が右大臣となる。
藤原高藤(天皇の外祖父)、源光(仁明の皇子)は大納言に昇進。
高藤は1年後に内大臣になるが、就任数ヶ月にして没する。しかし、子の定国(さだくに)は、醍醐即位に際し蔵人頭となり、参議をへてこの年末には中納言になる。

道真は、右大臣拝辞の上表で、「臣は地貴種にあらず、家はこれ儒林」と卑下するが、この点こそが公卿たちの反感をかうことになる。
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3月
・道真の嫡室島田宣来子五十の賀
島田宣来子に従五位下を授く
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9月
僦馬(しゆうば)の党の取締りのため、相撲国足柄坂・上野国碓氷坂に関を設ける
この月の太政官符。
「僦馬の党は、坂東諸国の富豪たちで、馬で物を運んでいるが、その馬は皆略奪したものである。
東山道の駄馬を盗んで東海道へ荷を運ばせ、東海道の駄馬を盗んでは東山道へ荷を運ばせている。
上野国と隣国が追捕しても、彼らはその機動力のため足柄坂(東海道にある相模国と駿河国の境の関)・碓氷坂(東山道にある上野国と信濃国の境の関)を越えて逃げてしまう。
そこで、両所に関を設けることにせよ。」(『類聚三代格』巻18)

東国での交通の問題と僦馬の党の出現
律令制のもとでは、調庸は、国司の命令を受けた郡司が民衆を率いて都まで運ぶことになっていた(専門の輸送業者は不要)。
ところが、荘園が発達してくると、収納物を都まで運ぶために、交通の要所で、なかば強制的に馬を徴発(「強雇」)し、荷を輸送させる僦馬の党のような輸送業者に頼らざるを得なくなった。

僦馬の党と東山道・東海道。
宝亀2年(771)10月、武蔵国が東山道から東海道に編入されたことによって(『続日本紀』)、東山道・東海道は官道ではなくなった。
しかし、実際には官道どうしを結ぶ連絡路が必要であり、それが上野・下野国と相模国を結ぶ武蔵道(後の鎌倉街道)として、実際には中世に至るまで、頻繁に利用されていた。
この月の官符で、東海道と東山道を往来する僦馬の党が描かれているが、これは武蔵国を中心としていたと考えられる。
貞観3年、「群盗、山に満つ」という状態で、東国でいち早く群盗が問題化したのも武蔵国である。
その背景には、こうした流通問題が潜んでいるとみられる。
僦馬の党の出現は、こうした律令制的交通の弱点を衝いたものであり、また一方では、坂東の治安の悪化のみならず、新たな流通の出現をも物語っている。
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10月
・道真は、時平と緊張した関係を保ちつつ、宇多の許に足しげく出入りし、上皇はよく詩宴をひらき、道真にその序を執筆させていた。
しかし、この月、宇多は仏門に入り、道真にとっては大きな打撃となる
宇多の入道は、国政も蒼生(たみ)も眼中にない風流三昧の人になろうとしてのことである。

仁和寺で頭を丸め、東大寺で受戒。
その後、密教の修行に励み、延喜元年には末寺で伝法濯頂を受ける。また、比叡山、吉野の金峰山、熊野山などに参詣し、道真の後ろ盾の役割は到底果たせない。

一方、時平は、上皇の出家を直接的な契機として、また道真の右大臣昇進に対する公卿たちの激しい反感をを見て、遂に道真との対決に踏み切る
時平は道真打倒の秘計をめぐらす
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